6-13
悪魔はとっても怖いんだよ、と手を動かしながら瀬良は言う。
中学生どころではない。まるで未就学児のような、空想の存在を本物のように信じる幼子のような口調である。きっとあのころの瀬良は誰にもそれを分かってもらえなかったのだろう。それどころか、その話を聞いてくれる人すらいなかったのではないだろうか。
ガシガシと鉛筆を動かしている瀬良を眺めながら、そして己は分かってやることができるだろうか、と五智は悩む。しかしそんなこともつゆ知らず、と言った様子で瀬良は急に手を止めた。そして「見えなくなった」と五智にスケッチブックを差し出してくる。
「新しいページにもう一回描いてみろ」
「分かった」
素直に頷いて瀬良はまた描き出す。そしてやはりしばらくすると手が止まる。
「見えないよ」
五智はスケッチブックを受け取って、それを確認する。大まかな輪郭は取れている。一枚目はざっくりとした両目が、二枚目は大体の髪型と口元だけが描かれている。
「一端別々に描いてみたらどうだ」
「パーツごとバラバラに描くってことかね」 おう、と肯定しながら五智は瀬良の真横に移動した。描いているところをのぞき込まれることを異様に嫌う人もいるが、瀬良はそのタイプではないだろう。案の定瀬良は気にする素振りもなく手を動かし始めた。目、眉、鼻、口、髪型。そして手や服。どうやら単体ならラフ程度にまで描けるらしい。細かく描き混む前に瀬良の手が止まる。これが限界か、と五智は思った。
「どのシーンを描くか決めるか。家に現れたときか、叩かれたときか、お前の母親が追い払ったときか」
「昔描いたのは家に来たときだよ。どんな絵だったかは覚えていないけれど。だから違うところを描こう。母に追い払われる直前、はどうかね」
「いいんじゃねえか」
肯定しつつも五智は内心不安であった。それは実質、母親が亡くなる直前の光景だ。五智の不安をよそに瀬良はすらすらと鉛筆を滑らせている。マンションの非常階段。その様子を瀬良は苦もない表情で簡素に描き上げる。「私がここに逃げ込んで、下の階に降りようとして、で、悪魔がこっちから追いかけてきた。ちょうど逆光で、もう本当に真っ黒な化け物みたいに見えた。だからこれなら、あんまり鮮明に描けなくても作品になる」
「なるほどな」と五智は感心した。つまり完成させられる可能性が高いシチュエーションを選択したのだ。
当時の私の視点だと……、と呟いて瀬良はまた手を動かす。先ほどとは別の構図で非常階段を描き上げた。そのラフは真ん中だけがぽっかりと空白になっている。ここに悪魔が入るのだろう。
「背景だけはさっさと描いちゃおうかね」
おう、と五智はまた頷く。そこは手助け不要だろう。キャンバスに下絵を描く様子は手慣れたものである。先ほどスケッチブックに描いたものそっくりにできあがる。やはり真ん中はぽっかりと空いていた。
「さっきシルエット描けただろ」
「あー、そうか。とりあえずシルエットだけ描いておけばいいね」
あっさりと言ったわりに、瀬良の手は一向に進まなかった。鉛筆を近づけては止まって、力を抜いて離す。それを何度も繰り返している。
「もう一回こっちに描いてみろ」と五智がスケッチブックを渡すと、瀬良は気落ちした様子で受け取った。躊躇いつつもなんとか紙には描き落とせるらしい。ある程度形になったところでぱっと鉛筆を離す。そして恐る恐ると言った様子で五智を見てきた。
「もう一回そこに描けるか?」
瀬良は頷いてページをめくる。そしてまた同じように描き上げた。
「じゃあそっちだ」
五智がキャンバスを指さすと、瀬良は露骨に困ったような顔をした。それでも立ち上がってキャンバスの前に立つ。やはり鉛筆は接地させられないらしい。五智も立ち上がって瀬良の背後に回った。宙に浮いたままの瀬良の手を、後ろから握りこむ。
「見てた。覚えた。……こっからだろ」
瀬良の手ごと、五智は鉛筆を前に伸ばした。芯をキャンバスに触れさせて、一回、二回とストロークして線を描く。中にある瀬良の手は震えていた。三本目のストロークで瀬良が小さく息を吐いた。未だ強張ってはいるが、震えはそこで止まった。描き出しの位置を合わせてやると、次は自分で動かし出す。
そのまま少しずつ、本当にゆっくりではあるが、中央の空白に描き込みが増えていく。そうしてざっくりとシルエットが現れたあたりで五智は手を離した。瀬良は盛大なため息をついてへたり込む。
「疲れた」
「見えるか?」
「ぼんやりしてるね」
完全に気疲れした様子で瀬良は床に座ったまま言った。五智は真後ろから、そのつむじを見つめたまま尋ねる。
「今日はここまでにするか」
うん、と瀬良は頷いた。
「明日も来る」
「うん」
「色、考えとけよ」
「うん」
今日はもうそっとしておいてやろう、と五智は帰り支度を始める。しばらくすると瀬良がこちらをじっと見ていた。
「なんだよ」
「いや、なんかね。君に絵の指導でもされてるみたいだね。変な感じだよ」
そうだな、と五智は肯定する。瀬良はなぜかちょっとだけ嬉しそうな表情をしていた。




