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七月も終わりにさしかかっている。サークル棟のそばに植わっている木々からは蝉の声があまり聞こえなくなった。メディアでは酷暑という単語が飛び交っている。
五智は汗をだらだらと流しながら自称美術サークルの部屋へと入った。ドアは開け放たれている。瀬良を発見したあの日、サークル室へ戻ってくると見事に扉が破壊されていたのだ。間違いなく巡の仕業だろう。すでに瀬良は窓の前を陣取っており、さすがにエアコンをつけているが開け放たれたドアのせいで冷気は全て流出している。何かで塞ぐべきだろうか、と暑さで朦朧とした頭で考えながら五智は部屋の片隅へどかりと座った。
「誰だね。入ってくるときは名を」
「五智だよ」
食い気味で名のれば「ああ、君かね」とのんきな声が返ってくる。ほかに一体誰が来るというのか。巡もあれから一度も訪れていない。当然五智は連絡もしていない。
Tシャツの襟から空気を送りながら、五智は空いた手で机の上にあるスケッチブックを取った。彫刻は一時中断している。デッサンでもするといいよ、と瀬良に言われたからだ。
五智が「やってみる」と伝えると、瀬良は鉛筆の削りかたを教えてくれた。そのあとは「はい」と棚で埃をかぶっていた教本を差し出してきた。あとはなにもしてくれない。仕方がないのでそれに一通り目を通したのち、見よう見まねでデッサンをしている。
今の題材はそのへんに転がっていた石膏像だ。西洋人めいた顔つきに、くるくるとした巻き毛はいかにもそれっぽい。教本に倣って鉛筆で長さを確認しながら、少しずつスケッチブックに線を引いていく。何が正解なのか全く検討がつかないまま、ただ見たままを、目に見えるそれを取り込んで出力しようと努めた。数メートル先から瀬良が筆を持ちかえる音がする。天井付近から、エアコンの稼働音が聞こえる。それだけだった。
そこに侵入者が現れたのは、ちょうど五智の集中力が途切れた瞬間と同時であった。気配を察して顔をあげると、そこにはまたしても巡がいた。躊躇いなく瀬良に向かって行くので急いで立ち上がり行く手を阻む。
「おお、少しは用心棒らしくなったじゃないですか」
「だれだね。入ってくるときは」
「何しに来た」
「見つけたら連絡ください、って言いましたよね」
「誰だね」
「帰れ」
「巡ですよお」
よくもまあ平然とした顔で来られるものだな、と五智は若干のいらだちを覚えながらも、また連れて行かれては困るので立ちはだかり続ける。しかし背後からは怒りもなければ怯えもない、いつも通りの瀬良の声が聞こえてきた。
「そこのドアを破壊したのは貴様だね?」
「直してあげますよ。お代は四号一枚で結構です」
「いくらでも転がっているだろう。好きなものを持って行ったらいいよ」
「いりませんよこんなゴミみたいなやつ」
巡はちょうど足下にある、放置されたキャンバスをつま先で蹴り飛ばす。前回来たときにパトロンを名乗っていたはずだ。実際に絵を要求しているくせにゴミ呼ばわりとは一体どういうことなのか。確かに瀬良が描いているものはさっぱり理解ができない。しかしゴミは言い過ぎではないだろうか。
五智が訝しんでいる間に巡はスマホを取り出した。さっと操作して画面をこちら側に向けてくる。
「これを描いてください。この人を描くんです。何度言えば分かるんですか?」
そこに映っているのは一枚の油絵であった。中央に大きく女性が描かれている。柔らかなロングヘアの、見るからに優しそうな雰囲気を纏っている。こちらに慈愛の目を向けた顔は実に細やかな筆遣いで表現されていた。
五智が目を奪われていたそれを映し出したスマホは数秒で床に叩きつけられた。虚をつかれた五智の脇を一瞬ですり抜けて巡はまた瀬良につかみかかる。キャンバスが倒れる。ものが散らばる。瀬良が「痛い」と喚きだす。
「おいやめろ!」
引き剥がそうと五智が割って入ると同時にバランスを崩した瀬良の体が、鉄製の巨大なキャビネットをなぎ倒した。斜めにひっくり返りながら見事に角が壁に当たり、そしてめり込んでいった。倒れきったころにはそれはもう見事な穴が空いており、反対側からは隣の部屋を利用しているアニ研のぽかんとした顔が三つ並んでこちらを見ていた。
「それを描いたやつに頼めばいいだろ。なんでこいつなんだ」
とにかく巡を追い払いたい。その一心で五智は彼をなだめる方向へ方針を定めた。対する巡はまたしても瀬良を引きずっていこうとしている。
「描いたのは瀬良さんです」
「知らんよそんな絵は」
「しょうもない嘘をつくのはやめてもらっていいですか?」
「……警察呼びます?」
「すまん。大丈夫だ」
恐々とした様子で穴の向こうから話しかけてきたアニ研の提案をきっぱりと断って、五智は二人を引き剥がす。もはや無用の長物だと思っていたこの体躯もやくに立つことがあるらしい。さすがの巡も本気の五智には力ではかなわなかった。
「一枚くらい描いてやればいいだろ。お前いつも絵ばっかり描いてんだから」
「そうですよ! あなたは話が分かる人ですね!」
何度もこう騒がれてはこちらも困る。油絵などいつも描いているのだ。絵柄は別人としか思えないほどに今のものとかけ離れているが、あれが過去作なのであれば似たようなものは描けるのだろう。この野蛮人をどうにかするより瀬良を納得させるほうが早そうだ、と思っての言葉であったが、どうやら一筋縄にはいかないらしい。未だ床に尻餅をついたままの瀬良は、五智を全力でにらみつけてきている。
「そう言うなら君が描いてあげたらいいよ」
「は?」
「なんでそうなるんですか?」
「だって貴様がほしいのは私の絵じゃなくて、その人物が描かれた絵なんだろう? だいたい、君はその絵を所持しているよね? それ一枚あれば十分じゃないか」
どうにも瀬良は拒否の一択らしい。やばい、ととっさに巡に視線を移すと、案の定じわじわと目線が鋭くなっている。またキレるぞこれは、と五智は身構えた。
「それでも足らないというのなら、ほかのやつに見せてまわればいい。金を積めば描くやつなんていくらでもいるだろうに」
またしても掴みかかろうとする巡を必死に止める。阻まれながらも巡は叫んだ。
「やりましたよとっくに!ほかの連中にも描かせました。でも描いたのは瀬良さんなんですよ! 瀬良さんしか描けないんです!」
巡の抵抗は案の定力強い。それをいなす五智には彼の心境を微塵も理解できなかった。五智が芸術と向き合うようになってからほんの数ヶ月しか経っていない。鑑賞する習慣も当然持ち合わせていなかった。たかだか絵一枚、とどうしても軽視してしまう。なんでそんなに描かせたいのか、どうして描いてやらないのか、五智にはどちらも理解ができなかった。
「社長、お時間です」
知らぬ声に五智は視線を向ける。いつの間にか入り口にスーツ姿の男が立っていた。巡はやっと抵抗をやめ、顔をゆがめながら舌打ちをする。五智を払いのけて出て行こうとする間際、開きっぱなしのスケッチブックを靴の底で踏んだ。それが巡の視界に入ったらしい。
「なんですかこれ」
「五智が描いたやつだよ」
巡は何も言わず、ただ盛大に嫌そうな顔をして出て行った。
サークル室は嵐の去ったあとのように盛大に荒れ果てている。この後に待っている片付けの労力を予想して五智はため息をついた。
「あいつ、出禁にしろよ」
「知らんよ。いつも勝手に押しかけてくるんだから」
「あいつから金もらってんだよな?」
「もらってない」
じゃあなぜパトロンを名乗っているのか。五智が首をかしげると、瀬良は顔を歪めながら毒を吐く。
「ただの基地外だよ。頭が逝かれてるとしか思えないね」
倒れたイーゼルを立て直しながら瀬良はぶつぶつと巡の悪口を続けている。一般的な感性では、少なくとも五智から見れば瀬良も大概おかしい部類である。先ほどの巡のせいでどこかにぶつけたらしく、瀬良は右側の頬骨のあたりが赤く腫れていた。しばらくあざになるのではないだろうか。しかし本人は一切気にとめる様子もなく、荒れた部屋を片付ける様子もなく、イーゼルとキャンバスを戻してから周囲を見渡して散らばったパレットを拾い上げている。周囲のものにべったりとついた絵の具も当然放置して、当たり前のように筆をとった。巡に対する怒りは残っているらしく顔は苦いままだが、やはりいつも通りに絵を描きだしている。間違いなく『変なやつ』だ。少なくとも壁に空いた穴の向こうでは、未だアニ研三人組が困惑した表情でこちらの様子をうかがっていた。
五智は頭を掻いた。そして初めてこの部屋に足を踏み入れた際のことを思い出す。とてつもなく散らかっていた。つまり瀬良はこの荒れ果てた状態の部屋でも気にならないのだろう。面倒くさい、巡の尻拭いをしたくない、この二つの感情が五智の脳内を大きく占めた。結果、まあ片付けなくていいか、という結論に至る。壁の大穴に、つまりアニ研の視線に背を向けて床に座り込む。踏まれたスケッチブックを拾い上げてから石膏像を探した。机の下に転がっているそれを持ち上げると鼻が若干欠けていた。机の上に置き直して、鉛筆を取った。
部屋を片付けて、今後の襲撃に備えて対策を練る。普通の人ならそうするのだろう。五智だって今までならその選択を取ったはずだ。しかし五智には芸術が分からない。だから手本にできるのは瀬良しかおらず、その瀬良が絵筆を取っているのだ。芸術をたしなむものはこの状況で絵を描く。だから己もそれに倣えばいい。五智には正解が分からない。ただ見たままを紙に落とし込む。鼻はまだ描いていなかった。だから欠けた部分をしっかりと観察しながら少しずつ描く。いつの間にか背後の視線は消えていた。線を一本ずつ加えた。目を細めながら影を広げた。瀬良も五智もなにも言わない。鉛筆を置いたころには窓の外は赤く染まっていた。
「できたぞ」
数時間ぶりに声を発した五智は、スケッチブックを瀬良に向けた。ほとんど首を動かさずに瀬良は視線だけをチラリとよこしたが、ふうん、と一言発しただけでろくに反応を示さなかった。
仕方がないので五智は掲げたスケッチブックを膝の上へ戻す。巡のスマホに映っていた、瀬良が描いた絵は五智の脳裏に焼き付いていた。画材も題材も大きく違うとはいえ、その出来はとてもじゃないが比べられたものではない。知識などなくても一目瞭然である。スケッチブックを放って、五智は瀬良の背後に立った。やはりこれもまたあの絵とはかけ離れている。そこに描かれているのが人であることは辛うじて理解できる。しかしそこには精密さやバランス、立体感といったものが完全に欠如している。昔描いていたものは毛色があまりにも違う。抽象画や現代アートに分類されるのだろうか。少なくとも五智には理解ができない。
「お前、あんなに絵うまかったんだな」
「君はあの絵をうまいと思ったのかね」
ああ、と五智が返事をすると瀬良は体ごと振り返った。そうして今まさに描いているキャンバスを指さす。
「じゃあこれは?」
五智は返答に困った。あれだけ描けるやつがこうして一生懸命に絵の具を載せているのだから、これもうまくて価値があるのだろう。しかし五智にはさっぱり分からない。言葉が出ずに無言でいると、瀬良は指さす方向を変えた。床に散らばっている完成品を次々と示していく。
「あっちは? こっちは? あれはいつ描いたやつだったかね。まあいい。このへんのは大概私の絵だろうね。これは?」
「分かんねえ。変な絵だと思う」
「そう」
「でも、お前が一生懸命描いてるのは知ってる」
「……そうかね」
それだけ言うと瀬良はまた興味を失ったように五智に背を向けて絵筆を取った。しばらくそこに立っていたが、瀬良はもう会話をする気はないらしい。
先帰るぞ、と背後から伝えて、五智は部屋をあとにした。




