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普通、と呼ぶにはずいぶんと寂しくて貧しい家庭だったよ、と瀬良は少しずつ語り出した。
父親の記憶は一切ないよ。母親は水商売だったから昼夜が完全に逆転していてね、子供のころは寝ている姿の記憶ばかりだよ。ろくにかまってもらった覚えはないね。そうやって母が寝ているから、うちは日中でもカーテンが閉まっていて、当然電気もついてないから薄暗くて、おもちゃもないし勝手に外へ出るわけにもいかないから私は絵ばかり描いていたよ。クレヨンをすぐに使い終わってしまうから、途中からは鉛筆一本の黒い絵ばかりだった気がする。あまり覚えてないけどね。
遊びに連れて行ってもらった記憶は一切ないんだけど、たまに母が働いている店に連れて行かれたのは覚えているよ。たばこのにおいが充満していて、とにかくガヤガヤうるさくて、そして全体の照明が暗いのにチカチカしてる。普段静かで薄暗い部屋にばかりいるから目が回りそうになるんだよ。だからバックヤードや店の隅でじっとしていた。遊んでくれる人なんていないし、たまに近づいてくる人は軒並み酒臭くてね。結局そこでも一人で絵を描いてたんだよ。
そこに巡のおじいさんが来たんだよ。今を思えば、なんであんな安い店に、あんな大きな会社の創設者が来たんだろうね。今よりは小さかったとはいえ当時はもう既にかなりの大企業だったはずなんだけど。そのあたりの事情は私にはさっぱり分からない。でも確かにあの店に来たんだよ。そして私の絵を見て、すごく褒めてくれたんだよ。
それからだね、小学校が終わると毎日ランドセルを背負って美術予備校に通った。当然最年少だったよ。君が通っていたような、美大を目指すための予備校に小学生なのに放り込まれてね。
お金は巡のお祖父さんが出してくれてたんだろうね。当時はさっぱり気にしていなかったけど。授業料だけじゃなくて画材代も出してくれてたと思う。母は喜んでたよ。でも彼女もよく理解はしていなかった。たぶん無料の託児所だとでも思ってただろうね。そのまま何年も言われるままに通い続けた。ほかにやりたいことも、行きたいところもなかったよ。絵の具を好きに使えて楽しかったし、巧く描くための方法を教えてもらうのも素直に面白かったからね。それで確か、中学二年生くらいのころかな、巡のおじいさんが、絵を買い取るって言い出したんだよ。
それがいくらだったのか、私は知らない。だけど沢山描きなさいって言ってた。そして母には、いいのが描けたら呼びなさい、って言ってたよ。そのときはまだよく分かっていなくて、言われなくても沢山描いてたし、そこからも今まで通り描けばいいと思ってたんだよ。
だけどだんだん、母がおかしくなっていってね。それまで私のことなんて放置同然というか、ネグレクトまではいかないけど、あんまり気にしてなかったんだよ。食事さえ用意しとけば勝手に学校へ行って予備校へ寄って帰ってくるし、家でも大人しく絵を描いてるから後は放置、みたいな。
まず予備校で描いた絵を持って帰ってくるように言い出した。そして描いた絵についてあれこれ聞いてくるようになったんだんだよ。最初は言われるがままに答えてた。そして気づいたら家から何枚かなくなってた。次は何を描くのか、今日はどれくらい描けたのか、家に帰るとそんな話ばかりするようになったよ。それまで絵のことなんてなにも言わなかったのにね。
気づいたら母は仕事を辞めてた。夜になっても出かけなくなったから気づいた。そのうち引っ越すことになった。おんぼろのアパートからもっと小綺麗なマンションにね。
あのね、嬉しかったよ。やっぱり寂しかったんだろうね。ずっと側にいたはずなのに関心なんて一切持ってもらえてなかったから。それが普通だと思ってたけど、いざ見てもらえるようになったらそれが嬉しくて仕方がなくなったんだよ。だから一生懸命描いたよ。沢山勉強して、キャンバス抱えて家に帰るようになった。そうしたら予備校は辞めることになった。上手になったからもう勉強は十分だよ、これからはもっと沢山作品を描いてね、って。そこからはひたすら家で沢山描いたよ。
「それで、それから……それからは」
と瀬良は急に言葉に詰まりだした。言いにくいか、と五智が気を遣って尋ねると瀬良は首を横に振る。
「そうじゃないよ。ただ……よく分からないんだけど」
うちに悪魔が来るようになったんだよ、と瀬良は続けた。
悪魔はいつのまにか家にいて、私の絵にいっぱい文句を言ってくるんだよ。うまく描けたと思っても、こんなのは全然だめって怒ってくる。
だから私は絵の意味を説明しようとするんだけど、そうすると余計に怒るんだよ。
ぱっと見ただけで凄さが分からないといけない。
口であれこれ説明するのは芸術じゃない。
価値のある絵を描かなきゃいけない。
毎日いるわけじゃなくて、たまに現れてはそうやって私を罵ってくる。すごく嫌いだった。
「それで、辞めてほしかったから、たしか絵を描いたんだよ。こんなにも怖いからやめてほしいと伝えようと思ったんだよ、たしか」
五智はしっかりと頷いた。おそらくそれが、あのマンションに飾ってあった絵だろう。
「でもその絵は悪魔には見せられなかったんだよ。母が見て大喜びしてね。さっさと持って行ってしまった。だから結局悪魔には伝わらなくてね。ひたすら描いては悪魔に怒られて、また描いて、怒られて、たまに母が喜んで絵を持っていく。その繰り返しだったよ」
「その悪魔ってのは誰なんだ」
「さあ? すごく怖かったよ」
「話を聞く限り、お前の母親か巡のじいさんだと思うんだが」
「母じゃないよ。母は優しかった」
「でも絵が金になるまえはろくに面倒見てくれてなかったんだろ?」
五智の指摘に、瀬良は不思議そうな顔で首をかしげる。
「ああ、そうだね。そう言ったね」
「違うのか?」
「違わないよ。でも私の母はとっても優しかった。いつだって私の絵を褒めてくれた。たまにしか家にはいなかったけど」
「仕事はやめたんだろ。なんでたまにしか居なかったんだ」
「さあ?」
さあ、ってなんだよ。と五智は訝しむ。しかし当人の瀬良は本当に意味が分からない、と言った表情でひたすら首をかしげていた。まるで子どものようであった。難解な質問を投げつけられた幼子のように首をかしげながら、それでも自分の分かる範疇で言葉を紡いでいる。
「じゃあ巡のじいさんか?」
「……いや? あの人はたまにしか会わなかったよ」
五智は眉間のしわを強めた。この話に登場人物は三人しかいない。瀬良と、母と、巡の祖父だ。そこに第三者が急に現れるのはどう考えてもおかしいのだが、なぜか瀬良にはそれが分からないらしい。
「で、えっと、そう。おじいさんに会いに行ったんだよ。絵を持って行ったんだよ。そうしたらなんかね、いつもは家にしかこないはずの悪魔がそこに来たんだよ。おじいさんはまだ来てなくて、で、悪魔が何でこんな絵ばっかり持ってきたんだ、ってすごく怒った」
五智の疑問は解決しないまま、瀬良はまた話を続ける。一生懸命に記憶をたどっているのは確かであった。五智は口を挟むのをやめ、静かにその話を聞く。
それで怖くて、あともしかしたら、おじいさんに悪い絵を持ってきたってを分かったら母も怒るかも知れないと思って。しかも悪魔がね、叩いてきたんだよ。悪魔はいつも怒鳴るばっかりだったのに、叩いてきた。だから逃げたんだよ。
そうしたらなんか、母が、そう母が助けてくれた。追いかけてきた悪魔を追い払ってくれた。でも母はそれで死んでしまったらしいんだよ。
「それでたくさん人が集まってきたんだけど、たしかそこからだよ。人の区別がつかなくなったのは。いっぱい来るのになんかみんな、みんな一緒なんだよ」
そうか、と五智は呟いた。本当によく分かっていないのだろう。それでも求められるままに、なんとか自分の分かる範囲で一生懸命に瀬良は話してくれたのだろう。端から見れば悪魔の正体は一目瞭然である。五智から指摘するのは一瞬だ。しかしそれを伝えたところで、おそらく瀬良は理解できない。過去を明かすことが目的ではない。見えるようになること、そして描けるようになることが瀬良の願いであり、それを叶えるには瀬良自身が気づいて、納得して、受け入れなくてはいけない。
五智は逡巡した。しかし方法は一つしか思い浮かばなかった。
「描くか」
「なにを」
「悪魔を」
「描いてたよね?」
「俺じゃなくて、お前が」
瀬良は相変わらず子どものような顔で首をかしげている。
「……どうやって? 多分見えないよ?」
「俺が見る。後ろに着いて教えてやる」
「それでうまくいくかね?」
「さあな。やってみねえと分かんねえ」
「……そうだねえ」
五智は立ち上がって、部屋に放置されているスケッチブックと鉛筆を拾い上げた。座ったまま考え込んでいる瀬良にそれを差し出す。「とりあえずエスキースだけでもやってみろ」
やはり納得はしていないらしい。それでも瀬良は「分かった」とそれを受け取ってくれた。




