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京葉文化大学美術サークル及び株式会社スラストーン美術課活動報告書  作者: 荒間文寧


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35/42

6-8

 彼を見送ってから、五智はすぐに外へ出た。そしてその足で瀬良のアトリエへ向かう。徒歩数分だ。物理的な距離だけなら、ないに等しいほど近い。

 数ヶ月ぶりに来た五智は玄関の前で息を吐いた。話をしなければ始まらない。それでもインターホンを押すことを躊躇っていた。そもそも五智は出禁を言い渡されている。押して名乗ったところで中に入れてもらえないだろうし、会話もろくにしてもらえない可能性が高い。であれば五智が執れる手段は一つであった。過去にも一度だけやったことがある。罪悪感がないと言えば嘘になるが、五智にはほかの手が思いつかなかった。意を決してインターホンを押すとすぐに返答があった。

「誰だね」

「……荒木です」

 機械越しの瀬良は一度黙った。バレる要素はないはずだ。五智は息を止めたまま待つ。

「入ってもかまわないけど、絵の話はしないよ」

 絵の話、というのが何を指すのか、当然五智には分からない。しかし尋ねるわけにもいかない。五智はドアノブに手をかけた。鍵は開いていた。

 後ろめたさと躊躇いが、五智の動作を緩慢にする。部屋に上がったころにはもう、瀬良は窓辺で筆をとっていた。表情は不機嫌そのものだ。これでもかと眉間にしわを寄せてキャンバスを睨みつけている。その表情を五智はよく知っていた。まさか、と早足でキャンバスをのぞき込む。そこに描かれているのは人物画であった。口が裂けても巧いなどとは言えない。技術もなにもあったものではない。ただ絵の具の載せ方だけが異常にこなれていて、それ以外はまるで子供の落書きのような、福笑いのような歪な絵だ。

 目の前の絵だけじゃない。五智は周囲を見回す。あちらこちらに放り出されたキャンバスはどれもこれも人物画であった。

「また人物画ですか」

「うるさいね。絵の話はしないって言ったよ。……個展なんて知ったことじゃない。それはそっちの都合だよ」

 張り上げているわけでもないのに、その声色には間違いなく怒気が乗っている。五智は状況を察した。瀬良が人物画を描き始めたことに荒木が怒ったのだろう。あいつとしては個展に出せる絵を描かせたいはずだ。はたしていつからだろうか。少なくとも五智がここに出入りしていたころはまだ風景画や静物画ばかり描いていたはずだ。

「ほしいならいくらでもあげるよ。勝手に持って行って、個展にでも何でも飾ればいい。値はつかないだろうがね」

 嫌みったらしい言い回しに気をとられることなく、五智はいくつも転がっている絵を観察する。あのころとよく似ている。しかし何かが違っていた。違和感は間違いなくあるのに五智は過去の絵と比較することができない。記憶していないからだ。当時の五智はあれを『人』だと、『人物画』だと認識していなかった。だから鮮明に思い出すことは叶わない。

「飾れませんよ」

「だろうね。名と価値が落ちるだけ」

「そうじゃなくて、あなたは隠したかったのでしょう。人が見えないことを」

「いや別に。他人からどう見られてどう思われようがかまわないよ。その他人をろくに識別できないからね」

 吐き捨てるように言いながらも瀬良は手を止めない。こちらを見ない。ただひたすらにキャンバスを睨みつけ、そこに絵の具を載せている。

「ならなぜ必死に人を描くのですか。あなたは誰を描こうとしているのですか」

「君が見ているままだよ。説明や解説はしない。見て分かるものを作らなくてはいけない。解説する余地があるならそれを作品に組み込まなきゃいけない。境遇、年齢、才能、込めた想い。馬鹿馬鹿しいよ。見ただけで全てを圧倒させるような、知識などない人にもその素晴らしさを理解させられるような、そういうものを描かなきゃ意味がない」

「それはだれの言葉ですか」

「……なに?」

「少なくともきちんと学んで、自分で手動かして作ってるやつの台詞じゃない。それどころかそいつは、美術にも作者自身にも興味がない。気に入った作品があれば解説を読む。作者について調べる。背景を、人生を、そしてモデルを知りたいと思う。それが普通だ」

 本当に見えていなかったのは自分自身だ。

 五智の彫刻を見た瀬良を、そしてあれこれ尋ねてくるときの瀬良の表情を、視界に捉えてはいたがきちんと見て、理解していなかったのだろう。どう見たって瀬良は喜んでいた。五智の作品を気に入っていた。だから尋ねてきた。それだけの話ではなかったのか。

 瀬良は黙っている。目を見開いてしっかりとこちらを捉えている。その視界には己がどう映っているのか、五智はそれすら知らない。

「お前は何が描きたい? なにを描いた? どう見えていてなにを表現したいんだ」

 五智の問いに瀬良は答えなかった。代わりに小さな声で言った。

「貴様、誰だね」

 瀬良は間違いなく五智を見ていた。五智へはっきりと視線を向けていた。

「荒木じゃないよ。あいつは美術なんてなんにも分かってないからね。己の仕事を全うするための知識は身につけているけど」

「俺は」

「いや、名乗らなくていい。名乗ったところで真偽を確かめる術がない」

 瀬良は相変わらず小さな声で、でもはっきりと言った。

「出て行け」

「精密さや正確さだけが芸術じゃねえ。どうやって生きてきた? 何を考えてる? 何が見えてるんだ。風景画や静物画ならそれができてるだろ。人物画だって同じように描けば昔みたいに」

 だらりと下がっていた瀬良の腕が急に持ち上がる。憎しみを顔全体に含んで腕を振り上げるその様子を五智はよく知っていた。あの日の永旗そっくりであった。五智はとっさに腕で自身の顔を覆う。瀬良の手の内にあった筆がそこに当たる。五智の腕に、そして床に、油絵の具をまき散らしながら転がっていく。「昔みたいに! 昔みたいに何だね!? みんなが評価してくれる? 褒めてくれる? 分かってくれる? 馬鹿馬鹿しい。それが誰かも分からないのに! どこの誰で、どんな顔で見てるかも分からないのに! たとえ聞いたところで本心かも分からない! 数歩でも動いたらもう他の人と区別もつかないのに!」

 出て行け、出て行けと叫びながら、瀬良は手元にある物体を手当たり次第投げつけてくる。五智は黙った。数十秒間、ただの的と化し、そして一つのため息だけを置いてアトリエを後にした。

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