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その日から五智のアトリエはオフィスに戻った。治る前と変わらない。皆がパソコンに向かい合っている片隅で、五智だけが木を削っていた。しかし彫っているものはかつてとは違う。以前はひたすら頭の中身を吐き出すように、見た人のコピーを作っていた。
今はひたすらに自分自身を彫り続けている。もう何体目かも分からない。五智の周囲に転がっているのは全てがその残骸だ。一向に納得ができない。まだ何かが足りない。たまに誰かがコーヒー片手にやってきては、休憩がてら五智の周りに放置された木彫りを手に取って眺めている。しかしそこに五智は表現されていない。されきっていない。違う、と五智はまた一つ、今彫り上げたばかりの像を脇へ置いた。そして躊躇いなく新しい木材を手に取る。
そこへふらりと寄ってきたのは永旗であった。あれ以来、彼女が影絵を作る姿を五智は一度も目撃していない。毎日パソコンを操作しては上司やほかの社員と仕事の話をしている。
「やっぱり五智さんはすごいですね」
そのうちの一体を手に取って、まるで独り言のように永旗が零す。
「俺の彫刻に価値なんざないぞ」
五智は聞きたいことが二つあった。話すならきっと今だろう。木材に大まかなあたりを書きながら五智は口を開く。
「なんで残った」
永旗はなにも言わなかった。五智は顔を上げる。そしてもう一つの質問も投げつける。
「影絵はもうやらねえのか」
彫刻を見ていた永旗はちらりと視線を動かした。巡の席だ。そこは空っぽであった。
「辞表持って行ったら社長に言われたんです。普通にこの会社で働くつもりで来たんでしょう? 別に辞める必要はありません。教育係もきちんと着けますから、そのまま働いてください。と」
永旗は持っていた彫刻をそっと五智のデスクに戻す。
「ただし芸術家としての支援はしません、ともはっきり言われました」
だろうな、と五智は相づちを打った。永旗が雇われたのも、五智に美術を習えと進められたのも、あくまで瀬良を治すための足がかりにすぎない。巡がこれ以上支援する意味は残っていないのだから、五智の知る彼はそういう判断を下す男であった。
「どのような背景があろうとも、あれをたたき壊せる人を芸術家として支援するわけにはいきません、だそうです」
あれ、と五智は復唱した。何を指すのか一瞬理解できなかったからだ。数秒経って脳裏に浮かんだものを、五智はやはり理解できなかった。しかし永旗がたたき壊したものなど一つしか知らない。そもそもあれは、五智が人生で初めて作ったと言っても過言ではない、作品としての彫刻は、いったいどこにやったのか。五智はその所在を知らない。気にもしていなかった。
「社長のデスクの、一番下の引き出しです」
五智の心でも読んだかのように、永旗は巡の机を指さして小さく笑った。そして自身のデスクへと戻っていく。信じられない心持ちのまま五智は立ち上がった。巡のデスクに近寄り、かがみこんで一番下の大きな引き出しを開ける。
そこには間違いなく五智が作った彫刻が横たわっていた。破損した姿に似つかわしくない、濃い色をした別珍に、そしてその下に用意されたであろうクッションへ深く沈み込んでいる。五智は半信半疑でそれを手に取った。その下には小さな透明の袋があった。細かく彫り上げたせいで飛び散ってしまった細工部分の破片がまとめて一緒に保管されている。
硬直する五智に「すみません」と声をかけてきたのはあまり関わりのない、永旗の次の年に入ってきた新卒の社員であった。
「五智さん、お客さんが来てるらしいです」
「客? 俺にか?」
「はい。今内線で連絡ありました」
アポなど当然あるはずがない。そもそも己に用がある人物など一人も思い当たらない。五智は訝しんだまま受付カウンターへ向かった。
そこで待っていた人物に、五智は素直に驚いた。美大時代の同期である。会うのは果たして何年ぶりか。普通に卒業以来初めて会う気がする。驚きを隠せないまま五智は「久しぶりだな。どうした急に」と用件を聞いた。
「お前失踪してただろ? そんときに荒木って人が俺のところへ探しに来てさ」
ああ、と五智は合点する。確かに己を探しに来たのが荒木であった。捜索の過程で同期をあたりに行くのは確かにあり得る行動だ。「で、無事見つかりましたって連絡はもらってたから。知り合いの個展見に来たついでに顔出してみた」
なんかすげーいろいろあったんだろ? 大丈夫か? と続けて心配そうに彼は言う。特筆して交流が深かったわけではない。それでもこうして会いに来てくれる彼の社交性に五智は感心した。立ち話もあれだな、と五智は彼を一番小さな会議室へ通した。少しばかり悩んでから茶を淹れに行く。そして給湯室で大いに困惑した。どれを使っていいのかさっぱり分からない。助けてくれたのはアニ研卒の彼であった。ついでに会議室の使用状況もシステム上で変更してくれた。至れり尽くせりである。そして年単位で勤めているはずなのに何もできないことを五智は少しばかり後ろめたく思った。
茶を持って会議室へ戻ると、同期はキョロキョロと室内を見回したまま「すげえな。本当にこう、普通の会社って感じだ。お前こんなところにいたんだなあ」などと物珍しそうにしている。気まずいので五智はリアクションをしない選択をした。彼も特に気にすることなくすぐ本題へと話を変えた。
「お前の記憶力を無くす、とか言ってたけど」
「ああ、治ったぞ」
「じゃあもう人の顔は一瞬で覚えられないのか」
「ああ」
「お前、それでいいのか」
「おう。そこは別にかまわねえ」
「そこは?」
首をかしげる同期に「ちょっと待ってろ」と告げて五智はオフィスへ戻る。自身の作業スペースから、比較的新しい彫刻を三つばかり拾って会議室へ急いだ。
「今作ってんのがこれだ」
同期の目の前に並べておくと、彼の顔には露骨に驚愕が浮かんだ。目を見開いたまま一番隅に置いた彫刻を手に取る。
「な、にこれ。お前いつの間にこんなの作るようになったん?」
くるくると角度を変えながら、彼は彫刻を眺めている。驚きの表情はすぐに消えた。そして徐々に歓喜へ変わっていく。瀬良も似たような顔をしていた、と五智は無意識にアトリエの様子を思い出していた。
「なんか全部似てね? なに? シリーズものなの?」
「納得いかねえからいくつも作ってんだ」
「へえ。手に持ってる布はなんだ?」
「目隠しが取れた、ってイメージだな」
「なんでスーツ?」
「普通っつーか、会社に溶け込んで与えられた仕事をこなす存在の明喩だ」
「そのわりに持ってるものはサラリーマンぽくない、と思ったけどこっちのはそうか。あ、なにこれ、持たせるもので迷ってんの?」
そうやって同期はあれこれ質問を重ねてくる。嬉々とした彼と対照的に、五智は当然気落ちしていった。やがて彼の質問を遮るように呟く。
「やっぱ見ただけじゃ分かんねえよな」
「え、なに?」
「見て分かるものを作らなくてはいけない。解説する余地があるならそれを作品に組み込まなきゃいけない」
「……なにそれ。お前それ誰に言われた?」
五智の言葉を理解した彼は、先ほどまでの楽しげな雰囲気をもう纏っていなかった。声のトーンが下がり、五智を射貫くように見つめてくる。
「少なくともきちんと学んで、自分で手動かして作ってるやつの台詞じゃない。美大時代に散々講評されただろ。教授に向かって何度も説明しただろ」
「あいつはちゃんと描いてる。しかも巧い」
「じゃあ思い上がってる馬鹿。もしくは、そいつ自身の言葉じゃない」
なあ五智、と彼は改めて呼びかけてくる。
「なんで俺があれこれ聞いたか分からないのか。人が作品の詳細を尋ねてくる理由なんて三つしかないぞ。一つは仕事のため。講評するため、記事を書くため。仕事で知らなきゃいけないから。もう一つは会話のため。作家自身と良好な関係を築くきっかけとして」
どっちも違うだろ、と五智は答えた。一つ目も二つ目も、こいつも瀬良もどっちも違う。
「そうだよ。だから理由なんて実質のところ一つしかない。お前だって経験あるだろ」
そして彼は躊躇いなくそれを口にする。五智は彼の社交性に感心した。その素直さは、五智も瀬良も持ち合わせていないものだった。




