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というわけで治したくなくて逃げた説が有力ですかね、とスマホを顔の側面につけたまま荒木は言った。電話の相手はもちろん巡だ。
「で? どこへ?」
「そこまではまだ。新しいパトロンでも探してるんじゃないですかね」
「それは無理だと思いますよ? だってあの人の作品、価値がないですから。巧いんですけどね。技術はちゃんと身についてるんですけど」
やはり五智の評価は低いらしい。ところでそれは誰がどんな基準で決めているのだろうか。先ほどの同期も面白みがないと言っていた。一方で瀬良の絵も写実的なものが多いがきちんと客も来るし売れている。先ほどの彼はアート一本で食っていけているのだろうか。荒木には構造がさっぱり理解できない。
「じゃあ働きながら制作を続けていくつもりとか。……だとしたら探すのはかなり困難ですけど。就職先なんて無限にありますよ」
「まあ、逃がすつもりはありません。僕にとっては、五智さんの作家生命などどうでもいいですから。引き続き探してください」
不満たらたらで「はい」と返す荒木に向かって巡は「そうそう」と続けた。
「あと、瀬良さんの面倒を免除したわけじゃないですから、ちゃんと見ておいてくださいね?」
じゃ、引き続きよろしくお願いしますねー、とあっけらかんと言って一方的に電話を切られる。荒木は盛大に舌打ちをした。手がかりはないし、普段の仕事に追加して五智探しを押しつけられただけである。終わった暁には昇給でもしてもらわなければ割に合わない。
とはいえ当てはさっぱりないので、翌日荒木はいつもの仕事場へ赴くことにした。瀬良のアトリエである。在廊を免除された瀬良は早々に神戸から戻ってきたらしい。面倒を見ろって社長から直々に言われたので仕方がない。
手持ちのカギで玄関を開ける。その時点で違和感はあった。しかし気づかないままおはようございますと挨拶をしてリビングへ入った荒木の前には、見たことない光景が広がっている。
「だれだね。ここに入ってくるときは」
「荒木です。ほかにカギ持ってる人いないでしょう」
「ああ君かね。あれ? 久しぶりだね」
振り向いた瀬良の向こうでピカピカとテレビが光っていた。ごちゃごちゃとした室内と立てられたキャンバス。それは今までと変わらない。しかしテレビなど存在しなかったはずだ。つまり荒木がいないすきに瀬良が購入してきたに違いない。常識的に考えればそうなのだが、荒木が常に見ていたのは空き時間を全て絵に費やしている姿であり、その瀬良が自らテレビを入手してきてのんきに見ている姿はにわかに信じがたい光景であった。しかもついているのはバラエティ番組である。有名な大物芸人を司会に、ひな壇に座る若手芸人やアイドルがわいわいと画面の中で騒いでいる。
「どうしたんですかそのテレビ」
「買ってみたよ。あ、これレシート」
ああ、はい。と荒木は受け取る。経費で落とせるだろうか。巡は瀬良に甘いから大丈夫だとは思うけど。
「面白いですか」
「全然。誰が誰だかさっぱりだよ」
当然の感想だ。個が認識できない状態で、大勢の人が話しているところ見たところで面白いわけがない。じゃあなんでそんなもの見てるんですか、と荒木が聞くより先に瀬良が問いかけてきた。
「五智は見つかったかね」
「いえ、まだです」
「そう」
それだけ言って瀬良はまたテレビに向き直ってしまった。それにしてもこのアトリエで描かずにのんびりしている瀬良、という光景はどうにも不自然だ。もはやほかにも変なところがあるのではないか、と荒木は周囲を見回す。窓辺に立てられたイーゼルの絵に見覚えがあった。というかここで最後に見たものだ。あれから手が着けられていない。まさか、と普段完成品が置かれている棚を見る。知らぬ絵が一枚もなかった。ということはあれから油画は全く描いていないと言うことだ。天変地異か? と荒木は血の気が引いた。移動中はもちろん、個展の最中ですら客をほったらかしてスケッチブックに向かっているのに。
「描いてないんですか」
「うん」
「描いてくれないと困るんですけど」
「五智と永旗の作品を見たらまた描くよ」
ということはつまり、荒木が五智を見つけるまで描かないということだ。勘弁してくれ、と荒木はため息をついた。一朝一夕で描き上がるものじゃない。次の個展はいつになるのか。巡がこうも悠長に瀬良の治療を待ってくれているのは個展で稼いでいるからだ。開催できませんなどと報告したら巡に何を言われるか分かったものではない。荒木のボーナスが大幅に減給される可能性すらある。
描けば描くだけ金になるのだから、こちらとしてはひたすら手を動かすところはありがたいと思っていた。瀬良本人としては金は不要らしいが、それでも作れば価値を見いだしてその絵を必要としてくれる人がいるのは間違いない。
それに対して五智は、と荒木は彼に同情した。同期にも巡にも作品はずいぶんとぞんざいな言われようである。それでも彼はあのオフィスで大量の彫刻を生み出していた。そのモチベーションはどこから来ていたのか。
「あの、瀬良さん。美術作品の価値ってなんですか?」
「値段だよ」
飛び出してきた言葉は荒木の予想から外れたものであった。この人がそれを言うのか、と素直に驚く。
「値段というのは価値を数値化したものだからね。その値段で買う人がいる、ということはそれだけの価値があるということだよ」
「じゃあ、値がつかない作品は価値がないということですか」
「市場に出したのに値がつかなかったら、世間にとっては価値がないね。売買されたことないから値がついてない、なら当然無価値とはいえないし、それに世間にとっては価値がなくても個人間ではそうでない場合もある」
瀬良はたまにこうしてべらべらと喋るときがある。大概荒木は聞き流すのだが、今日ばかりは真面目に聞くことにした。
「君には娘がいたね?」
「はい」
「幼少期の娘が描いた君の似顔絵は、市場に出しても値はつかないね。でもきっと君にとってはそれなりに価値があったはずだよ」
荒木は自宅の玄関を思い出す。幼少期に娘が描いた家族の絵は未だそこに飾られている。もはや荒木にとっては風景と同化しているが、それを捨てようとするものは荒木家に一人もいない。
「五智さんの作品は市場価値がないんですか?」
「さあね。巡は外に向けて売ってるのかね」
「売ってないと思います。私が調べた限りでは」
実際は調べてなどいない。しかしあの言い方ではおそらく市場には出していないだろう。
「じゃあ分からんね。作品を見たところで、きっと私には見えないだろうから判別のしようがない。君は見たのかね」
「はい。一応」
「君の見立てではどうかね」
どう、と言われても荒木は彫刻を評価するだけの知識と感性のものさしを持ち合わせていない。しかしここで濁すと小馬鹿にされてまた蘊蓄が始まることはよく理解していた。よって荒木は人の言葉を借りることにする。「ものすごく現実に忠実です。例えるなら証明写真、ですかね」
どうやら正解を引いたらしい。瀬良は「証明写真!」と復唱してケラケラと笑いだす。
「それはいいね。……寡黙で真面目なやつだったから。ずいぶんと巧くなってるようだね」
昔はね、人の形すらしてなかったんだよ。と瀬良は笑い涙を拭きながら懐かしそうに呟いた。
「五智さんの能力は生まれつきじゃないらしいんですよ。永旗さんのお兄さんの事故からです。だから今回の件でそれが解消されるのを恐れて……」
「……能力?」
荒木の言葉は遮られた。え、と荒木も口を止める。目の前の瀬良は小首をかしげていた。もしかして知らないのか。てっきり認知しているとばかり思っていた。五智本人は伝えなかったのだろうか、と考えたが、人の区別がつかない人にそんなことを教えるのはずいぶんとデリカシーがないし、五智失踪後の永旗の話でもそれについては触れていなかった気がする。であれば知らなくても不思議ではない。
「五智さん、一度見た人の顔を忘れないんですよ。一度駅ですれ違ったレベルの人でも完璧に覚えているようです」
「それで証明写真、か」
へえ、と言いながら瀬良は顎に手を当てる。何やら逡巡しているらしい。そして斜め上を見たまま荒木に質問してくる。
「君が見たのは作品かね? それとも習作かね?」
「どういう意味ですか?」
「だから、五智が作品として制作したものかね? それとも練習として作ったものかね?」
質問の意図が読めず、荒木は困惑する。あの日見た彫刻たちは確かに精密で手が込んでいた。とても練習とは思えない。
「作品じゃないんですか? アトリエ代わりの場所を見せてもらいましたけど、そんなのばっかりずらっとありましたけど」
「なにを表現していた? なんの意図が込められていた? ただひたすらに実在の人物を忠実に再現しただけ?」
「……それは作品とは呼ばない、ってことですか?」
「というより、五智はそれを作品として制作してないんじゃないかね?」
「いや、瀬良さんいつも『見たままに描くだけだよ』とか言ってるじゃないですか。風景画とか」
「それは言葉のあやだよ。その『見たまま』には感情が含まれてる。温度や空気、風の冷たさ、私がそれをどう感じたか。目から得た視覚情報にそれらを足したのち脳で処理してキャンバスへ吐き出す。でも五智がやっているのはそれじゃない。見た目を完璧に記憶しそれを出力しているだけの可能性がある。仮にも美大で学んだのだろう? であれば作品の作り方も学んだはずだよ」
こちらをガン見しながら瀬良がまくし立てる。荒木は頭痛を覚えた。分かるだろう、と言わんばかりの態度に嫌気を覚える。分からない、というか分かりたくないから芸術家の感覚とは一線を引いてきたのだ。知ったことではない、と吐き捨てたいのを我慢して、荒木はなんとか答えを導き出す。
「じゃああの人はずっと、何年も練習だけをしているってことですか?」
その言葉に瀬良は大きく頷いた。
「美大の同期と会って話してきたんですよ。「作風と彫ってきた過去ごと消すのと一緒」と彼は言ってましたが」
「じゃあ美大時代から同じようなものばかり彫ってたってことだね」
美大進学の時期を考えれば、五智は七年間もひたすら練習に明け暮れているということだ。卒業後もあのオフィスで一人、黙々と練習だけを重ねていたことになる。
なぜそんなことを? とまた頭をひねりながら、荒木は一つの可能性を口にした。
「来る本番に向けてひたすら練習を重ねていた、ってことなんですかね。そうなると本番がいつなんだって話ですけど。……もしかして今ですかね」
「その可能性もあるけど……。もう一つ。アイデアは出し尽くしてからが本番」
「はあ」
「ぱっと思いつくものを全て出し終えてから、そこからさらにひねり出してこねくり回したものこそ自分のアイデアになる。それが作品の根源になる」
なるほどそれっぽいことを言っている。しかしそればかりは五智には当てはまらないのではないだろうか、と荒木は反論する。
「キリがないじゃないですか。駅ですれ違った人すら全員覚えてるんですよ。出してるそばから入り続ける」
「出し尽くすつもりなら、入らない環境に身を置くしかないね」
「人に会わない環境に引きこもってるってことですか? そして事故から数えて九年間で見た全ての人を作り尽くそうとしている、と」
「俄然楽しみになってきたね。五智が作る、初めての作品が見られるかも知れないよ」
あなたは見えないでしょう、と荒木は思う。
しかし瀬良はそう思っていないのかも知れない。見えるかも知れない、という期待を抱いているのだろうか。
「きっとテレビも見てないよ。なにせこんなにうじゃうじゃ出てるんだから」
そう言って瀬良はまた見えもしないバラエティ番組へ向き直った。
五智の居場所が分かったのは、それから三ヶ月後のことである。




