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五智が通う京葉文化大学の美術サークルには二人の生徒が在籍しており、第二校舎横のプレハブ小屋、通称サークル小屋二階の一番奥の部屋を部室として使用している、と思っている生徒は多い。これは誤りである。美術サークルは正式なサークルとして認められていないからだ。つまり正確には、美術サークルを勝手に名乗る生徒二名がプレハブ小屋の一番奥を不当に占領している、というのが正しい。そのうち一名が五智である。彼がそれを知ったのは夏期休暇直前のことであった。
大学に入ってから初めて経験する試験期間は、意外にも淡々と過ぎていった。夏期休暇を目前としたキャンパス内には、試験終了の開放感とともにとにかく緩んだ空気が蔓延している。五智は浮かれた生徒らの隙間を縫ってプレハブ小屋へ向かった。一歩上がるたびに鉄板製の階段はカツカツと音を立てる。
一番奥、立て付けの悪いドアを開けるとすぐに独特の匂いが鼻をつく。油絵用の絵の具の匂いであった。それと同時に熱気が五智の全身を襲う。彼は無言で入室して、放置されたリモコンをすぐに取った。躊躇いなく押すとすぐにエアコンが稼働する。床に散らばる紙類を拾い上げながら、五智は部屋の一番奥、窓の前を陣取っている人物に小言を呈した。
「エアコンくらいつけろよ」
「どちら様だね?」
窓と直角に並べられたキャンバスから目も離さずに、そこにいる人物は冷たい言葉をよこしてくる。
「五智だよ」
「あっそう。私に話しかけるときはまず名乗れと教えたはずだけどね。君は言うことを聞かないね」
床を埋め尽くしていた紙類の一部を拾い上げてローテーブルの上に置く。そして五智は改めて部屋の奥を見た。
そこを陣取っている人物は瀬良という。こちらを一瞥もせずにキャンバスへひたすら絵の具を載せていた。肩よりも少し長い髪は金色になるまで脱色されており、毛先には青やらピンクやら様々な色が入っている。それも時期に消えるだろう。瀬良は一ヶ月おきに髪の色が変わる。ウェーブだけは常にかかっているからおそらくくせ毛だ。
女にしては長身だが、男だとしたら低身長に部類される。女なら声が低いが、男にしては高すぎる。何度見ても、何度しゃべってもどちらなのか分からない。五智は毎度首をかしげて数秒考え、まあいいか、と結論づけていた。別にどちらでもかまわなかった。
五智は空いた床にビニールシートを引いた。削りかけの木片と彫刻刀を用意してどかりと座る。そして一呼吸置いてから刃を入れた。
美術サークル室はとにかく静かだ。瀬良が筆を置いたり絵の具を出すさいに発する音と、五智の発する小さな削り音だけが空気を震わせている。壁が薄いせいでまれに隣を使っているアニ研の笑い声が聞こえてくるが、今日はだれもいないらしい。
五智が彫刻を始めたのは入学してしばらくのことだ。仏像をメインに作っている。芸術とは無縁の人生を送ってきた。小学生のころは図工の時間にふざけてよく怒られていた。中学以降の美術の授業は一切記憶にない。おそらく寝ていたのだと思う。
まさか自ら進んでやるようになるなど、数ヶ月前までは予想だにしなかった。今仕上げている仏像は、試験前から少しずつ作ってきた。図体と比例するように大きな手でちまちまと木片に刃を入れる。思い通りに削れたことはまだ一度もない。それでも黙々と、小さなそれを少しずつ形作っていく作業に五智は没頭していた。視覚と思考はもちろん、聴覚や嗅覚までもが目の前の木片だけにフォーカスされる。それ以外のものが全て消える。それが心地よくて仕方がなかった。それこそが今の五智が求めているものだった。
素人なりになんとか顔を整えて彫刻刀を置く。「できたぞ」と呟いて五智は立ち上がった。部屋の奥へ進んで、できあがったばかりのそれを手渡す。瀬良は筆を置いて仏像をしげしげと見つめた。
「相変わらず下手くそだね。人の形をしていないよ」
はい、とすぐに興味なさげに返されてしまう。この数ヶ月、瀬良からは酷評しかされていない。人の形をしていない。瀬良は毎度そう繰り返し言っている。
五智はため息を一つついて、壁に備え付けられた棚に仏像を置いた。これで八体目である。多少は上達した気でいたが、並べてみると前回とそう代わり映えしない。さっさと切り替えて五智は部屋を片付ける。ビニールシートや木くずを撤去したついでに、瀬良が散らかしたものも追加で拾い上げる。全て瀬良が描いたものだが、完成品なのかどうかすらよく分からない。瀬良はいつも人物画を描いている、らしい。これは人の顔らしい。五智には芸術がよく分からない。だからこれらがどういう意図で描かれていて、どのくらいうまいのかさっぱり分からない。
「雑用係がもう二人くらいいると便利なんだけどね」
価値の検討はつかないが、瀬良はいつだって傲慢でお高くとまっている。それは自信に基づいている可能性が高く、よってあいつは多分うまいのだろう、とよく分からないままに五智は結論づけていた。
「そもそもよく二人でサークルとして成立してるな」
「してないよ。勝手に名乗ってるだけ」
「……なんだって?」
「だから、勝手に美術サークルと名乗ってこの部屋を占領しているだけだよ」
入学早々入ったにもかかわらず今更知らされた衝撃の事実に五智は硬直した。いや、入ってすらいないのだろう。そもそも存在していないのだから。
五智の様子など気にもとめずに、瀬良は涼しい顔でキャンバスに絵の具を載せている。いつも通りに黙々と絵を描いている。
夏期休暇が始まっても瀬良はサークル室を陣取っていた。五智は十時過ぎにここへやってきたが、やはり今までと変わらない様子で絵を描いている。五智も変わらず新しい彫刻へ取りかかった。いつも通りの自称美術サークルとなにも変わらない。精々五智のいる時間が長いだけである。瀬良に関しては分からない。こいつは講義に出ているのか、と常日頃から疑問に思うほどここに居座っている。
そんな日常が破られたのは十二時を過ぎたころであった。いきなりサークル室のドアが開かれたのだ。五智がここに来るようになってから、瀬良以外の人物がここを訪れたのは初めてのことだ。
そこに立っている男を、五智は当然知らない。靴も脱がずにまっすぐ室内へ上がってくる。細身のスーツに若干色のついたサングラス。うさんくさい男だな、というのが正直な第一印象であった。
「ん? 誰だね。ここへ来るのは私とそこの五智くらいしか」
相変わらず視線も向けず話しかける瀬良に向かって、入ってきた男は唐突にその顔面を殴った。イーゼルに立てかけられたキャンバスを巻き込みながら瀬良は窓にぶつかって倒れる。ノータイムで繰り出された躊躇いのない暴力に、さすがの五智も反応できなかった。「痛い! なんだね貴様は!」
「なんだね、じゃないでしょう」
瀬良の左半身には、乾いていなかった油絵の具がカラフルにべったりとついている。それを気にもしない様子で男は尻餅をついている瀬良の髪を鷲づかみにしていた。
「あなたのパトロンですよ。巡宗佑です。お久しぶりですね」
巡と名乗った男は瀬良の髪をつかんだまま周囲を見回している。そして露骨に顔をしかめた。
「こんなものばっかり描いて、いつまでピカソ気取りでいるんですか? 実力あるくせに底辺美大生みたいなの発病しないでください」
痛い痛いと未だわめく瀬良を、巡はもう一度殴った。骨が骨を打つ音が部屋に響く。ほら行きますよ、と平然とした声色で言いながら巡は瀬良を入り口まで引きずった。
そこでやっと男は五智を見る。五智が握っている木片を視線で示した。
「……なんですか、それ」
「仏像」
「用心棒でもしてたほうがマシじゃないですか?」
鼻で笑う、とはまさしくこういうことを言うのだろう。盛大な侮辱を残して男は去って行く。引きずられている瀬良は未だわめいているが、五智に助けを求めることは最後までしなかった。




