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それから永旗はひたすらデッサンを続けた。師であるはずの五智はあまり教えてはくれない。鉛筆の削り方と、紙への当て方や道具の使い方は一通り教えてくれた。後はこれを読め、と教本を渡されて後はほぼ放置だ。
永旗は渡された三冊の本を頼りにひたすら見よう見まねで鉛筆を滑らせる。
「無心でやれ」と五智は言う。永旗は永旗は頷きながらも内心「無理でしょ」と思っていた。たった一つの物体を書き出すために見るべきものが山ほどある。大きさ、距離、形に色、質感。そして影と光。それらをかみ砕いて飲み込む。脳から出た信号が右手を動かし、それに連動して動いた鉛筆が一本の線を紙に残す。それをつなぎ合わせた形は微塵も想像通りにならず、寝かせて塗った面はいつまで経っても白黒で色など微塵も再現できない。
一枚描くたびにヘトヘトになる。五智に差し出すと一瞬だけ見て、頷いて、すぐに仕舞われる。
それを週五の八時間だ。三ヶ月が経ったころ、永旗はついに五智へ尋ねた。
「これ、いつまで続ければいいんですか」
今日描き上げたデッサンを差し出しながら永旗は言った。今日の題材は事務椅子と、座面に置いたスーツのジャケットだ。上着は別の社員に借りた。
「飽きたか」
「だいぶうんざりしてきました。最近退職の二文字が頭を過ぎります」
五智は今日描いたデッサンを受け取り立ち上がった。いつも通り、物置と化しているデスクの引き出しを開ける。そしていつもどおりそこに仕舞うかと思いきや、今回はそこからもう一枚を取り出して永旗へ差し出してきた。
「ほら」
今完成させたばかりのデッサンと同時に差し出されたのは三ヶ月前に永旗は人生で初めて描いたデッサンであった。鉛筆と練り消し、そしてスケッチブックが描かれている。線はへにょへにょで光源はめちゃくちゃ、パースもおかしくて遠近感が微塵も表現できていない。
「私、めちゃくちゃうまくなりましたね」
「そろそろデッサン以外もやるか」
周囲の社員たちが立ち上がって順に去って行く。今日も無事に定時を迎えた。
「明日は歩くぞ」
「はい」
返事をしつつも、どこかへ行くのだろうか? と首をかしげるも五智は説明する気がないらしい。作りかけの彫刻を置いて帰り支度をしている。永旗もそれに習った。歩こうが座っていようがどうでもいい。デッサン以外ならなんでもいいか、と思うほどに疲れ果てていた。




