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京葉文化大学美術サークル及び株式会社スラストーン美術課活動報告書  作者: 荒間文寧


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13/42

4-1

 地元の中学で、高校で、そして大学でも永旗は有名であった。知らない人はいなかった。

 永旗あかりが有名だったわけではない。兄のほうだ。

 あの年、兄が通う高校には彼の名が刻まれた垂れ幕が堂々とかかっていた。

 全国大会出場は、永旗の地元では一躍話題になるほど希有なことであった。 

 だからみんな知っていた。そこで起こった悲劇のことも。

 母は未だけなげに病院へ通い詰めている。たくましかった兄は熱気あふれた柔道場ではなく、静寂な病院のベッドに横たわっている。筋肉も脂肪もすっかり落ちた。かわりに点滴によって大きくむくんでいる。

 永旗が最後にその姿を見たのはもう何年も前のことだ。

 見たくなかった。見ても仕方がなかった。

 九年間、彼は未だに目を覚ましたことはない。

 その二人を地元に残して、永旗あかりは東京の会社へ就職した。

 みんな不安そうな顔をしていた。

 その誰もがあかりの心配などしていなかった。


 永旗は駅に向かって歩きながら露骨にため息をついた。東京は人が多すぎる。駅に近づくにつれ増える往来の数に永旗はげっそりしていた。中に入ったらさらに増える。電車に乗り込めば一人あたりのスペースがさらに減る。ただでさえあのクソみたいな職場に九時間もいたのだ。なぜさらに精神力を削れられなければならないのか。地元では考えられないほど巨大な駅を目前に、永旗は進行方向を変えた。同時にスマホで地図アプリを開く。

 体力が尽きるまで歩こうと思った。そうしたらきっと帰宅してすぐに眠れるだろう。

 永旗が新卒で入ったこの会社は素晴らしくホワイトである。今のところ難しい仕事は一つも渡されていない。なんならほぼデータ入力である。それも毎回「急ぎじゃないからゆっくりでいいよ」と注釈が入る。そして続けて教育係はこう付け足す。

「疲れたら好きに息抜きしていいからね」と。

 社長の姿はあれから数えるほどしか見ていない。彼はオフィスにいない時間の方が多い。上司も先輩たちも優しい。私語は多くないが和やかな空気が常に流れている。

 そんなオフィスの端で一人、大柄な男が黙々と木を削っている。

 たまにコーヒー片手に寄っていく人がいる。木の香りと、規則的に削る音が落ち着くんだよね、と先日語っていた。その先輩のデスクにはアニメキャラクターのアクリルスタンドが三つ飾られている。この手のタイプは『作る人』が好きだよね、と永旗は謎の偏見を抱きつつも口には出さず心に留めた。

 今日も定時の五分前に声を掛けられた。

「永旗さん、やりかけで上がっていいからね。急ぎじゃないから」

 世間一般から見たらいい職場なのだろう。きっと友人から聞かされたら永旗も褒め称えるだろう。その日の仕事を振り返るたびに永旗の心が重く澱んでいく。明日にでも逃げ出したい。しかし避難先もない。

 足を進めるたびに職場の最寄り駅から離れていく。ずっと知らない風景が続く。

 永旗は知らない。なのに周りは永旗を知っている。その事実を初日に突きつけられてしまった。知らないよっぽどよかった。

 知らない店、知らない建物、全国チェーン店の知ってる看板、知らない建物、知らない店、知ってる名前。視界の端に映る風景をただ流し見しながら進んでいた足がパタリと止まった。

 そして「あ」と永旗は呟く

 目を引く鮮やかな、真っ赤な花の絵。

 幾重にも塗り重ねて表現されたそれは油絵であった。しかし原画ではない。印刷されて掲げられたポスターは実際の凹凸までは再現されない。それでも強烈な印象を残すその絵の隣に書かれた名前を、永旗は知っていた。

「瀬良……」

 そのポスターには個展と書かれていた。

 立ち止まる永旗の隣を抜けて、二人連れが楽しげに建物内へ入っていく。

 永旗はその名を知っている。この場を知ってしまった。

 手に持ったままのスマホを鞄へしまう。

 そして二人連れの後を追うようにそのギャラリーの扉をくぐった。

 抜けた先は柔らかな色のフローリングであった。天井からは黄みがかったライトが降り注いでおり、真っ白な壁には鮮やかな絵が何枚も掛かっている。

 五智と出会うより先に表舞台から姿を消したのではなかったのか。この数年で事情が変わったのか。それとも別人なのだろうか。

 果たしてその判別が自分にできるだろうか。永旗はおおよそほかの客が持っていない疑問を抱きながら入り口の一番近くへ飾られている絵の前へ立つ。

 一枚目は静物画であった。ポスターに使用している作品と対になるような、白くて可憐な花であった。ニュアンスのある深い青の布を背景に、つやのある白い陶磁器の花瓶に生けられたマーガレット。その下に置かれているオレンジは、マーガレットの中央部分にほど近い色をしていた。

 ああ、この人だ、と永旗は直感的に理解した。疑う余地はなかった。横へ移動しながら永旗は並べられた順に絵を見ていく。静物画と風景画、そして少しの抽象画。その全てが生きていた。描かれている川、空、植物に生命が宿っている。静物画に至っては花や果物だけでなく、陶器や布にまで呼吸を感じる。

 それだけ生を描けているのに、このギャラリーに人物画は一枚もない。全ての絵を鑑賞し終えた永旗は周囲を見回す。個展に来るのは初めてだが、無人で開けているわけではないだろうことくらい推測できる。本人がいるかは分からないが、関係者は必ずいるはずだ。

 意識して観察すればすぐに見つかる。ギャラリーの片隅に座り込み、黙々とスケッチブックに鉛筆を滑らせている人物がいた。床に座って、背を丸めて、規則正しく鉛筆を動かしている姿は周囲から浮いているのに、誰もそれを気にしていない。まるでオフィスにいるときの五智のようだ、と永旗は思った。しかし見た目は似ても似つかない。線は細く腕には筋が浮いている。適当にくくられた髪はきれいなうねりをしており、シンプルな白シャツに黒いスラックスを履いた姿はなるほど確かに中性的だ。永旗はすぐにその人物へ近寄った。考えるよりも先に体と口が動いた。

「あの、すみません。瀬良さんですよね。お話いいですか」

 目の前の人物は顔を上げない。まるで聞こえていなかったかのように鉛筆を動かし続けている。

 あの、ともう一度永旗が呼びかけたところで後ろから別の人物が話しかけてくる。スーツ姿の中年男性であった。

「瀬良の個展は初めてですか?」

「あ、はい」

「申し訳ありません。中々気難しい作家でして、話したい場合は」

 そこまで聞いて永旗はやっと思い出す。そしてまた瀬良へ向き直った。

「永旗です。永旗あかりといいます」

「知らない名前だね」

 女性にしては低く、男性にしては高い。抑揚のない平坦な言い方であった。

「株式会社スラストーンに務めています。」

 瀬良は一瞬だけ手を止めた。しかしまた何事もなかったかのように絵を続ける。こちらを向く気はないらしい。

「ご存じですよね。社長の名前は巡宗佑といいます」

「あの基地外ね。数年前に私に執着していた」

「五智さんもご存じですよね」

「知っているよ。巡の金で彫刻をやっていたね」

「はい」

 そこで会話が途切れた。永旗はやっと思考が動き出す。己は瀬良と何を話したいのか。それすら考えずに先に声を掛けてしまった。

「で? 二人とももう何年も会っていないよ。君は何の話がしたいんだね?」

「私はスラストーンに入社したばかりで」

「うん」

「五智さんもいます。オフィスの一角で彫ってるんです。形式上は社員らしいんですけど、ずっと彫刻をしています」

「そう」

 そしてまた会話は途切れる。なにも言わない永旗に対して、瀬良がまた問いかける。

「君は、私に五智の様子を伝えにきたのかね? 巡の差し金?」

「いえ、たまたま通りかかっただけです」

「そう。悪いけど雑談ならよそでやってくれ」

 別に雑談をしたくて声を掛けたわけではない。ただ言いにくいだけだ。自ら開示したくない。しかし言うほかないことくらい永旗も理解している。

「私は九年前の、五智さんの事故相手の妹です」

「……へえ」

「事故のこと、知ってますか」

「知ってるよ。みんな知ってる」

 そうか、と永旗はどこか肩の力が抜けたような気がした。瀬良の言う『みんな』がどこの誰たちを指すのかは知らない。だけどみんな知っていて、自分だけが知られていない気でいたのだ。知られた上で今、自分はここにいる。

「社長も分かってて私を雇ったみたいです」

「あいつは気が触れているからね。おおかた、五智の作るものに満足できなくなったとか、そんな理由だろう。平気でそういうことをするやつだよあいつは」

「私はどうしたらいいですか」

「知らんよ。君はどうしたいんだね」

「……分かりません」

 自分でも情けなくなるほどに弱々しい返事であった。瀬良はやっと鉛筆を止める。そしてしっかりと永旗を見上げてきた。その瞳には反射した永旗自身が映っている。だけど瀬良には映っていない、らしい。五智の話が正しければ。

「もし五智がまだ、あの事故に囚われているのなら、許してやってほしい。これは昔なじみとしての願いでもあり、同じ作家としての頼みでもある」

 あまりにもまっすぐで真剣な表情であった。

 許すとはいったいなんなのか。なぜ己が五智を許さねばならないのか。そのために雇われたことは分かっている。しかし永旗は未だその事実を受け入れられていない。

「……って初対面の私に言われたら君はそうするのかね?」

 真摯な祈りでも捧げるような表情から一転、漫画の悪役でもそんな顔しないぞと言いたいくらいに人を小馬鹿にした表情で瀬良はにやりと笑った。

「言っただろう。両者とももう年単位で会っていないよ。どこで何してるかなんて知ったこっちゃない」

 はいもう終わり、と言って鼻を鳴らしながら、瀬良はしっしと追い払うように手を振る。納得いかない永旗は当然食い下がったが、ずっと後ろにいたスーツの男にやんわりと止められた。

 不満げな顔を隠さない永旗を出口まで誘導してから男はそっと一枚の紙を差し出してくる。

「あの、まだしばらくやってますから」

 外に飾られていた看板と同じ、赤い花の絵が印刷されたフライヤーであった。

 それを受け取って永旗はギャラリーを後にする。外はとっくに暮れていた。地図アプリを開いて最寄り駅を調べる。歩いて帰るのは諦めることにした。

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