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オフィスの片隅で木彫りをしながら、五智は横に座る新入社員へひたすら過去を語っていた。こんなにべらべらと喋りながら彫るのは初めての経験かも知れない、と一瞬どうでもいいことを考える。隣の永旗もひたすらに聞いていた。その視線は五智の手元へ向けられているが、相づち代わりに小さく頷いている。
「で、そこから本格的に学びだしたわけだ」
「なるほど。芸術の勉強って、何をどうやってやるんですか? 美大に行くとか?」
「美大受験用の予備校に押し込まれた。ひたすらデッサンと造形制作を繰り返す。時間内に作って、できあがったら全員分並べて講師による講評。ひたすらその繰り返しだ」
へえ、という相づちはあまり感情が載っていない。自分で聞いてきたくせにそこにはさほど興味がないらしい。
「大学の講義が終わった後に行くんですよね?」
「そうだな。あいつもスパルタだから、週五で通わされた。だからサークル室へ行く回数は圧倒的に減った。それでもちょくちょく顔は出していたがな」
「大変じゃないですか? それ。どうして続けようと思ったんですか?」
「一つだけ、期待していた。これは多分、口に出さないだけで瀬良も巡も同じ期待を抱いていたと思う。……俺が作ったものなら見えるんじゃないか。そう思ってたんだ。下手くそすぎて人間に見えないから、と瀬良は言っていた。だけど本当は違うんじゃないか、理屈は分からねえが、俺の作ったものなら見えるんじゃないかと三人とも期待してたんだ」
だから五智は粛々と予備校に通った。技術を学び、繰り返し作成し、習得した。
その間瀬良はやはりあの部屋で静かにキャンバスと向き合っていた。
「半年くらいたったころだな。大分うまくなってきた、ってことで、見せたんだよ瀬良に」
そのころの五智はもう、サークル室では制作をしていなかった。だから瀬良に見せるのは本当に久しぶりであった。
「相当上達したね、とあいつは言った。嫌でも分かった。目の前に取り出した瞬間、目をぎゅっとしかめてな。……ああ、見えねえんだな、って」
春休み直前のことだった。口では称揚していたが表情は伴っていない。そのときの瀬良は泣きそうな顔で視線を落としながら首を横に振っていた。
「次にあの部屋へ行ったのは春休み明けだ。そこにもう瀬良はいなかった」
それどころかサークル室はもぬけの殻であった。山のようにあった瀬良の作品、本、そして画材や備品は全て魔法のように消えていたのだ。がらんどうとした部屋を背景に立っていたのは大学の事務員であった。
「隣の美術サークルが壁を破壊して一向に直さない、とアニ研から相談があってね。ないよね美術サークルなんて。君だね? ここを不当に占領していたのは」
羞悪のこもった視線から逃げるように五智はすぐ踵を返した。五智があのプレハブ小屋を訪れたのはそれが最後であった。
「それ以来、瀬良には会ってない。そのあと巡に言って美大の彫刻科へ行かせてもらって、卒業後はここにいる」
「瀬良さん見えなかったんですよね? それでも社長はパトロンを続けてくれてるんですね」
「そうだな。あれから何年も経ってるが、俺も巡も諦めてない」
端から見ればどちらも異常だろう。案の定目の前の新入社員も表情に困惑をにじませている。
「瀬良の母親は亡くなっている。そしてあいつが人を見ることができなくなったのはそれが原因だ。事故として処理されているが、殺人の線もあった。警察はあいつを、瀬良を容疑者として当時は考えていた。……俺は、あいつが殺したんじゃないかと考えてる。故意なのか事故なのかは分からない。しかし母親の死にあいつは関与していて、それでおかしくなった」
「なんでそんなこと分かるんですか」
「俺は一度見た人の顔を忘れない。これは生まれつきじゃない」
五智が自ら進んで、この話をすることはめったにない。できれば一生言わずに生きていきたいとさえ思っている。しかし五智の感情が尊重される状況にはなかった。彼女はここに来た。それはつまり、雇い主である巡がそれを臨んでいると言う事実を如実に表している。
「高三のインターハイからだ。柔道をやっていた」
のんびりとした出勤初日だと思っていたのだろう。ぼんやり座って先輩の話を聞くだけだと油断していたのだろう。気が抜けていた新入社員の、永旗の目が一気に開かれる。
「なぜこの会社にエントリーした? おまえの意思か?」
五智も、そして巡もまだ諦めていない。後者に関しては目的のためなら個人の意思や尊厳など微塵も尊重しない方針だ。
「俺が治れば、瀬良を治す足がかりになる。お前の内定はそのために出されたんだろうな」
五智は手に持っていた彫りかけの木材を置いた。彫刻刀は握ったまま、はっきりと隣にいる永旗へ向かい合う。
「兄貴の様子に変化はあるか?」
彼女はなにも言わなかった。未だ瞳に驚愕を浮かべたまま、ただ五智の前で固まっていた。




