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ずっと“正しく”生きてきたけれど──婚約破棄されて、やっと“私の人生”が始まった

人と同じように振る舞えば、もっと生きやすかったのかもしれない――。


そんなことを、ふと思ったのは、死ぬ三日前だった。

熱もない、痛みもない、ただ、身体が静かに冷えていくだけの奇妙な午後。

窓の外は曇り空、毛布の隣には、名前もつけていなかった猫が丸まっていた。


きっかけは、たまたま読んだ小さなエッセイだった。

「人と同じように振る舞うのが、昔から難しかった」と、そこに書かれていた。


――ああ、私もそうだった。


人の輪に入れないのではない。入らなかったのだ。

合わせられないのではなく、合わせないことを選び続けた。

そうして“変わり者”として生きてきた私は、結婚もせず、友も少なく、

この小さな部屋で静かに人生を閉じる。


孤独だとは思わなかった。

けれど、ふいに――

「もっと楽に、生きられたかもしれないな」と、そんな考えが、心の片隅をかすめた。


その瞬間、何かが、ほどけた気がした。


そして、目を閉じた。


次に目を開けたとき、私はルシア・セリーヌだった。


金のカーテンが揺れる日差しの中で、柔らかな声が、耳元に残っていた。


「ルシア、人はね、信じているものの通りに生きていくのよ」


母――リアナの声だった。


「美しいと思えば、そうなろうと努力する。豊かだと思えば、自然とその行動をとる。

 貴族だって、貴族であると信じられているから貴族でいられるの。

 大事なのはね、自分をどう信じてあげられるか、なのよ」


私はまだ、何を信じて生きればいいのか、わからない。


でも、今度こそ――

ほんの少しだけ、生きやすくなりたい。


そして、できるなら、

“私らしく” 生きてみたい。


ーーー

「おはようございます、ルシア様」


「おはよう、アメリア」


窓の外では鳥がさえずり、食堂には温かい紅茶の香りが漂っていた。

目覚めて最初に聞く言葉がやさしいと、その日は少しだけ穏やかに過ごせる気がする。


今日も、誰かとうまく話せるといい。


そう思いながら、私は食卓についた。

淡い青のテーブルクロス、母が好きだった色。

今はもう、母の姿はそこにないけれど、この色を見ると心が落ち着く。


父と兄と私の三人だけの朝食。

でも、この空間だけは、私が「自分」でいられる場所だった。


「今日も学園か。……あまり無理はするなよ」


父はそう言ってパンをちぎるだけ。無口で、ぶっきらぼう。

でも、その一言に、誰よりも私を見てくれていることが滲んでいて。


「ルシア、困ったことがあったら、すぐ言うんだよ。

 俺がなんとかしてやるからな。」


兄は、笑ってそう言って紅茶を口に運んだ。

その気遣いが、過保護だとは思わない。むしろ――少し、嬉しい。


家族は、分かり合える。


特別な言葉はいらない。気持ちを伝えるのが、こんなに自然でいられる相手。

それなのに、学園ではどうしてあんなに息苦しくなるんだろう。


学園の廊下。すれ違う令嬢たちの笑顔。

言葉の端々に混じる探り合い、視線の裏にある評価。


「この前のドレス、とても素敵でしたわ」

「まあ、ありがとう。ご紹介いただいた店で、特別に仕立ててもらったのよ」


本当は、服の話よりも、本を読む方がずっと好き。

でも、そんなことを言えば、「空気が読めない」と思われる。


最初は、頑張っていた。

話の合わせ方も覚えたし、笑い方も練習した。

でも、気づけば――


私はまた、一人になっていた。


誰かと一緒にいるのに、分かり合えないことほど、寂しいことはない。

だったら、最初から一人の方がいい。誰にも期待しなければ、傷つかないから。


……でも、一人でいるのも、やっぱり寂しい。


教室の窓辺、ひとりきりで本を読む時間は嫌いじゃない。

でも、廊下の向こうで笑い合う輪の中には、入りたくて入れなかった気持ちが、今もどこかにある。


心の奥に、母の声が響く。


「ルシア、人はね、信じているものの通りに生きていくのよ」


信じることが怖い。

信じても、裏切られたらどうするの?

私はまだ、わからない。


でも、もし――もう一度、信じられる相手が現れるなら。


「……ルシア様?」


声をかけられて、私ははっと顔を上げた。

廊下の先に、ひとりの少女が立っていた。


茶色がかった栗色の髪を揺らし、真っ直ぐな瞳でこちらを見ている。

見慣れない制服――転入生、だろうか。


「あなたがルシアさん? あたし、ティナ・ベルトレイ。今日からこの学園に通うの。よろしくね!」


その笑顔は、空気を読まない、まっすぐな明るさで。


私はとっさに、笑うことができなかった。


ーーー

「よろしくね!」

ティナの手が、まっすぐに私の方へ差し出されていた。


その手を取るまでに、私は一瞬だけ躊躇した。

戸惑い、警戒、あるいは恐れ。

けれど、彼女の瞳に“探るような気配”はなかった。


ただ――人と出会うことを、まっすぐに楽しんでいるだけ。


「……ルシア・セリーヌです。こちらこそ、よろしく」


そっと手を握り返した瞬間、ティナはふわりと笑った。


「良かった!貴族の人って難しそうだから、誰にも話しかけてもらえなかったらどうしようかと思ってたの!」


あっけらかんとした言葉に、私は目を瞬かせる。


「え、話しかけるつもりはあったの……?」


「もちろん。ていうか、あたしが話さなきゃ、一日中黙ってる人とかいるでしょ、この学園!」


言いながら、ティナは私の横に並んで歩き出した。

彼女の足取りは軽やかで、空気を読まないというより、空気を怖れていないのだと思った。


「ルシアさん、何か趣味ある?」


「……読書、かな。あと、詩を書くのが好き。あまり人には言わないけど」


「へえ!かっこいいじゃん。あたしは、道端で猫に話しかけてる方が多いかな」


なんてことない会話なのに、気づけば私は、肩の力を抜いて笑っていた。


昼食時間。私はいつもの席で一人で食べようとしていたけれど、ティナが当然のように隣に座ってきた。


「一緒に食べようよ。こっちの方が、なんかご飯の味がするって感じ」


「……いつも、一人だったから。そういうの、少し不安で」


「大丈夫。あたしと一緒にいれば、空気読まなくても生きていけるよ」


それは冗談だったのか、本気だったのか。

でも、不思議と胸に温かく響いた。


初めて会った人と、こんなに自然に話ができるなんて。

私は今、少しだけ、自分のことを信じてみたいと思った。


午後の授業中。

窓の外を見ながら、私はふと母の言葉を思い出す。


――信じているものが、現実になるのよ。


だったら、もし「私は大丈夫」って、今、信じてみたら。

ほんの少しでも、変われるのだろうか。


外の空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。


ーーー

「ルシア」


放課後、学園の中庭の裏手で声をかけられた。

ユリウス・エグレア。侯爵家の嫡男で、完璧な“貴族の鏡”と称される人。


彼は今日も、制服の襟を正しく立て、一本の乱れもない金髪を陽に照らしていた。


「今朝、君のリボンの結び方が崩れていた。

 ああいう形は……君らしくない。セリーヌ家らしくもない」


「……少し、試してみたかっただけなの。最近流行ってるって、ティナが」


言いかけた名前に、ユリウスの眉がほんのわずか動いた。


「流行など、すぐに廃れる。

 君は“私の婚約者”だ。自分の姿が、家を映す鏡であることを自覚してくれ」


彼の声はいつも通り穏やかで、語気も荒げてはいない。

それでも、その“正しさ”は、私の胸に静かに圧し掛かってくる。


「……わかったわ。直しておく」


私がそう言うと、ユリウスは満足げに頷いた。


「良い子だ。

 君が私についてくれば、すべてうまくいく。

 私はエグレア家を継ぐ者として、何も間違ったことはしないつもりだ」


彼は私ではなく、“先の未来”を見ているようだった。

家の威信、血筋、責任、伝統。

彼の視線の先に、私という個人は含まれていない。


それでも私は、口を閉じたまま微笑むしかなかった。

本当は、胸の奥にわずかな違和感が芽生えていたけれど――

それを言葉にする勇気も、理由も、まだ持てなかった。


「また明日、君を迎えに行く。社交礼儀の講義も近い。

 それまでに姿勢を整えておいてくれ」


「……はい」


返事をした声が、自分のものではないように感じられた。


彼の背が遠ざかるのを見送りながら、私はそっとリボンに触れた。

指先に残る小さな布の感触が、まるで“誰かのものになっていく自分”を象徴しているようだった。


ーーー


昼休みの鐘が鳴る少し前、私は書庫の窓辺で本を読んでいた。

最近のお気に入りは詩集。優しい言葉たちが心にすっと染みてくる。


そのとき、不意に声がした。


「ねえルシア、今日さ、学園の外に行かない?」


顔を上げると、ティナが本棚の影からひょこっと顔を出していた。


「……学園の外?授業、午後もあるわ」


「午後の魔法講義って“実技”じゃないし、座って眠くなるだけでしょ。

 抜け出してさ、市場見に行こうよ!あたし、ずっと気になってたんだ」


彼女は悪びれる様子もなく笑っている。私は一瞬、戸惑った。


「そんなこと、したことない……し、問題になるんじゃ……」


「なるかもね。でも、ずっと“問題を起こさないように”ってだけで生きてたら、

 たぶん“面白いこと”って何も起きないよ」


ティナは私の手を取って言った。


「行こう。あたし、ルシアと出かけてみたいんだ」


彼女のその一言に、胸の奥がきゅっとなった。


誰かが“私と何かをしたい”って思ってくれたのが、どこか信じられなかった。


市場は賑やかだった。


平民の子どもたちが駆け回り、果物の甘い匂いが漂ってくる。

学園の静かな空気とはまるで違う世界。


「ほらルシア、これ食べてみて!蜜漬けリンゴ、あっまいよー!」


「……あの、私、お金……」


「あるある!あたしが出すから!今日は“あたしのお友達記念日”だからね!」


彼女が笑って渡してくれた赤い蜜リンゴ。

私は恐る恐るそれを齧った。


――甘い。信じられないくらい甘くて、懐かしい味がした。


「ねえ、ルシアって、いつも控えめだけどさ、ほんとはもっと色々考えてるでしょ?」


夕方、帰り道。街路樹の影を歩きながら、ティナが言った。


「自分がどう思ってるか、話していいと思うよ。

 誰かに“合わせること”だけで一日が終わっちゃうの、もったいないよ」


私は、思わず立ち止まった。


彼女の言葉は、どこまでもまっすぐだった。


合わせること。それは、私にとって“生き抜く術”だった。

でも――そればかりを続けていたら、私は本当に、自分じゃなくなってしまう。


「……ありがとう」


その言葉が自然に出たとき、私は少しだけ、心が軽くなった気がした。


ーーー

午後の魔法理論の授業は、相変わらず退屈だった。


黒板に記された呪文式の構造や、発動補助の理屈。

書き取りも魔力の計測も、意味があるとは思えなかった。


「誰かが決めた正しさを、ただ繰り返すだけ」


ティナの言葉が、また胸をよぎる。


私は授業が終わると、そっと教室を抜けて、図書館へ向かった。

誰もいない静かな空間に、柔らかな紙の匂い。

本に囲まれていると、自分が透明になれる気がした。


ふと、誰かの視線を感じて、顔を上げる。


長い机の向こう側に、エリオット・グランツ先輩がいた。


艶のある黒髪と銀縁の眼鏡。冷静な瞳に、ほんの少しの疲れが滲む。

学園で「完璧な公爵家の後継」と噂される存在。


彼はこちらに気づくと、静かに微笑んだ。


「君も、ああいう授業は苦手?」


私は、少し戸惑いながら頷いた。


「……はい。意味があるようで、ないような気がして」


「僕も、同じようなことを思っていた。

 “貴族はこうあれ”とか、“学ぶべき形はこうだ”とか――そういう枠に、息苦しさを感じる」


その言葉に、私は目を見開いた。


「先輩でも、そんなふうに思うんですか?」


「もちろん。……でも、僕はずっと、言わなかった。

 言えば誰かを失望させるかもしれないし、“自分が壊れてしまう気がして”」


静かな言葉の奥に、深い孤独があった。


そのとき、私ははじめて“共感”というものを知ったのかもしれない。


「私も……少しずつですけど、今までの自分に、違和感を覚えるようになりました。

 本当は、もっと自然に生きたいのに、周りの視線が怖くて」


エリオット先輩は、ゆっくりとページをめくった。


「それでも、君は変わろうとしている。

 それができる人は、そう多くない。君の中にある強さを、大切にするといい」


“強さ”――自分がそんなものを持っているとは思わなかった。


でも、今の私は、少しずつ変わってきている。

誰かの言葉に縛られずに、立ち上がる勇気を手に入れようとしている。


「……ありがとうございます。先輩の言葉、心に沁みました」


エリオットは少し目を細めて微笑んだ。


「君のような人が、変わっていく姿を見ると、僕も少しだけ、楽になれる」


それは、誰にも届かないと思っていた感情が、確かに誰かに届いた瞬間だった。


その夜、私は日記を開いた。

母の言葉を書き留めてきたページに、こう記した。


――“私を信じる”ということを、少しずつ始めてみようと思う。


ーーー

昼休み。学園の門近くの裏庭で、私はノートに詩の断片を書いていた。


ティナと昼を取るはずだったが、彼女は用事で街へ。

ひとりで過ごすのは久しぶりで、でも以前のような孤独感はなかった。


私は自分の気持ちを、書くことで整理する癖がある。

“私を信じる”という言葉を、何度も書いて、消して、また書いていた。


そのときだった。


「おーい!そこの真面目そうなお嬢さん!紙くれない?」


聞き慣れないラフな声に顔を上げると、門の向こう――馬にまたがった少年がいた。

制服は乱れ気味。ボタンを外したまま、肩に外套をかけ、陽に焼けた肌が眩しい。


門番が慌てて止めに入るのを、彼はひらりとかわして門を乗り越えた。


「ちょっとした落書きがしたくなってさ。持ってるだろ?紙と筆記具」


「……学園に馬で乗り込むなんて、正気ですか?」


「うん?正気かどうかは、朝ご飯の味で決まると思ってるからな」


返事になっていない。けれど、何故か笑いそうになってしまう。


「君、名前は?」


「カイル・フォルセティア。公爵家の“ほぼどうでもいい方”の次男坊さ。君は?」


「ルシア・セリーヌ。子爵家の娘です。学園の秩序を乱さないでいただけます?」


「え、そんなガチガチな紹介してくるの?面白いな、君」


彼は、まるで“どこにも属さない風”のような存在だった。


「貴族って、窮屈じゃない?」


突然、そんなことを言われた。


「……正直、そう思うこともあります。でも、それが“責任”だとも教えられてきたから」


「俺の兄貴もそうだよ。責任、義務、名誉……全部抱えて潰れかけてる。

 でも俺は、そんなのどうでもいい。俺が信じてるのは、“今日の自分が楽しいか”だけ」


「それで……やっていけるんですか?」


「やってる。だって、やっていけるって、俺が信じてるからな」


私は絶句した。


それは、母の言葉と同じだった。“信じていることが現実になる”。


でも、この人は――“信じる”ことを“自分に都合よく使っている”ようにも見えた。

それが不思議と、いやらしく感じなかった。


「ルシア。君、つまらなそうな顔してるのに、なんか楽しそうだな」


「……それ、どういう意味ですか?」


「君、多分、これから面白いこと起こしそうな顔してる。

 だったら俺、君の近くにいたいなって思ってさ」


「……軽いですね」


「君が重そうだから、バランス取れるでしょ?」


その日、私はノートを閉じて、家に帰った。

ページの隅に書き留めた彼の名前――カイル・フォルセティア。


見た目も態度も、すべて“貴族的”ではなかった。

でも、彼の言葉にはどこか“自由の香り”があった。


その香りは、私の閉ざされた世界に、風穴を空けた。


ーーー


数日後、ルシアはティナとカイルと共に街の広場に出かけた。


そこでティナが買ってくれたカジュアルな髪飾りを、ルシアは制服に添えてつけていた。

ほんの少し、色を足すだけで気持ちが軽くなる──そんな小さな“選択”。



けれど、学園の帰りにユリウスと出会い、彼はそれにすぐ気づいた。


「その髪飾りは、誰の勧めだ?」


「……ティナと、広場で選んで……」


「ルシア、君は自分がどの立場にいるか、忘れてはいけない。

 そのような派手なものは、子爵令嬢の装いとして不適切だ」


「でも、私は……少しだけ、自分の好みを出してみたかっただけです」


「好みで貴族の価値が決まるのなら、伝統など不要になる。

 “正しさ”を崩せば、君自身も崩れるぞ」


言葉は冷たくなかった。でも、その言葉が示すものが冷たかった。


ユリウスにとって私は、“正しさ”を象徴する存在でなければならなかった。




その夜、図書館で再会したエリオットは、ルシアの表情を見てすぐに言った。


「……また、息がしにくくなってるみたいだね」


「どうして、皆……“正しさ”でしか人を測らないんでしょうか」


「僕は思う。正しさって、たぶん“誰かが怖がった結果”だって。

 間違うのが怖いから、決まった道を歩こうとする」


「……でも、私はその道を歩いてると、自分を失っていくんです」


エリオットは頷いた。


「なら、君はもう、自分の道を選び始めてるんだと思うよ」




ユリウスとルシアが学園の応接室でふたりきりで話をしていた時だった。


「ルシア、正式な婚約披露会の準備が進められている。

 服装は、伝統的な礼装で臨んでくれ。先日、流行りの形を希望していたそうだが、それは却下した」


「……私の意見は、必要ないんですね」


「必要なのは、“君がふさわしくあること”だ。

 私はエグレア家の未来を背負っている。君には、その隣に立つ覚悟が求められる」


「じゃあ、私が“私らしくいたい”と思うのは、隣に立つ資格がないということ……?」


「そうだ」


ユリウスは、迷いなく言った。


「私の婚約者は、“正しく”なければならない。

 君がそうでなくなるのなら、私はこの婚約を見直すしかない」


その言葉は、刃のように静かに私の胸を裂いた。

でも、私は泣かなかった。


私は、もう知っていた。


“誰かに従うことでしか、価値を得られない”と思っていた私が、

今は“自分で自分を肯定できるようになりたい”と、願い始めていたことを。


だから私は――小さく、けれど確かに頷いた。


「わかりました。

 私も……この婚約を、解消していただきたいと思います」


その夜、ルシアは母の言葉を書き写したノートに、こう書き加えた。


“私は、私を信じていい。そう思える今日が、初めて訪れた”


ーーー


婚約破棄の翌日。

学園は静かに騒がしく、私は静かに静かだった。


「婚約破棄された子爵令嬢」――その肩書きは、教室で囁かれるには充分すぎるほどの話題だった。


でも、私はもう怯えていなかった。

視線も噂も、もう“自分を信じる”ことをやめる理由にはならなかったから。


ティナはあっけらかんと笑って、ジュースを差し出してくれた。


「おつかれ、ルシア。今日から“真の自由貴族生活”だね」


私はそれを受け取りながら、ほんの少しだけ笑った。


「……真の自由貴族って、なんなの?」


「好きなもの食べて、好きなことして、好きな人と笑ってる人のことだよ」


それは、まるでカイルの言いそうな言葉だった。


午後。風の強い日だった。


中庭の噴水のそばで、私は一人、リボンを結び直していた。

今日は、自分の好きな色――母が好んでいた淡い青を選んだ。


「いいね。その色、君に似合ってる」


振り返ると、そこにいたのはカイルだった。


「……よく、学園に出入りできますね」


「そりゃあ俺、公爵家の次男だし?関係者ってことで、曖昧に済ませてる。

 でも今日は、ちゃんと用事があって来たんだ」


「用事?」


「うん。君を誘いに来た」


私は目を瞬かせた。


「どこへ……?」


「冒険に決まってるだろ?」


彼は、まるで明日天気がいいから散歩に行こうと言うように笑った。


「王都の西に、少し荒れた村があってね。

 最近、魔物が近くに出るとかで困ってるらしい。

 君、魔法も使えるし、頭も回るし、行ってみない?」


「わたしが……?」


「うん。“貴族らしく正しく座ってるルシア”じゃなくて、

 “信じたことに飛び込むルシア”として、ね」


その言葉に、胸が大きく動いた。


私は、まだ「自由に生きる」ことに慣れていない。

それでも――信じたいと思った。


「……行きたいです。わたし、やってみたい」


「そうこなくっちゃ」


カイルは嬉しそうに笑って、指を鳴らした。


「じゃあ準備して。数日後、出発だ」


風が吹いた。


それは、今まで一歩も踏み出せなかった扉の向こうから吹いてきた風だった。


私はそれを胸いっぱいに吸い込んで、そっと呟いた。


「今度こそ――わたしを信じて、生きてみる」

ーーー


その日学園から帰宅した夜、

私はそのまま階段を上がろうとしたが、応接間の扉が静かに開いた。


「ルシア」


父の声だった。

奥には、兄もいた。ふたりとも、珍しく私を待っていたようだった。


「少し、話そうか」


促されてソファに座ると、兄が紅茶を手渡してくれた。

湯気の向こうのふたりの表情は、どこか柔らかかった。


「……今日の件は、報告を受けている。お前の判断、立派だった」


「……でも、私……」


「何も言わなくていい」


父は低い声で言った。


「お前が“自分で考えて選んだ”こと。それがすべてだ」


私は、言葉が詰まりかけていた胸の奥が、少しずつほぐれていくのを感じた。


「それに、カイルくんから手紙が届いてたよ」


兄のユアンが、にやりと笑う。


「“ルシアさんをお借りします。あなた方の大切な家族を連れ出す以上、

 それなりに誠意を持って扱わせていただきます”だとさ」


「……カイル様が?」


「ああ見えて、律儀なやつだ。

 たぶん、妹を泣かせるつもりはないってことだろ」


兄の言葉に、私はそっと目を伏せた。


「行ってきていいの?」


「当然だ。行ってこい」


父は静かに言った。


「ただし、“信じた道を行け”――その言葉の責任だけは、忘れるな」


私は、小さくうなずいた。


その夜、部屋に戻ってリボンを解いたとき、

私は初めて、“貴族の令嬢”としてではなく、“ルシア”として呼吸している実感を得た。


“ここに戻ってきてもいい”という場所がある。

それは、思った以上に強くて、やさしい。


だから、私は旅立てる。


ーーー

朝霧の中、カイルが手綱を握る馬車がセリーヌ邸を出発した。


「じゃあ、行くか。君の新しい旅の第一歩だな」


隣で笑うカイルの声が、風と一緒に軽やかに響く。


私は鞄を抱きしめながら、父と兄の背中を見送った。


心配そうな顔はしていなかった。

どこか、背中で“行ってこい”と語っているような気がした。


向かった先は、王都の西にある小さな村、リーフェン。

魔物の出没で収穫に影響が出ていると、王都経由でカイルに依頼が届いていた。


到着した村は、予想以上に静かだった。

だが、静けさの裏に、明らかな“張り詰めた空気”が漂っていた。


「ようこそ、フォルセティア様……ええと、その、お連れの方は……?」


「紹介するよ。ルシア・セリーヌ。俺の大事な相棒。魔法も頭もキレるから安心して」


「そ、そんな……!」


私は慌てて頭を下げた。


でも、村長の目には“驚き”ではなく、“期待”の色が浮かんでいた。


話を聞くと、魔物は最近現れるようになった“影の獣”で、森の境界近くに巣を作っているらしい。


「騎士団にも相談しましたが、動きが遅くて……。

 子どもたちが森で遊べない状況が続いていて……」


ルシアはその言葉に、胸が痛んだ。


“貴族”という立場で、民の声に直接触れたのは初めてだった。


「わたしに……何ができるでしょうか?」


カイルはにやりと笑った。


「“信じてやってみる”ってことが、まず最初じゃない?」


その夜。

私は魔法陣の描き方を確認しながら、焚き火のそばで静かに練習していた。


カイルは隣で剣を磨いている。


「なあ、ルシア。君って、いつも“正しさ”に囲まれて生きてきたよな」


「……そうかもしれません」


「でもさ、正しいかどうかって、やってみなきゃわかんないよ。

 今日倒した魔物が、明日また出てくるかもしれない。

 でも、今日助けた誰かは、“君を信じてくれる”かもしれない」


私はその言葉を、胸の奥にそっとしまった。


“信じる”という言葉は、ただの精神論じゃない。

それは“行動の始まり”だ。


翌日、森の中。

カイルと共に影の獣の巣に潜入した私は、恐怖で足が震えていた。


でも、森の中で怯える子どもたちの顔が脳裏をよぎった。


「……わたしを信じて」


小さく、呟くように言ったその言葉と同時に、詠唱が走る。


――“光よ、影を裂け”


ルシアの手から放たれた魔法が、闇を切り裂いた。


カイルの剣がその隙を突いて、獣を打ち倒す。


静けさの戻った森に、鳥のさえずりが戻ってきた。


村に戻ると、子どもたちが泣きながら駆け寄ってきた。


「ありがとう、お姉ちゃん!また、森で遊べる?」


「……ええ。もう、大丈夫よ」


その言葉が、自分の口から自然と出ていたことに、私は驚いていた。


初めて、“誰かのために何かをして、感謝された”瞬間だった。


そして、私は初めて“自分を信じて良かった”と、心から思えた。


ーーー

朝日が村を照らしていた。

魔物の脅威が去ったことで、村には久しぶりに穏やかな笑い声が戻っていた。


広場のベンチで、私は草を編んでいた。何をするでもなく、ただ、手を動かしていた。


そこへ、カイルがリンゴをふたつ持ってやってきた。


「はい。昨日のお礼に村長がくれたやつ。甘いぞ」


「ありがとう……カイル様」


「様はやめなって」


そう言いながら、彼はベンチに腰を下ろした。

しばらく無言でリンゴをかじっていたが、ふとこちらを見て言った。


「……やっぱり、君ってすごいね」


「……え?」


「昨日の魔法さ。あんな詠唱速度で、あれだけの精度の光属性を出すなんて、

 正直、見惚れたよ」


「そ、そんな……」


「いや、マジで。魔法のセンスめちゃくちゃあると思ってたけど、

 あそこまでとは思ってなかった。

 ていうか、魔力の量もえげつないよね?まるで底が見えない」


「それは……セリーヌ家だから、かもしれません」


「ん?」


「セリーヌ家は……実は、古い魔法名家なんです。

 でも今は、政治の表舞台から離れていて……あまり知られていないだけで」


「なるほど。じゃあ、君は“実はすごい家の、すごい人”だったんだ」


「……そんな言い方、やめてください」


私は思わず笑ってしまった。


「私は、ずっと“自分はたいしたことない”って思い込んでたんです。

 でも、最近ようやく……“信じてみてもいいのかも”って」


「うん。その調子。信じろ、君は強い」


カイルの声は、からかうでもおだてるでもなく、ただまっすぐだった。


その声が、胸の奥で静かに響いた。


その夜、私は旅のノートにこう書いた。


――“誰かが私を信じてくれると、私も自分を信じてみたくなる”


ーーー

村を離れる日、見送りに来てくれた子どもたちが、花を編んだ冠を私に手渡してくれた。


「お姉ちゃん、また来てね!」


「お姉ちゃんの魔法、すっごくかっこよかった!」


私はその声に、心からの笑顔で頷いた。


「うん、また必ず来る。もっと上手になって、もっとたくさん助けられるように、なるから」


カイルは横で、帽子を深く被りながら笑っていた。


「惚れちゃいそうになるな、その台詞」


「え?」


「なんでもない」


さらっと言い流したように見えたけれど、私は少しだけ首を傾げただけで、それ以上は深く考えなかった。


だって今の私は、それどころじゃない。


馬車に揺られながら、私は決めていた。


この先、もっと魔法を学びたい。

もっと自分の力を使えるようになって、誰かの役に立ちたい。


「カイル」


「ん?」


「わたし、もっと強くなりたいの。

 魔法を、もっと上手に使えるようになって……

 あなたと一緒に、いろんな場所を旅して、たくさんの人を助けたい」


「……それってつまり、俺とコンビ組むってこと?」


「はい!」


満面の笑みで答えた私に、カイルは一瞬だけ目を丸くして、

それから、小さく、どこか寂しそうで嬉しそうな笑みを浮かべた。


「……いいじゃん。それ、最高だと思うよ」


私は自分を信じる。

信じて動くことが、こんなに誰かを笑顔にできるなら。

こんなに自分のことを、好きになれるなら。


これからもっと、私の魔法で、私の言葉で、私の選んだ道で――


“光を生み出せる人間”になってみたい。


その隣に、今はカイルがいてくれる。


彼の気持ちには、まだ気づいていない。


でも、いつか――その気持ちに気づく日が来たら。

そのとき私は、またひとつ、大人になれるのかもしれない。


馬車の窓から差し込む光が、私たちの道を照らしていた。


私は手を伸ばし、そっとその光をすくうように握った。


「信じるって、たぶん……すごく、自由だ」


そう呟いた私の声に、風が優しく応えた。


――物語は、まだ始まったばかりだ。



終わり

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。

「信じることが、現実を変える」――そんな想いから始まったルシアの物語、第一部、いかがでしたでしょうか。


元・孤独死した女性が、転生先で“自分らしく生きる”ことを学び、

堅い殻をひとつずつ破っていく……そんな物語に、わたし自身、執筆しながら励まされました。


物語の中で、ルシアは恋に気づいていませんが、カイルの想いは静かに育っています。

このふたりの関係がどう進んでいくのか、それは“信じる力”の続きとして、またどこかで描けたらと思っています。


そして、もしこの物語が、読んでくださったあなたの中で

「自分のことを少しだけ、信じてみようかな」と思えるきっかけになっていたら、

これ以上に嬉しいことはありません。


感想・評価・お気に入り登録などいただけると、励みになります!

次回作や第二部が見たい!と思ってくださった方、ぜひ応援よろしくお願いします!


それでは、またどこかのページで。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。


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