9:妹の存在
「信用と愛、何が違うの?」 クラリスのあの問いは、ユウマの心の奥底に、これまで感じたことのない微かな「誤差」を残していった。彼女の挑発的な言葉の裏に、愛を求め、しかしそれを信じることのできない深い悲しみが隠されているのではないか――そんな考えが、ユウマの頭をかすめるようになった。彼の理性はそれを「査定に不要な感情的推測」として切り捨てようとするが、拭い去れない違和感が残っていた。
ユウマとクラリスの「恋人ごっこ」は、相変わらず続いていた。しかし、その内容は、もはや単なる「誘惑」や「挑発」だけではなかった。互いの価値観をぶつけ合う、鋭い言葉の応酬。それはまるで、二人の間に見えない綱が張られ、互いがその綱の先に立つ、緊迫した駆け引きのようだった。
その日、ユウマはヴァンルート邸の書庫にいた。クラリスから提供された、ヴァンルート家の古い財産目録や契約書を精査するためだ。埃とカビの匂いが充満する書庫は、邸宅全体の荒廃を凝縮したかのようだった。ユウマは、一枚一枚、古い書類を丁寧にめくっていく。彼の目的は、クラリスの「悪事」の証拠を見つけることではなく、その「悪事」が本当に彼女の意思によるものだったのか、その裏に隠された真実を探ることへと変わりつつあった。
クラリスは、書庫の入り口に凭れかかり、ユウマの作業を静かに見守っていた。彼女の表情は読み取れない。ただ、その瞳だけが、ユウマの動きを追っていた。
「そんな古い書類を漁って、何か面白いものでも出てきましたか、査定官さん?」
クラリスの声は、いつもの挑発的な響きだったが、その中に微かな諦めのようなものが混じっているのを、ユウマは聞き逃さなかった。彼女は、この書庫に「見つけられたくない何か」があることを示唆しているようだった。
「いえ。ただ、貴女の家族の記録を精査しているだけです」ユウマは、感情を込めずに答えた。彼の視線は、書類から動かない。
「家族……」クラリスは、フッと小さく笑った。「私には、もう家族と呼べるものなんて、残っていませんわ。皆、あの金融大崩壊で散り散りになり、残ったのは、この朽ちかけた邸宅と……」
そこで、クラリスの言葉が途切れた。彼女の視線が、書庫の奥にある、埃をかぶった古い肖像画に止まった。それは、幼い少女の肖像画だった。ユウマは、その絵をちらりと見た。その少女の顔は、クラリスとよく似ていたが、どこか儚げな雰囲気を纏っていた。
「……守らねばならない人がいる」
クラリスは、ほとんど独り言のように呟いた。その声は、微かに震えていた。彼女の「仮面」が、一瞬だけ剥がれ落ちたかのように、深い感情が滲み出ていた。それは、ユウマがこれまで彼女から感じ取ったことのない、確かな「温かさ」のようなものだった。
ユウマは、ペンを握る手を止めた。彼の瞳が、肖像画からクラリスへと向かう。彼女の表情には、一瞬の動揺と、そしてその動揺を隠そうとする焦りが混じっていた。
「今、何と?」ユウマは、冷静な声で尋ねた。彼の心の中で、彼女の言葉が「重要な情報」として分類された。
クラリスは、ハッと我に返ったように、いつもの艶やかな笑みを浮かべた。
「あら、何のことかしら? 貴方には、幻聴が聴こえているのではなくて?」
彼女はそう言って、冗談めかしたが、その瞳の奥には、ユウマの問いを逸らそうとする意図が見て取れた。彼女が、その「守らねばならない人」について、話したがらないことは明らかだった。
ユウマは、それ以上は深追いしなかった。彼の脳内は、既に次の行動を計画していた。
(「守らねばならない人」……。使用人の気配がないこの邸宅で、一体誰を? 肖像画の少女と関係があるのか?)
その夜、クラリスが就寝したことを確認すると、ユウマは、静かにヴァンルート邸の内部を探索し始めた。彼は、音を立てないよう、細心の注意を払いながら、廊下を歩く。月の光が、窓から差し込み、邸内を淡く照らしている。
広大な邸宅は、迷路のようだった。数々の部屋を通り過ぎるたびに、埃の匂いと、朽ちた木の匂いが鼻をかすめる。だが、どの部屋も、人の気配はなかった。まるで、この邸宅には、クラリス一人しか住んでいないかのようだった。
彼の足が、邸宅の奥、庭園に面した「離れ」と呼ばれる建物へと向かった。記録によれば、そこはかつて、病弱な子供のために作られた、特別な部屋があるはずだった。
ユウマは、離れの扉に手をかけた。古びた木製の扉は、微かに軋む音を立てたが、施錠はされていなかった。ゆっくりと扉を開けると、そこには、暗闇の中に、小さな人影があった。
ベッドに横たわっていたのは、一人の少女だった。プラチナブロンドの髪は、クラリスと同じ色。しかし、その瞳は、閉ざされている。その顔には、眠りについた安らかな表情が浮かんでいた。
(この少女は……)
ユウマは、瞬時に理解した。この少女こそが、クラリスが「守らねばならない人」と呟いた存在。そして、書庫の肖像画の少女に酷似している。
彼は、少女のベッドの傍に、小さな手帳と、点字の絵本が置かれているのを見つけた。手帳をそっと開くと、そこには、墨で書かれた拙い文字と、点字が混じり合って記されていた。
(盲目の……)
ユウマは、少女の閉ざされた瞳を見て、全てを悟った。この少女は、視力を失っているのだ。そして、彼女の存在を隠しているのは、おそらく、彼女の「信用スコア」に影響を与えないためだろう。この査定社会において、身体的なハンディキャップは、時に「負債」と見なされ、信用スコアを著しく下げる要因となる。
ユウマは、少女の寝顔をじっと見つめた。その寝顔は、あまりにも無垢で、この邸宅の暗闇とは不釣り合いなほど、純粋な光を放っていた。
彼の脳裏に、マリナ・フロセミドの言葉が蘇る。「あの女は、関わるべきではありません」。そして、クラリスの「悪女」としての振る舞い。彼女の全てが「演技」だとしたら、この少女こそが、その「演技」の真の理由なのではないか?
ユウマは、再び黒革の手帳を開いた。そして、新たな項目を書き加える。
発見:
離れにて、盲目の少女を発見。
容姿から、クラリス・ヴァンルートの妹である可能性が高い。
「守らねばならない人」の存在、確認。
彼女の存在が外部に知られていない理由として、査定スコアへの悪影響が推測される。
ユウマは、ペンを置いた。彼の心の中には、これまでにはなかった、複雑な感情が渦巻いていた。それは、単なる「データ」では説明できない、人の「弱さ」と「愛情」が入り混じった感情だった。
彼は、静かに離れの部屋を後にした。そして、クラリスの部屋の窓の外を通り過ぎる。部屋の明かりはまだ灯っていた。彼女は、きっと、まだ「演技帳」に何かを書き綴っているのだろう。
ユウマは、夜空を見上げた。彼の心の中で、「感情は無価値である」という信念が、音を立てて崩れ始めているのを感じていた。目の前の「極悪令嬢」は、彼の合理的な世界を、確実に変革しようとしている。そして、その変革の中心には、あの無垢な、盲目の少女の存在があることを、ユウマは確信し始めていた。