7:デートという罠
「さあ、査定官さん。本日は、この私と『恋人ごっこ』の始まりですわ」
クラリス・ヴァンルートは、帝都郊外の遊園地の入り口で、ユウマ・カサギを振り返った。今日の彼女は、鮮やかな水色のドレスを纏い、髪には同じ色のリボンを飾っている。まるで、純真な令嬢が遊びに来たかのような装いだ。しかし、その瞳の奥には、変わらず獲物を定めるような光が宿っていた。
ユウマは、クラリスの隣に立ち、周囲を見回した。華やかな飾りつけ、賑やかな音楽、そして楽しげな人々の喧騒。彼の視線は、それら全てを「データ」として捉えている。クラリスの今日の服装も、声のトーンも、笑顔の角度も、全てが彼の黒革の手帳に記録されるべき情報だ。
「この査定は、公務です。遊びではありません」
ユウマの声は、いつもと変わらず冷徹だった。彼は、遊園地という「非合理的な空間」に、どこか居心地の悪さを感じているようにも見えた。彼の脳裏には、先週交わした「一週間の猶予」の契約内容が明確に刻まれている。これはあくまで「特例査定」であり、彼はクラリスの「感情」を分析するためにここにいる。
「あら、ご心配なく。これも、立派な『査定』ですわ。貴方がどれだけ冷徹な査定官であるか、私がどれだけ魅力的な悪女であるか、この賑やかな場所で試す絶好の機会だもの」
クラリスは、ユウマの手を引こうと、そっと手を伸ばした。彼女の指先が、ユウマの制服の袖に触れる。ユウマは、その瞬間、反射的に一歩後ずさった。彼の脳裏に「不必要な接触。警戒レベル:低」というアラートが点滅する。
クラリスは、ユウマの反応を見て、フッと小さく笑った。その笑みには、計算と、そして微かな面白みのようなものが含まれている。
「あら、硬いこと。では、まずはお手合わせと行きましょうか。観覧車はいかが?」
彼女は、そう言って、優雅に観覧車の方へと歩き出した。ユウマは、黙って彼女の後ろをついていく。彼の視線は、常にクラリスの背中に向けられていた。彼の「査定官」としての本能が、彼女の全ての動きに意味を見出そうとする。
観覧車のゴンドラに乗り込むと、帝都の街並みが眼下に広がった。地上から遠ざかるにつれて、喧騒は遠のき、静寂が二人の間を包み込む。クラリスは、窓の外の景色を眺めながら、どこか物憂げな表情を浮かべた。
「ここから見ると、帝都は随分と小さく見えますわね。まるで、この世の全ての『信用』も『感情』も、どうでもいいことのように思える」
彼女の言葉は、まるでポエムのようだった。ユウマは、その言葉の裏にある「感情」を探ろうと、手帳に「対象人物、詩的な表現を使用。感情誘発の試みか?」とメモした。しかし、彼の理性は、彼女の言葉に込められた微かな寂しさのようなものを感じ取っていた。
「感情は、信用を歪ませる。高所から見ても、その事実は変わりません」
ユウマは、冷静に答えた。彼の言葉は、クラリスの感情的な言葉を、合理的な事実で跳ね返す。
クラリスは、ユウマの方を向いた。彼女の瞳は、観覧車の窓越しに差し込む夕陽を受けて、一層輝いて見える。
「貴方は、本当に完璧な銀行員ですわね。まるで、感情というものが、貴方の辞書にはないみたい」
彼女はそう言って、ユウマの顔にそっと手を伸ばした。その指先が、彼の頬に触れる寸前で止まる。ユウマは、その瞬間、呼吸が止まるのを感じた。クラリスの指先から放たれる、微かな熱と、彼女の香水の匂いが、彼の理性を揺さぶる。
(距離、近すぎる。接触、予測不能。警戒レベル:中)
ユウマの頭の中では、冷静な警告音が鳴り響いていた。しかし、彼の身体は、なぜかその場から動くことができなかった。彼の銀縁眼鏡の奥の瞳が、僅かに揺れる。
クラリスは、ユウマの反応を見て、満足げに微笑んだ。そして、するりと手を引っ込めると、再び窓の外へと視線を向けた。
「あら、残念。もう少しで、貴方の『無感情』の仮面が剥がれるかと思ったのだけど」
その言葉は、まるで彼の動揺を見透かしたかのようだった。ユウマは、深呼吸をして、乱れかけた思考を立て直した。彼の顔は、再び冷徹な「査定官」のそれに戻る。しかし、彼の心の奥底には、クラリスの意図と、彼女の行動がもたらす「誤差」への、微かな好奇心が芽生え始めていた。
次の日、クラリスはユウマを美術館へ誘った。
「私の感性を、貴方に査定してほしいの」
彼女はそう言って、ルネッサンス期の絵画の前で立ち止まった。絵画に描かれた男女の情熱的な抱擁。ユウマは、その絵を冷静に観察する。色彩、構図、筆致。全てが彼の脳内でデータ化されていく。
「この絵画は、感情を表現している。しかし、その感情が、果たして『信用』に値するかどうかは、別の問題です」
ユウマは、淡々と分析を述べた。クラリスは、ユウマの言葉に、フッと笑みを浮かべた。
「そう。貴方にとっては、愛も、情熱も、ただの『記録』なのね」
彼女はそう言いながら、ユウマの隣に立ち、彼の腕にそっと自分の腕を絡ませた。その仕草は、まるで恋人同士のように自然だった。ユウマは、再び身体が硬直するのを感じた。しかし、今回は、観覧車の時のような拒絶の動きは見せなかった。彼の脳内では「不必要な身体的接触。しかし、公衆の面前での恋人役としての行動。矛盾を避けるため、容認」という分析が下されていた。
美術館の他の来場者たちが、二人に視線を向ける。特に、数人の貴族婦人たちが、好奇心と嘲りを含んだ目で二人を見ていた。クラリスは、その視線に気づいていないかのように、ユウマの腕に絡ませた手を、さらに強くした。
(噂流布の意図か……。彼女は、私の信用を意図的に貶めようとしている)
ユウマは、マリナの警告を思い出した。クラリスは「恋愛感情を利用した査定操作」を試みているのだ。彼は、クラリスの腕に触れる自身の腕に、微かな違和感を覚えた。それは、嫌悪感とは違う、しかし、彼の理性では説明できない、奇妙な感覚だった。
夜。クラリスはユウマを社交界の夜会へ誘った。
華やかなボールルームには、帝都の貴族たちが集い、きらびやかなドレスとタキシードが踊っている。クラリスは、黒いロングドレスを纏い、ユウマの隣に立っていた。彼女の周りには、好奇と嘲りの視線が集まる。特に、クラリスに破滅させられたという貴族たちの、刺すような視線があった。
クラリスは、ユウマの耳元に囁いた。
「さあ、査定官さん。私の手口をご覧なさい。ここから、私が貴方を破滅へと導くわ」
その言葉に、ユウマは警戒を強めた。彼は、周囲の貴族たちの動き、会話、そしてクラリスの微かな仕草まで、全てを注意深く観察した。
クラリスは、ユウマを連れて、会場の隅に立つ老貴族の元へ向かった。その老貴族は、過去にクラリスに多額の借金を負わされたと噂される人物だった。
「ごきげんよう、子爵様。まさか、ここで貴方にお会いできるとは。これも、神の思し召しかもしれませんわね。私の新しい『恋人』をご紹介しますわ。帝都第一中央銀行のユウマ・カサギ査定官です」
クラリスは、完璧な笑顔で老貴族にユウマを紹介した。ユウマは、老貴族の顔が、一瞬にして青ざめるのを見た。老貴族は、ユウマの顔を見ると、慌てて視線を逸らし、その場から立ち去ろうとした。
「あら、お忙しいところ申し訳ありませんでしたわね」クラリスは、そう言って、老貴族の背中を見送った。その瞳には、満足げな光が宿っている。
(偽りの偶然……。意図的な接近。情報流布の目的か)
ユウマは、クラリスの手口を冷静に分析した。彼女は、自らの悪評を逆手に取り、ユウマを「次の獲物」として社交界に披露することで、銀行の査定官であるユウマの信用を揺るがそうとしているのだ。彼女が彼に近づけば近づくほど、彼の「信用スコア」が下がることを理解している。
ユウマは、クラリスの腕を絡ませたまま、静かに彼女に尋ねた。
「なぜ、そこまでして私の信用を貶めようとするのですか?」
クラリスは、ユウマの顔を見上げた。その瞳には、どこか寂しさのようなものが宿っている。
「それが、私の『演技』だからですわ、査定官さん。貴方が私を『査定不能』だと判断するなら、私も貴方を『信用不能』にして差し上げる。そうすれば、私たちは、同じ土俵に立てるでしょう?」
彼女の言葉は、まるで彼の冷徹な合理性を試すかのような挑発だった。ユウマは、その言葉の裏に隠された、彼女の「孤独」のようなものを感じ取った。彼女は、信用を失うことでしか、他者と対等な関係を築けないと信じているかのようだった。
ユウマは、彼女の言葉に何も答えなかった。しかし、彼の心の中では、クラリスという存在が、これまで経験したことのない「誤差」を生み出し続けていた。彼女の計算された「演技」と、その中に垣間見える微かな「本音」。その矛盾が、彼の「感情は無価値である」という信念に、少しずつ、しかし確実に亀裂を入れていくのを感じていた。
彼の黒革の手帳には、今日一日で得られたデータがびっしりと書き込まれていた。 「対象人物、接触距離の増大」「誘惑行為複数回実施」「公衆の面前での『恋人役』の徹底」。 そして、その日の最後の記録として、ユウマは、これまで彼が査定官として決して書き込むことのなかった言葉を、手帳の余白に小さく書き記した。
備考:
不可解な感情の揺らぎを、わずかに感知。
これは「誤差」か、「ノイズ」か。
あるいは……。
ユウマは、ペンを置いた。まだ、その言葉の意味を明確にすることはできない。だが、彼の中で、何かが確実に変わり始めていた。クラリスの「罠」は、彼を破滅させるどころか、彼の凍りついた感情を、微かに揺さぶり始めていたのだ。