46:僕の価値はどこにある?
帝都は、まさに嵐の只中にあった。「虚偽信用証券」の暴露によって、デキサン侯爵家を筆頭とする貴族たちの信用スコアは軒並み暴落し、帝都の経済はかつてない混乱に陥っていた。街には、破産寸前の貴族たちの怒号と、銀行への抗議の声が響き渡っている。マリナ・フロセミドの逮捕で一時的に収束したかに見えた混乱は、ユウマとクラリスが仕掛けた新たな波紋によって、さらに大きなうねりとなって帝都を飲み込みつつあった。
ヴァンルート邸の書斎で、ユウマとクラリスは、帝都の金融状況を示すリアルタイムチャートを眺めていた。赤字の数字が、次々と画面を埋め尽くしていく。
「貴族たちの信用スコアは、もはや回復不能なレベルにまで落ち込んでいるわね。デキサン侯爵の影響力も、これで完全に失墜するでしょう」
クラリスの声には、安堵と、そしてこの状況を作り出したことへの、確かな手応えが混じり合っていた。彼女の目には、この混乱の先に、新たな「真の信用」が生まれる未来が見えているかのようだった。
ユウマは、静かにチャートを見つめていた。彼の「感情査定」の能力は、画面の向こうで渦巻く人々の絶望、怒り、そして混乱の感情を、ありありと捉えていた。それは、かつて彼が「誤差」として排除してきた感情の全てだった。
「これで、デキサン侯爵は、私たちに接触してくるはずだ」
ユウマの声には、確かな予測が含まれていた。デキサン侯爵にとって、彼の支配する貴族たちの信用崩壊は、自身の権力基盤の崩壊を意味する。彼は、この状況を打開するために、必ず動くとユウマは読んでいた。
その予測通り、数時間後、ヴァンルート邸に一台の高級リムジンが滑り込んできた。セバスチャンが慌てた様子で書斎に報告に来る。
「ユウマ様、お嬢様! お客様です……。セドリック・デキサン侯爵様が、お見えになられました」
クラリスの顔から、一瞬にして表情が消えた。デキサン侯爵は、彼女の父を陥れ、ヴァンルート家を破滅に追いやった張本人だ。その憎むべき相手が、今、この邸宅に足を踏み入れたのだ。
ユウマは、クラリスの手を握りしめた。彼女の体が、微かに震えているのを感じた。
「大丈夫だ、クラリス。この状況は、私たちが作り出したものだ」
彼の言葉には、クラリスを支え、共にデキサン侯爵と対峙する覚悟が込められていた。
クラリスは、ゆっくりと頷いた。彼女は、もはや一人ではない。ユウマという「共犯者」が、彼女の隣にいる。
ヴァンルート邸の応接室は、重苦しい空気に包まれていた。セドリック・デキサン侯爵は、中央のソファに悠然と座り、ユウマとクラリスを値踏みするような視線で見つめていた。彼の顔には、疲労の色が浮かんでいたが、その瞳の奥には、未だ冷酷な野心が光っていた。
「ごきげんよう、ユウマ・カサギ査定官。そして、クラリス・ヴァンルート嬢。随分と、私に厄介な土産を残してくれたものだな」
デキサンの声は、低く、威圧的だった。しかし、その声には、彼の「信用」が崩壊しつつあることへの、隠しきれない焦りが滲んでいた。
クラリスは、デキサンの言葉に、冷笑を浮かべた。
「お土産だなんて、ご冗談を。それは、貴方が長年隠蔽してきた『真実』が、ようやく日の目を見ただけのことですわ、デキサン侯爵」
彼女の言葉には、憎悪と、そしてデキサンへの明確な敵意が込められていた。
デキサンは、クラリスの言葉に、わずかに眉をひそめた。彼は、クラリスがここまで明確な敵意を向けてくるとは、予想していなかったのだろう。
しかし、彼の視線は、すぐにユウマへと移った。
「ユウマ・カサギ査定官。君は、マリナ・フロセミドの不正を暴き、この帝都の秩序を大きく変えようとしている。その能力は、確かに素晴らしい」
デキサンは、ユウマを称賛するような口調で語りかけた。しかし、その言葉の裏には、ユウマを自らの側に取り込もうとする、明確な意図が見え隠れしていた。
「しかし、君は、分かっているはずだ。この帝都を動かすのは、『感情』のような不確かなものではない。『力』と、『金』だ」
デキサンの声には、彼が長年信じてきた「価値」の概念が込められていた。
「君は、マリナ・フロセミドを排除した。そして、私の信用をも揺るがした。だが、それでは、この帝都の『秩序』は保てない。混乱はさらに広がり、最終的には、帝都そのものが滅びるだろう」
デキサンは、そう言って、ユウマの目を見据えた。彼の言葉は、ユウマが目指す「真の信用」が、いかにこの社会にとって危険なものであるかを訴えかけるものだった。
「ユウマ・カサギ査定官。私は、君の能力を高く評価している。君が、その能力を正しく使えば、この帝都に新たな『秩序』を築き上げることができるだろう」
デキサンの言葉は、甘い誘惑のようだった。彼は、ユウマを銀行内部の権力闘争に巻き込み、最終的には自分の支配下に置こうと企んでいた。
「私は、君に融資しよう。私の持つ全ての『力』と、『金』を。君が、この帝都に新たな『信用』を築き上げるための、全ての基盤を提供する」
デキサンは、そう言って、ユウマに手を差し伸べた。彼の顔には、不気味な笑みが浮かんでいる。
「クラリス嬢のような、『感情』に流される愚かな選択をする必要はない。君は、彼女よりずっと利口な選択をしようじゃないか」
デキサンの言葉は、ユウマとクラリスの関係を否定し、ユウマの「感情」を愚かだと嘲笑するものだった。彼は、ユウマの心の奥底にある、かつての「完璧な査定官」としての矜持を刺激しようとしていた。
ユウマは、デキサンの差し伸べられた手を、静かに見つめた。彼の脳裏には、デキサンが仕組んだヴァンルート家破綻の真実が鮮明に蘇る。この男は、マリナを利用し、クラリスの家族を破滅へと追いやった張本人だ。
ユウマの心の中で、怒りが燃え上がった。しかし、彼の顔は冷静だった。彼の「感情査定」の能力は、デキサンの言葉の裏に潜む、深い欺瞞と、彼がユウマをただの「道具」としてしか見ていないことを明確に読み取っていた。
「デキサン侯爵」
ユウマの声は、静かだったが、その中に込められた冷徹さは、デキサンの笑みを消し去った。
「貴方が私に融資するという『価値』は、一体どこにあるのですか?」
ユウマの問いは、デキサン侯爵の「価値」そのものを否定するものだった。彼は、デキサンが提供する「力」と「金」が、マリナの不正とヴァンルート家の悲劇を生み出した「偽りの信用」に過ぎないことを、明確に示そうとしていた。
「貴方は、私に『利口な選択』をしろと言う。しかし、貴方が築き上げてきた『秩序』と『価値』は、マリナ・フロセミドという一人の女によって、いとも簡単に崩れ去った。そして今、貴方自身の信用もまた、崩壊寸前だ」
ユウマは、そう言って、デキサンの目をまっすぐに見据えた。彼の瞳には、デキサンの欺瞞を全て見抜いているかのような、冷徹な光が宿っていた。
「私の『価値』は、もはや貴方が提供する『金』や『力』では測れない。私の『価値』は、クラリス・ヴァンルートという『感情』によって、初めて見出されたものだ」
ユウマの言葉は、デキサン侯爵の心を深く突き刺した。彼は、ユウマが、自身の支配する「信用」の概念の外側に存在していることを、今、目の当たりにしていた。
デキサンの顔は、怒りと屈辱で歪んでいた。彼は、ユウマが、自分の誘いをきっぱりと拒否するだけでなく、自身の「価値」を否定するとは、予想していなかったのだ。
応接室は、二人の間に流れる、激しい緊張感に包まれていた。ユウマの「査定官」としての知性と、クラリスとの「共犯者契約」によって得た「感情」が、デキサン侯爵の「力」と「金」という偽りの価値を、真っ向から否定していた。彼らの戦いは、この帝都の「価値」の定義そのものを変える、新たな局面へと突入していた。