4:融資の価値がない
第一次面談は、ユウマ・カサギにとって、自身の「合理主義」が揺らぐことのない、しかし興味深い査定となった。クラリス・ヴァンルートの挑発は、彼の感情を動かすことはなかったが、その裏に隠された意図が、彼の分析欲を掻き立てていた。応接間のティータイムは、一時間にも満たない短いものだったが、ユウマの黒革の手帳は、既に新たな情報で埋まり始めていた。
クラリスは、最後まで完璧な「極悪令嬢」を演じきった。艶やかな笑みを絶やさず、口元からは常に人を小馬鹿にするような言葉を零す。だが、ユウマは彼女の指先の微かな震えや、問いかけた時の瞳の僅かな揺らぎを、決して見逃さなかった。彼の脳裏には、既に彼女の「演技」の裏にある「何か」への確信が芽生え始めていた。
「本日はありがとうございました、査定官さん。おかげで、退屈な午後の良い刺激になりましたわ」
クラリスは、玄関までユウマを見送った。その声には、まるで社交辞令のような響きしかない。彼女は、門が閉まるまで、ユウマの背中を見送るつもりなのだろう。
「いえ。職務ですので」
ユウマは、感情を込めずに答えた。彼にとって、この面談は既に過去のデータだ。彼の頭の中では、収集された情報が高速で処理され、最終的な「査定結果」が構築されつつあった。
門の前に着くと、ユウマは足を止めた。振り返り、クラリスと向き合う。彼女は、変わらぬ笑みを浮かべ、優雅に立っていた。
「それでは、クラリス・ヴァンルート様」
ユウマは、静かに、しかし明確な声で告げた。彼の声は、まるで銀行の金庫の扉が閉まる音のように、一切の感情を挟まない。
「貴女に対する私の査定結果は、以下の通りです」
クラリスの笑みが、僅かに固まるのをユウマは見た。彼女の瞳の奥に、ほんの一瞬、警戒の色が浮かんだ。彼女が、彼の言葉の先に続くものを正確に予測していることが、ユウマには分かった。
「融資不適格」
ユウマの言葉は、簡潔だった。そして、容赦ない。それは、帝都第一中央銀行の査定官が下す、最も重い宣告の一つだった。
クラリスの表情は、一瞬にして凍りついた。だが、それは本当に一瞬のこと。すぐに、彼女は元の完璧な笑みに戻った。その変化はあまりにも速く、一般の人間が見れば、クラリスが一切動じていないように見えただろう。しかし、ユウマの鋭い観察眼は、その僅かな「誤差」を捉えていた。
「……そうですか。それはご愁傷様ですわね、査定官さん。私の融資を見送るなんて、大きな機会損失ですわよ?」
クラリスの声は、皮肉に満ちていた。だが、その言葉の裏には、微かな焦りが見え隠れしている。ユウマは、彼女がこの結果を予想していたと同時に、内心では僅かな期待を抱いていたことを悟った。彼女の「演技」は、完璧ではなかったのだ。
ユウマは、淡々と、査定の根拠を述べた。
「貴女の信用スコアはD-。これは社会的信用が皆無に等しいことを意味します。財産担保は名ばかりで、実質的な価値はありません。事業計画も不透明。そして何より、信頼担保が皆無です」
信頼担保。それは、この信用査定社会において、最も重要な要素の一つだった。個人の人格、過去の取引実績、周囲からの評価――それら全てを総合した、数値化しにくい、しかし根幹となる信用。クラリスには、それが決定的に欠けていた。少なくとも、表面上は。
「利益計画も不備。回収見込みなし。加えて、人格査定においても、リスクが高すぎます。以上の点から、貴女に融資を行うことは、銀行にとって無益なコストであり、合理的ではありません」
ユウマの言葉は、まるで切れ味鋭いメスのように、クラリスの「悪女」という虚像を切り裂いていく。それは、彼女がこれまで散々弄んできた男たちの、絶望の言葉よりも、はるかに冷酷で、容赦ない現実だった。
クラリスの口元は、まだ笑みを湛えていた。だが、その目元には、微かな震えが見える。ユウマの視線は、彼女の右手に注がれた。彼女が握りしめていたティーカップが、微かに、しかし確かに震えているのが見えた。カタカタと、小さな音が、応接間の静寂に響く。
それは、彼女が抱える真の感情が、完璧な「仮面」の下から漏れ出した、決定的な証拠だった。彼女は、この結果を予想し、冷静に対応しようとしていた。しかし、彼の冷徹な言葉は、彼女の心の奥底に眠っていた「何か」を揺さぶったのだ。
「……ご苦労さま、査定官さん。早々に結論を出してくださって、助かりますわ」
クラリスは、震えるティーカップを、ゆっくりとテーブルに戻した。その音は、彼女の心の揺らぎを、そのまま表しているかのようだった。
ユウマは、それ以上何も言わなかった。彼は、一礼すると、ヴァンルート邸の門に向かって歩き出した。彼の背中には、一切の迷いがない。彼は、ただ職務を全うしただけだ。彼の心には、クラリスの動揺が「予測不能な誤差」として記録されたのみだった。
門をくぐり、振り返った時、クラリスはまだそこに立っていた。彼女のプラチナブロンドの髪が、午後の日差しに輝いている。そして、その表情は、依然として完璧な「極悪令嬢」の笑みを浮かべていた。だが、彼女の瞳の奥に宿る、微かな諦めと、ほんの少しの寂しさのようなものを、ユウマは感じ取っていた。
彼は、その感情に「査定不能」と記録した。彼の合理的な世界では、理解できない感情だった。しかし、その「査定不能」な感情こそが、彼の心に、クラリス・ヴァンルートという存在を深く刻み付けたのだった。
ユウマは、静かに門を閉めた。金属が軋む音が、ヴァンルート邸の古びた威厳を、より一層引き立てる。彼の脳裏には、クラリスの「融資不適格」という言葉が、まるで反響音のように響いていた。しかし、その音の裏で、彼の「感情は無価値である」という長年の信念に、小さな、しかし確かな亀裂が入り始めたのを感じていた。
この出会いは、単なる銀行監査では終わらない。彼の合理的な世界は、この「極悪令嬢」によって、予期せぬ方向へと舵を切ろうとしていた。