32:窮地の反論
ヴァンルート邸の地下室は、信用監査局の精鋭部隊によって完全に包囲されていた。黒い制服の男たちが銃を構え、冷徹な眼差しでユウマ・カサギとクラリス・ヴァンルートを取り囲む。その緊張感は、地下室の冷たい空気を一層凍てつかせるかのようだった。
「ユウマ・カサギ! クラリス・ヴァンルート! 観念しろ! これ以上の抵抗は無意味だ!」
信用監査局の指揮官が、冷徹な声で告げた。彼の声には、一切の感情が感じられなかった。
クラリスは、ユウマの背後に身を寄せ、その手を強く握りしめた。彼女の身体は微かに震えていたが、その瞳には、恐怖ではなく、この状況を打開しようとする強い意志が宿っていた。
ユウマは、指揮官の言葉に、何も答えなかった。彼の視線は、信用監査局員たちの背後に見え隠れする、マリナ・フロセミドの「影」に注がれている。彼は、この地下室が、真実を公表するための、最後の「舞台」となることを理解していた。
その時、地下室の入口から、一人の女性がゆっくりと姿を現した。銀縁眼鏡の奥の瞳は、氷のように冷たく、その顔には、一切の感情が読み取れない。マリナ・フロセミドだ。
「ユウマ・カサギ。貴様、ここまで私に恥をかかせるとはな。帝都の信用システムを混乱させ、挙句の果てに、虚偽の情報を流し込むとは。この社会に対する冒涜だ」
マリナの声は、静かだったが、その中に込められた怒りは、地下室の空気を震わせるかのようだった。彼女の視線は、ユウマの腹部に巻かれた包帯に、ちらりと向けられた。その視線には、侮蔑と、そしてユウマを徹底的に排除しようとする、冷たい殺意が宿っていた。
ユウマは、マリナの言葉に、微かに口元を緩めた。
「虚偽だと? マリナ・フロセミド。貴女が築き上げてきた『信用』こそが、最大の虚偽だ」
ユウマの声は、静かだったが、その中に込められた真実の重みに、マリナの顔が微かに歪んだ。
「貴様、何を言っている? 私の『信用スコア』は、この帝都で最も純粋なものだ。貴様のような『感情』に流される人間とは違う」
マリナは、激高したように言い放った。彼女にとって、「信用スコアの純潔性」は、自身の存在意義そのものだった。
ユウマは、懐から記録媒体を取り出し、マリナの目の前に突きつけた。
「これは、クラリス・ヴァンルートの父が遺した『信用スコア不正操作装置』で解析した、金融大崩壊の真実を示すデータだ。そして、そこに刻まれているのは、貴女自身の認証コードだ」
ユウマの声は、冷徹だったが、その中に込められた真実の重みが、地下室に響き渡る。クラリスは、ユウマの言葉に、力強く頷いた。
マリナは、ユウマが差し出した記録媒体を一瞥すると、鼻で笑った。
「馬鹿げたことを。そんなものは、貴様がでっち上げた偽造データに過ぎない。この期に及んで、詭弁を弄するとはな」
マリナは、そう言って、指揮官に指示を出した。
「早くこの者たちを拘束しろ! この地下室の装置も、全て破棄するんだ!」
指揮官は、マリナの命令を受け、信用監査局員たちに突撃を命じた。男たちが、一斉にユウマとクラリスに襲いかかろうとする。
その瞬間、ユウマは、クラリスの背中をそっと押し出した。
「クラリス・ヴァンルート。貴女の『感情』が、この社会の『信用』を揺るがす」
ユウマの声は、クラリスの耳に、明確に響いた。彼の言葉は、クラリスが長年背負ってきた「悪女」という仮面を、今、この場で脱ぎ捨てることを促していた。
クラリスは、ユウマの言葉に、深く頷いた。彼女の瞳には、迷いはなかった。
「マリナ・フロセミド! 貴女は、私と父を陥れただけでなく、この社会の全ての人々を欺いてきた!」
クラリスは、マリナに向かって、力強く叫んだ。彼女の声は、地下室の壁に反響し、マリナの冷徹な仮面を揺るがすかのようだった。
「私の父は、この地下室で、貴女が仕組んだ金融大崩壊の真実を突き止めていた。そして、貴女は、その父を殺し、私を『悪女』に仕立て上げ、ヴァンルート家から秘密を奪おうとした!」
クラリスの言葉は、マリナの表情に、微かな動揺を生じさせた。彼女の冷徹な瞳の奥に、一瞬だけ、怒りとは異なる「焦り」のようなものが浮かんだ。
「貴女は、自身の欲望のために、多くの人々の信用スコアを操作し、彼らの人生を破壊した! 私の妹、リズの視力を奪ったのも、この社会の信用システムが歪んでいるからだ!」
クラリスは、そう言って、リズの瞳の不自由さが、この社会の歪みによって引き起こされたことを示唆した。彼女の言葉は、マリナの心の奥底に、鋭い刃のように突き刺さる。
マリナの顔は、怒りで歪んでいた。彼女は、クラリスの言葉を打ち消そうと、声を荒げた。
「黙れ! 貴様のような『悪女』の言葉など、誰も信じない! 貴様は、信用を失墜させた犯罪者に過ぎない!」
しかし、クラリスは、マリナの言葉に怯まなかった。彼女は、ユウマが与えてくれた「感情担保」の価値を信じ、真実を語ることを選んだのだ。
「いいえ! 貴女が言う『信用』は、ただの数字に過ぎない! 人間の真の『信用』は、感情の中にこそある! そして、貴女には、それが理解できない!」
クラリスの声は、地下室に響き渡る。その言葉は、マリナが絶対的なものとして崇拝してきた「信用スコア」という概念を、根底から否定するものだった。
マリナは、激高した。彼女は、ユウマとクラリスに向かって、一歩足を踏み出した。
「貴様らのような『感情』に流される愚か者どもが、私の秩序を乱すことは許さない!」
マリナの視線が、ユウマに向けられた。彼女は、ユウマの「感情査定」という異端の能力を、この社会の秩序を乱す「異物」として、徹底的に排除しようとしていた。
その時、地下室の入口から、けたたましい音が響き渡った。
「マリナ・フロセミド! あなたの不正が、全て明らかになったぞ!」
声の主は、カイ・シュナイダーだった。彼の後ろには、アラン・フォックスを含む、複数の帝都新聞社の記者が立っていた。彼らの手には、カメラと通信機器が握られている。
アランは、マリナに向かって、ユウマから送られたデータを大きく表示させたデバイスを掲げた。
「帝都新聞は、あなたの不正を全て報じる! 金融大崩壊の真実を、帝都の全ての人々が知ることになる!」
アランの声は、地下室に響き渡る。マリナの顔から、一瞬にして血の気が引いた。彼女は、まさか、この地下室まで記者が入り込んでいるとは予想していなかったのだ。そして、何よりも、彼女の「真実」が、こうして白日の下に晒されることを恐れていた。
信用監査局員たちが、混乱に陥った。彼らは、記者たちの存在に動揺し、動きが止まってしまった。
ユウマは、その隙を逃さなかった。彼は、クラリスの手を取り、マリナに向かって一歩足を踏み出した。
「マリナ・フロセミド。貴女の『信用』は、今、完全に『破綻』した」
ユウマの声は、静かだったが、その言葉には、絶対的な「勝利」の確信が込められていた。彼の瞳には、かつての冷徹さではなく、真実を暴き出し、この社会の歪みを正すことへの、確固たる「正義」が宿っていた。
マリナは、ユウマとクラリスの顔を交互に見た。彼らの瞳に宿る、揺るぎない決意。そして、その背後にいるカイやアラン、そして帝都新聞社という「正義の目」。彼女は、自身の完璧な「秩序」が、今、まさに崩壊しようとしていることを悟った。
「貴様ら……!」
マリナの声は、怒りと、そして絶望に満ちていた。彼女は、自身が築き上げてきた全てが、今、ユウマ・カサギとクラリス・ヴァンルートという二人の異端者によって、破壊されようとしているのを見ていた。
地下室は、緊迫した沈黙に包まれた。信用監査局員たちは、マリナの命令を待つが、マリナは何も言えない。彼女の支配は、今、この地下室で、まさに終わりを告げようとしていた。