3:第一次面談
応接間の空気は、紅茶の香りと、二人の間に流れる張り詰めた緊張で満たされていた。クラリス・ヴァンルートは、ユウマ・カサギの目の前で、ゆっくりと脚を組み替えた。ドレスの裾が、音もなく擦れる。その一つ一つの仕草が、計算され尽くした「演技」であるかのようだった。
「さて、堅苦しい書類の話は一旦置いて、個人的な話でもしましょうか、査定官さん」
クラリスは、妖艶な笑みを浮かべた。その表情は、まるで獲物を手中に収めた魔女のようでもあった。彼女は、ティーカップをそっとソーサーに戻すと、ユウマに身を乗り出す。その動きに合わせて、ドレスの胸元が僅かに開き、芳しい香水の匂いが、ふわりとユウマの鼻腔をくすぐった。
ユウマは、感情の揺らぎを一切見せず、ただ冷徹に彼女を見つめ返した。彼の脳裏には「個人的な話は査定に不要。誘惑行為の可能性。警戒レベル:中」というアラートが点滅している。
「私的な会話は、銀行の監査には不要です。業務に関係のない質問にはお答えできません」
彼の声は、氷のように冷たく、機械的だった。彼は、会話の主導権を握られることを拒否するように、手元の黒革の手帳にペンを走らせる。そこに書かれたのは、クラリスの「誘惑試行」という事実のみだ。
「あら、つれないわね。でも、男なんてみんなそうでしょう? 最初は澄ましていても、私の魅力にかかれば、すぐに骨抜きよ」
クラリスは、挑発的な言葉を続けた。その瞳は、まるでユウマの心の奥底を覗き込もうとしているかのようだった。彼女は、これまで多くの男たちをその罠にかけてきた。甘い言葉で誘惑し、心を弄び、そして破滅へと導いてきた。それが、彼女が自らに課した「極悪令嬢」という役割だった。
「私の記録によれば、あなたは複数の男性を破滅させています。しかし、その手口は、感情を弄ぶもので、法的な確証に乏しい。私に、その手法は通用しません」
ユウマは、淡々と事実を突きつけた。彼の言葉には、一切の感情的な揺らぎがない。クラリスの魅力的な外見や言葉は、彼にとっては単なる「データ」でしかなかった。彼の脳内では、彼女の言動が全て「査定項目」として分類・記録されていく。
クラリスは、一瞬だけ目を見開いた。彼女の計算が、少し狂ったようにも見えた。彼女は、これまで男たちが自分に向けた視線、情欲、嫉妬、執着、そしてその後の絶望を熟知していた。しかし、目の前のユウマの瞳には、それらとは全く異なる、無機質な「分析」の光しか宿っていない。
「ふふ、面白いこと言うのね、査定官さん。感情を弄ぶ、ですか。それが私の得意技なのよ」
クラリスは、すぐに笑みを深めた。彼女は、負けを認めるような真似はしない。ユウマの冷徹な反応は、彼女にとって新たな「攻略対象」として、むしろ興味を掻き立てるものだった。彼は、これまでの男たちとは違う。だからこそ、試す価値がある。
クラリスは、ゆっくりと立ち上がり、ユウマの座る椅子の横に回った。彼女のドレスの裾が、ユウマの膝に触れるか触れないかの位置で揺れる。芳しい香水の香りが、さらに強くユウマを包み込んだ。
「ねえ、査定官さん。貴方、恋愛経験はないでしょう? まるで、愛というものが何なのか、理解していないみたいだわ」
彼女は、身をかがめ、ユウマの耳元に囁いた。その声は、甘く、誘うようだった。吐息が、ユウマの耳朶をくすぐる。
ユウマは、その瞬間、身体が微かに硬直するのを感じた。彼の脳裏に、かつて姉を失った忌まわしい記憶がフラッシュバックする。感情に溺れ、財産を失い、破滅した姉の姿。その記憶が、彼の中で「感情は人生を破壊する」という揺るぎない信念を構築した。だからこそ、彼は銀行という「数値の世界」に逃げ込み、感情を排除して生きてきた。
「私のプライベートに関する情報は、査定対象外です。それに、私的な感情は、職務には不要です」
ユウマは、声のトーンを僅かに落とし、きっぱりと言い放った。彼の言葉は、クラリスの侵入を許さない、強固な防壁のようだった。彼は、ペンを握る手に僅かに力を込めた。手帳の余白に、再び彼の思考が書き込まれていく。
考察:
対象人物、個人の感情、特に恋愛経験を執拗に探ろうとする。
その目的は、相手の精神的弱点を探り、査定に影響を及ぼすためか。
しかし、感情を排除した査定官にとっては、こうした試みは無意味。
クラリスは、ユウマの反応を見て、フッと小さく笑った。それは、諦めの笑みにも、あるいは、さらに深い興味を覚えた笑みにも見えた。彼女は、ユウマの横からゆっくりと顔を離し、再び正面に回り込んだ。
「あら、そう。では、聞くけれど。貴方は、私を抱きたいとは思わないの?」
彼女は、今度は直接的に、ユウマの瞳をまっすぐに見つめて尋ねた。その視線は、一切の逃げ場を与えない。クラリスの瞳には、挑発だけでなく、どこか、彼がどう答えるか、純粋な好奇心が宿っているようにも見えた。
ユウマは、その問いに、一瞬だけ沈黙した。彼の脳内で、質問が分析され、最適な回答が導き出される。それは、感情を挟まない、純粋な論理だった。
「……個人的な感情は、銀行の職務倫理規定に反します」
彼は、そう答えた。
「そして、査定官として、目の前の対象を個人的な感情で評価することは、最も不適格な行為です。そう感じたら、査定官失格です」
ユウマの声は、微塵も揺るがなかった。彼は、クラリスの挑発を、完全に事務的な「規定」と「職務」で跳ね返したのだ。彼の言葉は、まるで鋼鉄の壁のように、クラリスの攻勢を阻んだ。
クラリスは、ユウマの完璧な返答に、初めて、本当に微かに、驚きの表情を見せた。それは、一瞬だけ彼女の仮面の下から覗いた、素の表情だった。彼女の口元に浮かんでいた笑みが、少しだけ硬くなる。
(この男は……本当に感情がないの? それとも、あまりにも完璧に隠しているだけ……?)
クラリスは、ユウマから目を離し、再び自分のカップを手に取った。その指先が、僅かに震えているのを、ユウマは逃さなかった。彼はその「誤差」を、冷静に記録した。
クラリスは、一口、紅茶を飲んだ。その口元から、ゆっくりと紅茶の香りが立ち上る。彼女は、静かにユウマを見つめながら、まるで自分自身に言い聞かせるように、呟いた。
「……ええ、そうね。それでは、私の価値は、貴方には測れない、ということかしら」
その言葉は、挑発のようでもあり、諦めのようでもあった。ユウマは、その言葉の真意を測りかねた。彼の査定は、まだ始まったばかりだ。そして、目の前の「極悪令嬢」は、彼の想像をはるかに超える、複雑な存在であると、この最初の面談で強く感じ始めていた。