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2:査定対象:極悪令嬢


ユウマ・カサギは、ヴァンルート家の応接間の硬い椅子に座り、持参した黒革の手帳を開いた。彼が受け取ったのは、クラリス・ヴァンルートの信用記録だった。銀行のシステムに保管されている公式のデータであり、公には「真実」とされる情報だ。彼の銀縁眼鏡の奥の瞳は、一行一行を精査するように動く。

そこに記されていたのは、おびただしい数の「悪評」だった。

【信用記録抜粋:クラリス・ヴァンルート】

氏名: クラリス・ヴァンルート

身分: 元・高位貴族ヴァンルート家長女(現、Dクラス認定)

社会活動履歴:

【詐欺的契約締結】:

エベール子爵家長男アルノー・エベールとの婚約破棄事件(帝国歴892年): 巨額の慰謝料と資産を要求し、子爵家を破産寸前に追い込む。エベール子爵長男は精神的に破綻。

商会「ロズウェル貿易」代表アルフレッド・ロズウェルとの共同事業破綻(帝国歴893年): 事業資金の不正流用疑惑。ロズウェル商会は倒産し、代表は行方不明。

王都銀行頭取令息レオン・ヴェルナーとの交際関係破綻(帝国歴894年): ヴェルナー家から多額の贈与を受けた後、一方的に関係を断つ。令息は失踪、後に地方で自殺と判明。

【情事・背信行為】:

複数の既婚貴族男性との不貞関係の噂。

社交界における虚偽の情報流布、悪意ある中傷による他家への信用毀損。

高額宝飾品、美術品の横領疑惑。

【人格査定】: D- (社会的信用なし。契約制限対象)

ユウマは、その記録を淡々と読み進めていく。データは、クラリス・ヴァンルートが「極悪令嬢」と呼ばれるにふさわしい人物であることを示している。だが、彼の合理的な思考は、ある一点に引っかかっていた。

(……全てに共通するのは“証拠が曖昧”なこと)

各事件の詳細は記載されているが、決定的な「法的証拠」や「目撃情報」が驚くほど少ない。ほとんどが、「~という噂がある」「~と推測される」「~と関係者が証言」といった、間接的な情報ばかりだった。通常、銀行が信用剥奪を行う際には、確固たる証拠が求められる。にもかかわらず、これほど明確な「悪女」という評価が下されているのは、不自然だった。

ユウマは、手帳の余白に、自身の分析を小さく書き込んだ。

考察:

各事例において、具体的な物証に乏しい。

被害者とされる人物の証言が、過度に感情的。

情報操作、あるいは作為的な情報流布の可能性を排除できない。

特に「人格査定D-」は、通常であれば再査定の余地もないはずだが、貴族院が特例として監査を要請している点も不可解。

ペンを置いたユウマの視線が、目の前のクラリスへと向かった。彼女は、優雅にカップを傾け、紅茶を飲んでいる。その仕草は洗練されており、目の前の記録にあるような「下品な悪女」とはかけ離れた印象だった。

彼女の顔は、あまりにも平静だった。まるで、自分の過去の悪事が書かれた書類を、何でもないものとして見ているかのように。その無関心さは、ユウマの疑問をさらに深めさせた。

(本当に悪女ならば、もう少し取り繕うか、あるいは怒りや焦りを見せるはずだ。だが、この女は――)

ユウマの脳内で、情報が急速に処理されていく。彼は、人の感情を「非効率なもの」として軽蔑しているが、同時に、その「非効率な感情」が、人間に特有の行動パターンを生み出すことも理解していた。そして、クラリスの行動は、そのパターンに当てはまらない、ある種の「異物」だった。

「査定官さん。私の記録は、どうでした? 首を傾げていらっしゃるわ」

クラリスの声が、ユウマの思考を遮った。彼女は、口元に微笑みを湛えている。その表情からは、一切の感情を読み取ることができない。それは、ユウマ自身の「無表情」と酷似しているようにも思えた。

「いえ。ただ、確認しているだけです」ユウマは、感情を込めずに答えた。彼にとって、クラリスの反応は、査定のための重要なデータの一部だった。

「私の悪評は、帝都中に知れ渡っているでしょう? 今更、驚くようなことでもないはずですけれど」クラリスは、紅茶を一口飲み、視線をユウマの書類へと移した。「あなたは、そんな記録を見て、私をどう評価しますの?」

ユウマは、クラリスの挑戦的な問いかけに、真っ向から答えた。彼の声は、一切の揺らぎがない。

「客観的事実に基づけば、融資不適格。社会的信用は皆無に等しい。D-の査定は妥当です」

クラリスの笑みが、僅かに深まった。しかし、その瞳の奥には、ほんの微かに、感情の揺らぎのようなものが垣間見えたのを、ユウマは捉えた。それは一瞬のことで、すぐに彼女のいつもの「仮面」の下に隠れてしまったが。

(今、何か、見えた……?)

ユウマは、その瞬間を逃さなかった。彼の観察力は、人々の僅かな表情の変化や、声のトーンの揺らぎから、隠された真実を読み取ることに長けていた。彼はそれを「誤差」と呼んだ。数値化できない、しかし確かに存在する「何か」。

「そうですか。では、私の記録は、まさに“極悪令嬢”のそれであると」クラリスは、自らの悪名を口にしながらも、その声には皮肉が込められている。

ユウマは、手帳に改めてペンを走らせた。

備考:

本人、自身の悪評に対し、反応に乏しい。

しかし、D-査定への言及時、微細な動揺を観測。

この動揺は、怒りや悲しみといった直接的な感情ではなく、諦念、あるいは皮肉に近い。

ユウマの合理的な脳は、目の前の「極悪令嬢」が、記録にある通りの人物ではない可能性を探り始めていた。彼女が「悪女」を演じているのだとしたら、その目的は何なのか? 何のために、自らを貶めるような評判を甘んじて受け入れているのか?

彼の過去に、姉が恋愛詐欺で破滅した経験があるユウマにとって、「詐欺」という言葉は決して軽いものではなかった。しかし、目の前のクラリスが纏う「作為」は、彼がこれまでに見てきた単純な詐欺師とは一線を画しているように思えた。

彼は、ふと、この邸宅の門で見た、あの黒薔薇を思い出した。荒廃した庭で、一輪だけ咲き誇る、艶やかな黒。それはまるで、このクラリス・ヴァンルートという女の、奇妙なまでの孤高さを象徴しているかのようだった。

ユウマの心の奥底で、氷のような彼の信念が、微かに溶け始める予感があった。



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