19:盟友との再会
ヴァンルート邸の客間を、夜明けの光が淡く照らしていた。ユウマ・カサギは、クラリス・ヴァンルートと共に、新たな決意を胸にしていた。彼の腹部の傷は、まだ鈍い痛みを伴っていたが、その心は、これまで感じたことのないほど研ぎ澄まされていた。クラリスが打ち明けた「真実」は、彼の世界観を根底から覆し、彼を新たな戦いへと駆り立てる原動力となっていた。
「私は、まず信用監査局とマリナ・フロセミドに関する情報を集めます」
ユウマは、クラリスに告げた。彼の声は、冷静だが、その瞳には、獲物を狙う鷹のような鋭さが宿っていた。
「しかし、貴方の傷が……」クラリスは、ユウマの腹部に巻かれた包帯に視線を落とした。彼の身を案じる気持ちが、その声に滲んでいた。
「問題ありません。これは、査定に必要な『代償』です」
ユウマは、そう言って、クラリスの顔を見つめた。彼の言葉には、彼女の「感情担保」に応えようとする、揺るぎない覚悟が込められていた。
クラリスは、ユウマの決意に満ちた瞳を見て、深く頷いた。彼女は、彼がどれほどの覚悟を持ってこの戦いに臨もうとしているのかを理解していた。
「分かったわ。私は、この邸宅に残された父の遺品を、もう一度徹底的に調べます。父が残した『秘密』の証拠が、どこかに隠されているはず」
二人の間に、新たな「協力関係」が確立された。彼らは、互いの役割を明確にし、この腐敗した査定社会の闇に立ち向かうことを決意したのだ。
ユウマは、ヴァンルート邸を後にし、帝都の裏通りへと足を踏み入れた。早朝の帝都は、まだ眠りから覚めきっておらず、人通りもまばらだ。彼は、人目を避けるように、薄暗い路地を歩き進んだ。
彼の目的地は、帝都の金融街から離れた、寂れた一角にある古い喫茶店だった。そこは、表向きは普通の喫茶店だが、裏では、帝都のあらゆる情報が集まる「情報屋」として機能していた。そして、そこにいるのは、ユウマが帝都第一中央銀行に入行する以前からの、数少ない「盟友」と呼べる人物だった。
喫茶店の扉を開けると、古い木の匂いと、淹れたてのコーヒーの香りが混じり合って鼻をくすぐった。店内は薄暗く、カウンターの奥には、一人の男が新聞を広げている。
その男の名は、カイ・シュナイダー。元はユウマと同じ銀行員だったが、不正を告発しようとして左遷され、現在は帝都の裏社会で「情報屋」として生計を立てている。痩せた体躯に、やつれた顔。しかし、その瞳の奥には、鋭い知性と、そしてどこか諦めにも似た皮肉が宿っていた。
「おいおい、ユウマじゃないか。随分と派手なことになったな。帝都第一中央銀行の模範的な査定官が、まさか『極悪令嬢』と夜会を駆け回るとは」
カイは、新聞から顔を上げ、ユウマの姿を認めると、ニヤリと笑った。彼の視線は、ユウマの腹部に巻かれた包帯に、ちらりと向けられた。
ユウマは、カイの向かいの席に座り、コーヒーを注文した。
「貴方の耳にも、もう入っていたか。相変わらず、早いな」ユウマの声は、いつも通り冷静だったが、その中には、旧友との再会を喜ぶような、微かな安堵が混じっていた。
「そりゃあな。帝都の裏社会じゃ、お前の名前は今、飛ぶ鳥を落とす勢いだよ。『冷血査定官、悪女に骨抜きにされる』ってな。お前も、ようやく人間らしくなったってことか?」
カイは、嘲るように言ったが、その瞳の奥には、ユウマを心配するような色が見て取れた。カイは、ユウマが感情を排除して生きるようになった経緯を知っている、数少ない人物の一人だった。
「私情は挟まない。これは、新たな査定です」ユウマは、きっぱりと言い放った。彼の言葉は、彼自身の決意の表れでもあった。
カイは、ユウマの言葉に、肩をすくめた。そして、真剣な表情で、ユウマに問いかけた。
「それで、一体何があった? 信用監査局まで出てきたとなると、ただ事じゃないだろう」
ユウマは、カイの問いに、躊躇なく答えた。彼は、クラリスから聞いた「金融大崩壊の真実」と、ヴァンルート家が隠し持つ「秘密」の可能性、そして信用監査局とマリナ・フロセミドの関連性について、カイに全てを打ち明けた。
カイは、ユウマの話を聞きながら、次第に表情を硬くしていった。彼の目には、驚きと、そして深い怒りが宿っていた。彼自身も、かつて銀行の闇に触れ、そのために地位を追われた経験があったからこそ、ユウマの言葉の重さを理解していた。
「金融大崩壊が……まさか、そんな裏があったとは。そして、マリナ・フロセミドが……」カイは、呻くように言った。彼の声には、怒りよりも、むしろ絶望のようなものが混じっていた。
「信用監査局の動きが、あまりにも不自然だった。彼らは、単にクラリスを捕らえるだけでなく、何かを探している。それが、ヴァンルート家の秘密と関連していると見ている」ユウマは、カイに情報を求めた。「信用監査局の動き、特にマリナ・フロセミドに関する情報を集めてほしい。彼らが何を狙っているのか、その目的を突き止めたい」
カイは、ユウマの真剣な表情を見て、深く息を吐いた。彼の顔には、疲労と、そしてこの腐敗した社会への諦めのようなものが滲んでいた。
「俺は、もう関わりたくないんだ。銀行の闇に触れて、俺は全てを失った。これ以上、リスクは負えない」
カイは、そう言って、視線を逸らした。彼の言葉は、彼自身の過去の苦痛を物語っていた。彼自身も、ユウマと同じように、この社会のシステムに翻弄されてきたのだ。
ユウマは、カイの言葉を遮らず、静かに彼の目を見つめた。
「カイ。貴方は、かつてこの銀行の腐敗を告発しようとした。貴方もまた、この社会の歪みに苦しんできた人間だ。私たちは、同じだ」
ユウマの言葉は、彼の心の奥底から湧き上がってきた、偽りのない本音だった。彼が、感情を排除して生きてきた中で、唯一「同じ」だと感じた人間が、カイだった。
カイは、ユウマの言葉に、ハッと顔を上げた。彼の瞳に、微かな動揺が走った。ユウマの言葉は、彼の心の奥底に眠っていた「正義感」と、そして「怒り」を揺さぶるものだった。
「俺は……」
カイは、言葉を詰まらせた。彼の脳裏には、かつて彼が銀行の不正を暴こうとして、ことごとく裏切られ、失意の底に沈んだ過去が蘇っていた。
ユウマは、コーヒーを一口飲んだ。そして、黒革の手帳を取り出し、あの「感情担保融資契約書」の控えを、カイの目の前に置いた。
「これは、私がクラリス・ヴァンルートと結んだ『感情担保融資契約書』の控えです」
カイは、羊皮紙に書かれた文字を読み進めるにつれて、目を見開いていった。その瞳には、驚きと、そしてユウマの「狂気」に対する呆れが混じっていた。
「『感情』を担保に? 馬鹿げている! お前は、ついに頭がおかしくなったのか!?」
カイは、思わず声を荒げた。銀行員として、この契約がいかに異例で、そして破綻しているかを、彼は誰よりも理解していたからだ。
「ええ。これは、合理的な判断とは言えません。しかし、この契約は、私に新たな『価値』を示してくれた。そして、この社会の真の『信用』は、数字だけでは測れないことを教えてくれた」
ユウマは、そう言って、カイの瞳をまっすぐに見つめた。彼の瞳には、狂気ではなく、確かな信念が宿っていた。
「貴方も、私と同じように、この社会の『信用』という名の鎖に苦しんできた人間だ。この『感情担保融資』は、その鎖を断ち切るための、新たな一手となり得る」
ユウマの言葉は、カイの心の奥底に、深く響いた。彼は、ユウマの真剣な瞳を見て、深く息を吐いた。彼の顔から、皮肉な笑みが消え失せた。
「……分かった。この狂った査定官に付き合ってやるよ。お前が、そこまで言うならな」
カイは、そう言って、差し出されたコーヒーカップを手に取った。彼の声は、諦めにも似た響きだったが、その瞳には、ユウマへの深い信頼と、そして、再びこの社会の闇に立ち向かおうとする、微かな「覚悟」が宿っていた。
「ありがとう、カイ」
ユウマは、静かに言った。彼の心の中で、新たな「共犯関係」が、確実に築かれていくのを感じていた。帝都の裏社会で、二人の「盟友」は、この腐敗した査定社会の闇に立ち向かうための、新たな一歩を踏み出したのだった。