18:査定官の決意
ヴァンルート邸の客間は、夜の静寂に包まれていた。クラリス・ヴァンルートが打ち明けた「金融大崩壊の真実」と、帝都第一中央銀行の闇。そして、マリナ・フロセミドがその中心にいるという事実。それら全てが、ユウマ・カサギの心を激しく揺さぶっていた。彼の腹部の痛みは、もはや些細なものに感じられた。彼の心は、これまで信じてきた世界の根幹が、音を立てて崩れ去る音を聞いていた。
ユウマは、ソファに深く身を沈め、静かに目を閉じた。彼の脳裏には、過去の悲劇が鮮明に蘇る。
それは、ユウマがまだ幼かった頃の記憶だ。彼の姉は、明るく、誰からも愛される優しい女性だった。しかし、彼女は、ある男性に恋をした。その男性は、信用スコアが低く、社会の底辺で生きていた。姉は、彼の信用スコアを上げようと、必死に努力した。自身の貯金を切り崩し、彼に投資し、あらゆる手段を講じた。しかし、この「信用査定社会」の壁は、あまりにも高かった。
姉の信用スコアは、男性との関係によって、みるみるうちに低下していった。周囲からの冷たい視線。銀行からの融資拒否。仕事の解雇。彼女は、社会から孤立し、追い詰められていった。
そして、ある日、姉は、ユウマの目の前で、自らの命を絶った。
その時の姉の顔が、ユウマの脳裏に焼き付いている。絶望と、そして「信用」という名の鎖に縛られ、身動きが取れなくなった者の、深い悲しみ。
ユウマは、その悲劇を目の当たりにして、誓った。「感情は無価値である」と。感情は、人を弱くし、判断を誤らせ、最終的には破滅へと導くものだと。だからこそ、彼は感情を排除し、ひたすら「合理性」を追求する道を選んだ。帝都第一中央銀行の査定官として、彼は「信用スコア」という絶対的な基準を信じ、その数字によって全てを判断してきた。それが、姉のような悲劇を繰り返さないための、唯一の道だと信じていたのだ。
しかし、今、クラリスが打ち明けた真実が、その信念を根底から揺るがした。姉の死は、単なる感情の暴走によるものではなかった。それは、この「信用査定社会」というシステムそのものが持つ、深い歪みによって引き起こされた悲劇だったのだ。
「……私の姉は、感情に溺れて、命を落としました」
ユウマは、静かに、しかし確かな声で語り始めた。彼の声は、震えていたが、その瞳には、過去と向き合う強い決意が宿っていた。クラリスは、ユウマの言葉に、息を呑んだ。彼女は、彼の冷徹な仮面の下に、これほど深い悲しみが隠されていたことを、初めて知った。
「私は、その悲劇を繰り返さないために、感情を排除し、『合理性』だけを追求してきました。この『信用査定社会』のシステムを信じ、その中で生きることを選んだ」
ユウマは、自嘲するように、フッと小さく笑った。
「しかし、貴女は、その『感情』こそが、最も強固な『担保』となり得ると証明してくれた。そして、この社会のシステムそのものが、歪んでいることを……私に教えてくれた」
彼の言葉は、彼自身の過去を肯定し、そして未来へと踏み出すための、新たな一歩だった。
クラリスは、ユウマの言葉に、静かに涙を流した。彼女は、彼の痛みを、そして彼の決意を、深く理解していた。
「査定官さん……」
クラリスは、ユウマの手をそっと握った。彼女の掌から伝わる温かさが、彼の心を包み込む。
ユウマは、クラリスの手を握り返した。彼の瞳には、これまでの冷徹な光とは異なる、新たな「決意」の光が宿っていた。
「私は、貴女の『感情』を担保とした融資を、正式に承認します」
ユウマは、そう言って、クラリスの瞳をまっすぐに見つめた。彼の声は、まるで宣誓のように、力強く響いた。
「そして、貴女が守ろうとしている『秘密』。ヴァンルート家の真実。そして、金融大崩壊の裏にある、この社会の歪み。それら全てを、貴女と共に暴き出します」
彼の言葉は、彼自身の「査定官」としての職務を、そして彼自身の人生の全てを賭けた、新たな「決意」の表れだった。彼は、もはや帝都第一中央銀行の査定官としてではなく、クラリス・ヴァンルートの「感情担保融資」を承認した「共犯者」として、この戦いに身を投じることを決意したのだ。
クラリスは、ユウマの言葉に、感極まったように頷いた。彼女の瞳には、希望と、そして彼への深い信頼が満ちていた。彼女は、一人で背負ってきた重荷を、今、この冷徹な査定官と分かち合えることに、心からの安堵を感じていた。
「ありがとう、査定官さん……」
クラリスの声は、かすれていたが、その言葉には、彼女の全ての感情が込められていた。
ユウマは、クラリスの言葉に、微かに口元を緩めた。それは、彼がこれまで見せたことのない、優しい笑みだった。彼の心の中の「誤差」は、もはや「誤差」ではなかった。それは、彼の人生を豊かにし、彼を「人間」として成長させる、かけがえのない「価値」となっていたのだ。
二人の間には、言葉以上の深い信頼が築かれていた。彼らは、互いの弱さを知り、互いの強さを認め合った。そして、この腐敗した「信用査定社会」の闇に、共に立ち向かうことを決意した。
夜が明け、東の空が白み始める。ヴァンルート邸の窓から差し込む朝日は、彼らの新たな「決意」を祝福しているかのようだった。彼らの戦いは、今、始まったばかりだった。