第二幕 16:傷と信頼
地下水路の鉄格子が、鈍い音を立てて閉まった。信用監査局の追跡者たちは、その向こう側で憤怒の叫び声を上げていたが、ユウマ・カサギとクラリス・ヴァンルートの耳には届かない。二人の間には、追跡者たちの苛立ちとは対照的な、重い静寂が降りていた。
ユウマは、クラリスの腕の中で、激しい痛みに顔を歪めていた。腹部に受けた拳打は深く、呼吸をするたびに鋭い痛みが走る。彼の銀縁眼鏡は外れ、その冷徹な瞳には、これまでにない疲労の色が浮かんでいた。しかし、その瞳の奥には、確かな決意と、クラリスを守り抜いた安堵が混じっていた。
「査定官さん! 大丈夫!?」
クラリスの声は、震えていた。彼女の瞳には、大粒の涙が溢れ、ユウマの頬にぽたりと落ちる。ドレスの裾は泥水に汚れ、髪は乱れているが、そんなことは彼女の関心事ではなかった。彼女の意識は、ただひたすら、目の前の傷ついたユウマに向けられていた。
彼女は、膝をつき、ユウマの顔を覗き込んだ。彼の額には、冷や汗が滲んでいる。
「しっかりして! どこか、安全な場所に……」
クラリスは、周囲を見回した。地下水路は、暗く、湿っており、このまま留まるのは賢明ではなかった。彼女は、ユウマの身体を支えようと手を回したが、彼の体は重く、自力で立ち上がらせるのは困難だった。
ユウマは、クラリスの手を握った。彼の声はかすれてはいたが、その瞳は変わらず冷静だった。
「水路の奥に……非常用出口の記録がある。そこまで……」
彼は、歯を食いしばりながら、途切れ途切れに言葉を絞り出した。帝都の地下水路の設計図は、帝都第一中央銀行のデータベースにも保管されている。彼の頭の中には、この複雑な水路の全てが、正確な「地図」として描かれていた。
クラリスは、ユウマの言葉に頷いた。彼が、この状況でも冷静に判断していることに、彼女は驚きを覚えた。そして、その冷静さの裏にある、彼女を守ろうとする強い意志を、確かに感じ取っていた。
「分かったわ! 私が貴方を運びます!」
クラリスは、決意に満ちた表情で、ユウマの腕を自分の首に回した。そして、彼の身体を懸命に支え、ゆっくりと立ち上がらせた。ユウマの体重が、華奢な彼女の身体にずしりと乗しかかる。しかし、クラリスは、一歩一歩、確実に足を進めていった。
二人の足元は、冷たい水に浸かっている。地下水路の奥へと進むにつれて、空気はさらに冷たくなった。埃とカビの匂いに加えて、鉄の錆びた匂いが混じる。しかし、クラリスは、ユウマの身体を支え続けることだけに集中していた。
ユウマは、クラリスの肩に顔を埋め、彼女の体温を感じていた。彼の頭の中では、痛みの信号が警鐘を鳴らしている。しかし、それ以上に、クラリスが自分を支え、懸命に歩き続ける姿が、彼の心に温かい感情をもたらしていた。
(彼女の『感情担保』……その価値は、私が想像していたよりも、はるかに高い)
彼の「感情査定」は、今、最高潮に達していた。彼は、これまで「非効率」で「不安定」と切り捨ててきた感情が、これほどまでに人を強くし、行動を駆動する力を持つことを、身をもって体験していた。
しばらく歩くと、水路の奥に、わずかな光が見えてきた。それは、非常用出口の明かりだった。クラリスは、残りの力を振り絞るように、光に向かって足を進めた。
「着いたわ、査定官さん!」
彼女は、光の差す出口の階段に、ユウマをそっと降ろした。ユウマは、荒い息を吐きながら、壁に凭れかかった。彼の顔色は蒼白だったが、その瞳には、安堵の光が宿っていた。
出口は、帝都の裏路地へと繋がっていた。誰もいない、静かな路地裏だ。クラリスは、ユウマの怪我の状態を確認した。彼の燕尾服の腹部は、血で汚れている。
「酷い怪我だわ……すぐに手当てをしないと」
クラリスは、自分の深紅のドレスの裾を躊躇なく引き裂いた。破れた布を、ユウマの腹部の傷口に当てがい、止血を試みる。彼女の手は震えていたが、その動きは迅速で、どこか慣れているようにも見えた。
ユウマは、クラリスの手が自分の身体に触れる感覚に、微かな熱を感じた。彼女が、自分のために、躊躇なく高価なドレスを引き裂いたことに、彼の心は揺さぶられた。彼の脳内では、彼女の行動が「自己犠牲」として記録されていく。
「こんなこと……貴方には似合わない」
ユウマは、かすれた声で言った。彼の視線は、泥にまみれたクラリスのドレスに向けられている。彼女は、かつて夜会で輝いていた「悪女」の仮面を脱ぎ捨て、一人の女性として、彼の傍にいた。
クラリスは、ユウマの言葉に、フッと小さく笑った。その笑みには、皮肉ではなく、どこか優しい響きがあった。
「あら、ご冗談を。私のような『悪女』が、貴方のような潔癖な査定官を助けるなんて、これこそが、最高の皮肉でしょう?」
彼女はそう言って、ユウマの顔を覗き込んだ。その瞳には、彼を心配する、真剣な感情が宿っている。
「痛むでしょう? 少しだけ我慢して」
クラリスは、優しくユウマの傷口に布を当て、きつく縛った。彼女の指先が、彼の肌に触れる度に、ユウマの心に、これまで感じたことのない温かさが広がっていく。それは、彼の「感情査定」の範疇を超える、新たな「感覚」だった。
ユウマは、クラリスの顔を見上げた。夜の闇の中、彼女の瞳は、まるで星のように輝いて見えた。
「なぜ、貴女はそこまでして私を……」
ユウマの言葉は、途切れた。彼は、自分の口から出かかった言葉に、驚きを隠せないでいた。彼は、感情を排除してきたはずだ。しかし、今、彼の口から出かかったのは、純粋な「疑問」であり、そして「感謝」の言葉だった。
クラリスは、ユウマの問いに、静かに答えた。彼女の視線は、ユウマの傷口に向けられていたが、その言葉は、彼自身の心に深く突き刺さった。
「貴方が、私を『理解』しようとしてくれたからよ、査定官さん。貴方は、私の『悪女』という仮面の下に隠された、本当の私を見抜いてくれた。そして、私の『感情』を、この査定社会の中で、初めて『担保』として認めてくれた」
彼女の声は、どこか震えていた。それは、彼女が長年抱えてきた孤独と、そしてユウマによってもたらされた「理解」への、深い感動が混じり合っていた。
「だから、私も貴方を守る。貴方が、私を守ってくれたように」
その言葉は、もはや「契約」ではなかった。それは、二人の間に生まれた、真の「信頼」の証だった。それは、数値化できない、しかし最も強固な「絆」だった。
ユウマは、クラリスの言葉に、何も答えることができなかった。彼の心の中では、「感情は無価値である」という長年の信念が、完全に崩れ去っていた。そして、その代わりに、クラリスという存在が、彼の心を埋め尽くしていた。
夜の帝都の裏路地に、二人の息遣いだけが響く。満月が、雲間から顔を出し、彼らを静かに照らしていた。ユウマとクラリス、二人の運命は、この傷と信頼の夜を経て、大きく変わろうとしていた。彼らは、ただの査定官と査定対象ではなく、互いの「感情」を担保に、共にこの世界と戦う「共犯者」となったのだ。