14:追跡者たち
「私は、貴女の『感情』を担保とした融資を承認した。故に、貴女の信用を守るのも、私の職務です」
ユウマ・カサギのその言葉に、クラリス・ヴァンルートは、これまで感じたことのない強い安堵を覚えた。彼の冷徹な合理性の奥に、確かな「守ろうとする意志」があることを知ったのだ。しかし、その安堵も束の間、夜会の会場は、一触即発の緊迫感に包まれていた。
「行きましょう、査定官さん! 彼らに捕まるわけにはいかない!」
クラリスは、ユウマの手を強く引き、大広間の隅にある非常口へと駆け出した。彼女の深紅のドレスの裾が、ひらりと舞う。その瞳には、恐怖ではなく、研ぎ澄まされた警戒と、生き残ろうとする強い意志が宿っていた。
ユウマは、クラリスの行動に迷わず従った。彼の銀縁眼鏡の奥の瞳は、既に周囲の状況を冷静に分析している。信用監査局の男たちは、すでに彼らの動きに気づき、静かに、しかし確実に追跡を開始していた。彼らは、一般の警備員とは異なり、訓練された動きで、人混みを縫うように迫ってくる。
「彼らは、貴女の『悪女』としての評判を利用し、公然と貴女を捕らえるつもりだ。だが、その目的は、貴女の信用を貶めることだけではない」
ユウマは、走りながらクラリスに囁いた。彼の脳内は、既に「信用監査局」の真の狙いと、ヴァンルート家の「秘密」の関連性を推測していた。
非常口を抜けると、そこは夜会の裏口に通じる、薄暗い通用路だった。冷たい夜風が、二人の頬を撫でる。クラリスは、振り返ることなく、細い路地へと足を踏み入れた。その動きには、この帝都の裏道を熟知しているかのような迷いのなさが感じられた。
「どこへ行くのです?」ユウマは、尋ねた。
「貴方に、私の本当の『悪女』の手口を見せて差し上げますわ、査定官さん」
クラリスは、そう言って不敵に笑った。その笑みには、この状況を逆に楽しんでいるかのような、狂気じみた魅力が宿っていた。しかし、ユウマは、その笑みの裏に、彼女の焦りと、そして彼を巻き込んでしまったことへの罪悪感が隠されていることを感じ取っていた。彼の「感情査定」は、刻一刻と精度を増していた。
細い路地裏を駆け抜けると、二人の目の前に、古びた馬車が停まっていた。御者は、クラリスの顔を見るやいなや、慌てて扉を開けた。
「クラリス様! お待ちしておりました!」
ユウマは、その馬車と御者に、わずかな違和感を覚えた。それは、貴族の夜会に来るような馬車ではない。むしろ、帝都の裏稼業に使うような、地味で目立たない馬車だった。クラリスは、既にこの状況を予測し、脱出経路を用意していたのだ。
二人が馬車に乗り込むと、御者はすぐに手綱を引いた。馬車は、石畳の上を激しい音を立てて走り出した。窓の外には、暗い路地裏の景色が高速で流れていく。
「彼らは、もうすぐそこまで来ていますわ」クラリスは、窓の外を覗き込みながら、緊張した声で言った。
ユウマは、冷静に馬車の揺れを感じながら、手元の黒革の手帳に、今日の出来事を書き記していく。
記録:
信用監査局の出現。目的は対象人物の捕縛、およびヴァンルート家の「秘密」の探索と推測。
対象人物、事前に脱出経路を用意。計画性が高い。
現在、逃走中。
「どうして、信用監査局が貴女を狙うのですか? ヴァンルート家の『秘密』とは何なのですか?」
ユウマは、単刀直入に尋ねた。この緊迫した状況下で、彼に残された時間は少ない。クラリスの「感情担保」を正確に査定するためには、彼女の真実を知る必要があった。
クラリスは、ユウマの問いに、一度だけ深く息を吐いた。彼女の瞳は、迷いを宿していたが、すぐに決意の光が宿った。
「……全ては、あの『金融大崩壊』の時に遡りますわ。私の父は、帝都の金融システムの、ある『秘密』を握っていました。それは、帝都第一中央銀行すら揺るがしかねない、とてつもない情報です」
クラリスの言葉に、ユウマの身体が、微かに硬直した。彼の脳裏に、かつて銀行の歴史資料で見た「金融大崩壊」という言葉が蘇る。それは、帝都に甚大な経済的混乱をもたらし、多くの貴族や商会が破産した、忌まわしい事件だった。そして、その混乱の中から、今の「信用査定社会」が確立されたのだ。
「父は、その秘密を公にしようとした。ですが、その直前に病に倒れ、亡くなりました。その秘密は、このヴァンルート家のどこかに隠されているはずです。信用監査局は、それを狙っている」
クラリスの声は、震えていた。その言葉の重みが、ユウマの心に響く。彼女は、父の遺志を継ぎ、その秘密を守るために、自ら「悪女」を演じ、世間の目を欺いてきたのだ。彼女の「悪評」は、その秘密を隠すための「煙幕」だったのだ。
「私を破滅させることで、私の信用を皆無にし、誰も私の言葉を信じないようにする。そして、私からその秘密を探り出す。それが、彼らの目的ですわ」
クラリスは、そう言って、苦しげに顔を歪めた。彼女が背負ってきた重荷の大きさを、ユウマは初めて肌で感じた。彼女の「悪女」としての演技は、単なる自己保身のためではなく、家族の秘密と、そして妹の未来を守るための、命がけの戦いだったのだ。
馬車の外から、微かに、追跡する馬車の蹄の音が聞こえてくる。距離が縮まっている。
「くそっ! やはり追いついてきやがった!」御者の焦った声が、馬車の中に響いた。
ユウマは、窓から顔を出し、後ろを振り返った。暗闇の中に、複数の馬車の影が迫ってきているのが見えた。彼らの馬車には、帝都信用監査局の紋章が刻まれていた。
「このままでは、袋の鼠だ。何か、他に手は?」ユウマは、冷静な声で尋ねた。彼の瞳には、状況を打開するための策を練ろうとする、鋭い光が宿っていた。
クラリスは、ユウマの顔を見上げた。その瞳には、不安と、そしてユウマへの微かな期待が混じっていた。
「……帝都の地下には、隠された通路が張り巡らされていますわ。そこを使えば、彼らを撒けるかもしれない。ですが、それは危険な道です」
彼女の言葉に、ユウマは即座に反応した。
「危険であろうと、合理的であれば、選択肢となる」
ユウマは、御者に指示を出すよう促した。御者は、躊躇することなく、馬車の進路を変えた。馬車は、帝都の裏路地をさらに深く進んでいく。
その時、馬車の天井から、鋭い衝撃音が響いた。何かが、馬車の上に飛び乗ったのだ。
「!」
ユウマとクラリスは、同時に顔を上げた。馬車の天井から、鈍い音が響き、車体が大きく揺れる。
「信用監査局の者たちです! 直接乗り込んできた!」御者の焦った声が、響き渡る。
ユウマは、素早く馬車の扉に手を伸ばした。彼の脳裏には、クラリスの「感情担保」を守るという、自身の「職務」が明確に刻まれていた。彼の冷徹な思考は、既に戦闘モードへと切り替わっていた。
クラリスは、ユウマの顔を見上げた。その瞳には、恐怖よりも、ユウマへの強い信頼が宿っていた。彼女は、彼が自分を見捨てないことを、もう知っていた。
「査定官さん……」
クラリスの声が、ユウマの耳元で響く。それは、彼女の「感情」が、彼の「合理性」に、静かに問いかけているかのようだった。
「私は、貴女の『感情』を担保とした融資を承認した。故に、貴女の信用を守るのも、私の職務です」
ユウマは、そう言って、馬車の扉を開いた。外には、夜の帝都の暗闇と、そして彼らを追う、冷酷な追跡者たちの影が迫っていた。二人の運命は、今、この緊迫した夜会から始まった逃走劇の中で、さらに深く絡み合っていく。