13:夜会での異変
「感情担保融資契約書」に署名してから、クラリス・ヴァンルートとユウマ・カサギの関係は、静かに、しかし決定的に変化していた。それは、もはや単なる「恋人ごっこ」ではなかった。ユウマは、クラリスの「感情」を、数値化できない、しかし確かな「担保」として捉え始めた。そしてクラリスは、ユウマの冷徹な仮面の下に、自分を理解しようとする深い知性と、そして微かな「心」があることを感じ始めていた。
その夜、二人は帝都で最も格式高い「春の社交界」の夜会に参加していた。きらびやかなシャンデリアが輝く大広間には、帝都の名だたる貴族たちが集い、華やかな音楽と話し声が響き渡る。クラリスは、深紅のイブニングドレスを纏い、そのプラチナブロンドの髪は、宝石のように輝いていた。彼女の首元には、いつもと同じ黒いリボン。それは、彼女が自らに課した「悪女」という役割を象徴するかのようだった。
ユウマは、燕尾服に身を包み、クラリスの隣に立っていた。彼の銀縁眼鏡の奥の瞳は、冷静に周囲を観察している。彼の胸ポケットには、あの「感情担保融資契約書」の控えが大切にしまわれていた。それは、彼が「信用」の概念を根底から見直す覚悟をした、何よりの証拠だった。
クラリスは、ユウマにそっと囁いた。
「さあ、査定官さん。今夜は、私の『悪女』としての演技が、最高潮に達する夜ですわよ。貴方の『感情査定』の腕の見せ所ですわ」
彼女の言葉には、いつもの挑発的な響きがあったが、その瞳の奥には、ユウマに「自分の真実」を見抜いてほしいと願うような、微かな期待が宿っているように見えた。
二人が会場に足を踏み入れると、一瞬、ざわめきが起こった。視線が、まるで磁石に引き寄せられるかのように、二人に集中する。特に、クラリスに向けられる視線は、好奇心、軽蔑、そして微かな恐怖が入り混じっていた。彼女の周りには、常に悪評が付きまとっていた。
クラリスは、そんな視線など意に介さないかのように、優雅な笑みを浮かべた。そして、ユウマの腕にそっと手を絡ませ、人混みの中を進んでいく。彼女は、まるで舞台の女優のように、完璧な「悪女」を演じ始めた。
彼女は、意図的に、過去に彼女に破滅させられたと噂される貴族たちに近づいていった。
「あら、侯爵様。ずいぶんとお痩せになられましたわね。私のせいで夜も眠れないほどご心配かしら?」
クラリスは、ある老侯爵に向かって、甘く、しかし嘲りを含んだ声で話しかけた。老侯爵の顔は、一瞬にして青ざめ、慌てて視線を逸らした。ユウマは、その様子を冷静に観察する。老侯爵の表情には、怒りよりも、むしろ深い「恐怖」のようなものが宿っているように見えた。
(本当にクラリスが彼を破滅させたのなら、もっと激しい怒りを見せるはずだ。この恐怖は、別の何かを暗示しているのか?)
ユウマは、手帳に静かにメモを取った。彼の脳内は、クラリスの演技と、周囲の反応を照合し、新たな矛盾点を探そうとしていた。
クラリスは、さらに多くの貴族たちに、毒のある言葉を投げかけた。その度に、周囲の貴族たちは、顔色を変え、彼女から距離を取っていく。ユウマの隣で、彼女はまるで水を得た魚のように、その「悪女」としての役割を楽しんでいるかのようだった。
その様子を、ユウマは冷徹な視線で追っていた。彼の目は、彼女の演技の細部にまで注目していた。彼女の笑顔は完璧だったが、その瞳の奥には、時折、深い悲しみのようなものが垣間見えた。まるで、彼女自身が、自らの「悪女」としての役割に苦しんでいるかのようだった。
ユウマは、彼女の手をそっと握った。彼の掌の熱が、クラリスの冷たい指先に伝わる。クラリスは、一瞬だけ驚いたようにユウマを見た。そして、その表情は、僅かに和らいだ。
「貴女の感情は、今、極めて高い強度で発露しています。目的は、周囲への情報流布、および自己保護。しかし、その根底には、別の感情が存在する」
ユウマは、彼女の耳元に、静かに囁いた。彼の言葉は、まるで彼女の心を解読しようとしているかのようだった。
クラリスは、ユウマの言葉に、ハッと目を見開いた。彼女の瞳に、再び涙が滲みそうになる。しかし、彼女はそれを必死に堪え、再び完璧な笑みを貼り付けた。
「あら、ご冗談を。私はただ、この夜会を楽しんでいるだけですわ」
その時だった。
ユウマの鋭い視線が、会場の隅に向けられた。そこには、数人の男たちが、クラリスとユウマの方をじっと見つめている。彼らは、他の貴族たちとは異なり、どこか冷酷で、そして不気味な雰囲気を纏っていた。彼らの視線は、ただの好奇心ではなかった。それは、まるで獲物を狙う狩人のような、鋭い眼差しだった。
(あの男たちは……)
ユウマは、彼らの顔に見覚えがあった。彼らは、帝都の裏社会で暗躍していると噂される「信用監査局」の者たちではないか。しかし、信用監査局が、なぜこのような夜会に?
ユウマは、彼らの存在に、強い違和感を覚えた。彼らは、単なる見学者ではない。何かを企んでいる。そして、そのターゲットは、間違いなくクラリス・ヴァンルートだった。
クラリスは、ユウマの視線が向けられた方向に気づいたようだった。彼女の表情から、一瞬にして笑顔が消え失せた。その瞳には、深い警戒の色が宿っている。彼女は、ユウマの腕に絡ませた手を、無意識のうちに強く握りしめた。
「どうしました、クラリス・ヴァンルート様」ユウマは、静かに尋ねた。彼の声は、状況の緊迫を察しているかのように、微かに低くなった。
クラリスは、ユウマの耳元に、囁くような声で答えた。
「……あの者たちよ。私がこの夜会に参加すると知って、現れたのでしょう。おそらく、あの者たちは、私を捕らえるつもりですわ」
その言葉に、ユウマの脳内は、急速に状況を分析し始めた。クラリスが「悪女」を演じる理由が妹のためだとすれば、彼女が捕らえられれば、リズの存在が明るみに出てしまう。それは、リズの未来を脅かす行為となる。
「何のために? 貴女の悪評だけでは、そこまでの大掛かりな動きにはならないはずだ」ユウマは、冷静に尋ねた。
クラリスは、苦しげに唇を噛み締めた。
「……私の悪評は、ただの序章に過ぎませんわ。彼らの真の目的は、ヴァンルート家が隠し持つ、ある『秘密』。それを探り出すためよ」
その瞬間、ユウマの脳裏に、書庫で見たヴァンルート家の古い財産目録と、記録の曖昧さ、そして「金融大崩壊」という言葉が閃光のように駆け巡った。ヴァンルート家が、この査定社会の裏で、何か重要な秘密を隠しているのだとしたら? そして、その秘密が、この信用監査局の真の狙いだとしたら?
「私を狙う者たち……それが、彼らの目的よ」クラリスは、そう言って、ユウマの腕から手を離した。彼女の顔には、再び「悪女」の笑みが浮かんでいた。しかし、その瞳には、深い決意と、そして微かな悲しみが入り混じっていた。
「貴方は、私から離れなさい、査定官さん。これ以上、私に関われば、貴方自身の信用も失われるわ」
クラリスの声には、ユウマを巻き込みたくないという、確かな「感情」が宿っていた。それは、彼女の「感情担保」の証でもあった。
しかし、ユウマは動かなかった。彼の視線は、信用監査局の男たちに向けられている。そして、彼の心の中には、新たな決意が芽生えていた。
(この女は、私が査定すべき「担保」だ。そして、私は、この「担保」を守る義務がある)
ユウマは、クラリスの手を、再び強く握りしめた。彼の瞳には、冷徹な査定官としての決意と、そして、クラリスの「感情」に応えようとする、確かな光が宿っていた。
「私は、貴女の『感情』を担保とした融資を承認した。故に、貴女の信用を守るのも、私の職務です」
ユウマの言葉は、静かだったが、その中に込められた決意は、大広間の喧騒にも負けないほど、確かな響きを持っていた。クラリスは、ユウマの言葉に、驚きと、そして、これまで感じたことのない安堵の表情を見せた。
夜会の豪華な雰囲気の中で、ユウマとクラリス、二人の間に、新たな試練が訪れようとしていた。それは、単なる悪評の暴露ではなく、この査定社会の根幹を揺るがす、深い闇との対峙の始まりだった。