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12:感情担保融資契約書


ヴァンルート邸の庭園で、ユウマ・カサギがクラリス・ヴァンルートに「感情査定」という異例の提案をしてから、静かな興奮が二人の間に漂っていた。クラリスは、ユウマが自分の最も深い秘密、すなわち妹のリズの存在と、そのために「悪女」を演じてきた真実を理解しようとしていることに、言葉にならない感動を覚えていた。彼女は、これまで誰にも見せなかった素の感情を、ユウマに知られたことに、微かな安堵と、そして底知れない不安を感じていた。

「感情を査定する……そんな前例のないこと、本当にできると?」

クラリスの声は、まだ震えを帯びていた。彼女の瞳には、希望と疑念が複雑に絡み合っている。

ユウマは、クラリスの反応を冷静に観察していた。彼の脳内は、既にこの新たな「査定基準」を具体化するための計画を立てていた。

「銀行法には明記されていませんが、信用は常に変化し、その定義も時代とともに変わるべきです。私にとって、貴女の『妹を守るという感情』は、これまで見てきたどの財産よりも、強固な担保となり得ると判断しました」

ユウマの声には、確固たる信念が宿っていた。彼の言葉は、彼自身の「感情は無価値」という信念を乗り越えようとする、強い意志の表れでもあった。

「では、具体的に、どうやって査定するつもりかしら?」クラリスは、ユウマの提案の核心に迫ろうとした。彼女は、彼の合理的な思考が、この「感情」という曖昧なものをどう数値化するのか、興味を持っていた。

ユウマは、懐から一枚の書類を取り出した。それは、銀行の公式な契約書とは異なる、一枚のシンプルな羊皮紙だった。彼は、その羊皮紙をクラリスに差し出した。

「この契約書に、貴女の『感情』を明記し、それを『担保』とします」

クラリスは、ユウマから差し出された羊皮紙を、ゆっくりと受け取った。彼女の指先が、その紙の表面に触れる。そこに書かれていたのは、銀行の堅苦しい条文とはかけ離れた、しかし、とてつもなく重い言葉たちだった。

【感情担保融資契約書(仮)】

債務者:クラリス・ヴァンルート 債権者:ユウマ・カサギ(帝都第一中央銀行査定官)

第一条:融資の目的 本融資は、債務者クラリス・ヴァンルートの「リズ・ヴァンルートの幸福と未来の保証」を目的とする。

第二条:担保の内容 本融資の担保は、債務者クラリス・ヴァンルートの「妹への愛情」「自己犠牲の精神」「真実を隠し、悪女を演じ続ける覚悟」とする。これら全てを「感情担保」と定義する。

第三条:融資限度額 融資限度額は、感情担保の価値に準ずる。その価値は、債権者ユウマ・カサギの査定によってのみ決定される。数値化不能。

第四条:返済条件 返済は、債務者が妹への愛情を維持し、その幸福のために行動し続ける限り、無期限とする。利子は発生しない。

第五条:契約破棄 債務者が妹への愛情を失った場合、または妹の幸福を損なう行為に及んだ場合、本契約は直ちに破棄される。その際、債務者は「人間としての信頼」を喪失するものとする。

第六条:特記事項 本契約は、帝都銀行法及び既存の金融制度の範疇にない、特例中の特例である。故に、いかなる外部からの介入も拒否し、その存続は債務者と債権者、二人の合意にのみ依存する。

クラリスは、その契約書を読み進めるにつれて、目を見開いていった。彼女の唇が、微かに震える。そこに書かれているのは、銀行の契約書とは思えないほど、感情的で、そして個人的な内容だった。特に「人間としての信頼を喪失する」という第五条の文言は、彼女の心の奥深くに響いた。

「これ……本当に貴方が書いたの? まるで、詩みたいだわ」

クラリスの声は、驚きと、そして微かな感動に満ちていた。彼女は、この冷徹な査定官が、これほど感情的な言葉を紡ぎ出すことができるとは、想像もしていなかった。

ユウマは、感情を排した声で答えた。

「これは、貴女の感情を『担保』として定義するための、最も合理的な言葉です」

彼の言葉は、彼自身の矛盾を内包しているようでもあった。感情を排除してきた彼が、今、最も感情的なものを「合理的な担保」と定義しようとしている。

クラリスは、契約書を胸に抱きしめるように持った。彼女の瞳には、再び涙が溢れそうになっていた。それは、喜びの涙だった。長年、誰にも理解されずに「悪女」を演じてきた彼女が、今、この冷徹な査定官によって、その真の価値を認められようとしている。

「この契約書に署名すれば、私は貴方の人生に、そして貴方の『合理性』に、介入することになる。それでも、構わないと?」

クラリスは、ユウマの瞳をまっすぐに見た。彼女は、この契約が持つ重みを理解していた。それは、彼女の人生を、彼の人生と結びつける、最も強固な絆となり得るものだ。

ユウマは、静かに頷いた。彼の銀縁眼鏡の奥の瞳は、揺るぎない決意を宿している。

「私は、貴女の感情の価値を査定します。そして、貴女がその感情を維持し続ける限り、私は貴女を支え続ける。それが、この契約の全てです」

彼の言葉は、彼の「感情は無価値」というこれまでの信念を、完全に打ち破るものだった。彼は、自身の「査定官」としてのキャリアを、そして自身の人生を賭けて、この異例の「感情担保融資」に挑もうとしている。

クラリスは、ゆっくりとペンを手に取った。彼女の手は、僅かに震えていた。喜びと、不安と、そしてユウマへの深い信頼。様々な感情が、彼女の心を揺さぶっていた。

彼女は、契約書の最後の行に、自らの名を書き記した。

「クラリス・ヴァンルート」

その文字は、彼女が長年隠し続けた「本名」であり、そして今、新たな未来へと踏み出す、彼女自身の「覚悟」の証でもあった。

ユウマは、クラリスが署名する様子を、ただ静かに見守っていた。彼の心中は、いつになく穏やかだった。彼がこれまで追い求めてきた「合理性」とは異なる、新たな「価値」の存在を、今、目の前のクラリスが証明してくれたかのように感じていた。

そして、クラリスが署名を終えると、ユウマはそっとその契約書を受け取った。そして、自身の名をその隣に記した。

「ユウマ・カサギ」

二人の名前が、並んで記された「感情担保融資契約書」。それは、既存の銀行法にも、この査定社会の常識にも、決して収まらない、異例の契約だった。しかし、二人の間には、紙の契約書よりもはるかに強固な、互いへの信頼と、そして微かな愛情のようなものが芽生え始めていた。

庭園の黒薔薇が、風に揺れる。その花弁に、午後の日差しが反射して、きらめいていた。二人の「恋人ごっこ」は、この「感情担保融資契約書」によって、真の「契約」へと昇華されたのだ。そして、それは、彼らの未来を、そしてこの社会の「信用」の概念を、大きく変革していく、最初の一歩となるだろう。



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