11:感情査定の提案
ヴァンルート邸の書庫で、クラリス・ヴァンルートが「演技をしている」という確信を得てから、ユウマ・カサギの心は静かに、しかし大きく揺れ動いていた。彼のこれまでの人生を支えてきた「感情は無価値である」という信念は、目の前の「悪女」が、たった一人の大切な妹を守るためにその役割を演じている、という可能性によって、音を立てて崩れ始めていたのだ。
その日、ユウマはクラリスを、邸宅の広い庭園に誘い出した。手入れの行き届かない雑草の中に、一輪だけ咲き誇る黒薔薇が、二人の静かな対話を象徴しているかのようだった。午後の柔らかい日差しが、彼らの間に、微かな影を落とす。
「クラリス・ヴァンルート様」
ユウマは、クラリスの隣に立ち、静かに呼びかけた。彼の声は、いつもと同じく抑揚がないが、その瞳の奥には、確かな決意が宿っていた。クラリスは、黒薔薇の花弁にそっと触れながら、ユウマの方に顔を向けた。彼女の瞳は、彼の言葉を待つかのように、じっと彼を見つめている。
「貴女が『演技をしている』という可能性について、私は考慮しました」
ユウマの言葉に、クラリスの表情が、一瞬にして凍りついた。彼女の瞳が、僅かに見開かれる。彼女の「仮面」が、剥がれ落ちる寸前まで追い詰められているかのようだった。彼女がこれまで誰にも見せることのなかった「真実」に、この冷徹な査定官が迫っていることを、彼女は瞬時に悟ったのだろう。
「……何を、言っているのかしら」クラリスの声は、震えていた。いつもの挑発的な響きは、そこにはない。彼女は、咄嗟に「悪女」の仮面を取り戻そうとするかのように、口元に笑みを浮かべようとした。しかし、それは成功しなかった。
ユウマは、クラリスの動揺を冷静に観察した。彼女が、自身の「演技」を見抜かれたことに、これほどの反応を示すとは予想していなかった。それは、彼女の「演技」が、彼女自身の存在証明そのものであるかのように、深く彼女に根付いていることを示唆していた。
「貴女は、ご自身の悪評を意図的に作り上げ、それを演じているのではないかと推測されます」
ユウマは、淡々と、しかし明確な言葉で続けた。彼の言葉は、まるで彼女の仮面を一枚一枚剥がしていくかのようだった。
「その目的は、貴女の妹、リズ・ヴァンルート様を、査定社会の負債から守るため、ではないかと」
その言葉が、クラリスの身体を硬直させた。彼女の瞳から、一瞬にして光が失われた。まるで、彼女の最も大切な秘密を、無造作に暴かれたかのように。彼女の唇が、小さく震える。
「……貴方、リズに……」クラリスの声は、途切れ途切れだった。彼女は、ユウマが離れに忍び込んだことに、気づいていたのだろうか。それとも、単なる推測だと信じているのだろうか。
「はい。私は、リズ様の存在を確認しました」ユウマは、感情を込めずに答えた。しかし、彼の声には、僅かながら、彼女への配慮のようなものが滲んでいた。「彼女の視覚障害は、この査定社会においては『負債』と見なされる可能性があります。貴女が、彼女の存在を隠し、自らを犠牲にして悪女を演じることで、彼女の未来を守ろうとしているのだとすれば……」
ユウマは、そこで言葉を区切った。彼の視線は、クラリスの瞳をまっすぐに捉えている。
「それは、合理的な判断とは言えません。しかし、理解できない感情でもない」
その言葉が、クラリスの心に、静かな波紋を広げた。彼女は、ユウマが自分を「理解」しようとしていることに、驚きと、そして微かな希望のようなものを感じた。彼女は、これまで誰にも理解されずに、ただ一人「悪女」を演じ続けてきたのだ。
「……私の真実を知って、貴方は、どうしたいのです?」
クラリスの声は、もはや挑発的ではなかった。それは、自らの全てを晒され、裁きを待つ罪人のようでもあった。彼女の瞳には、不安と、そしてユウマへの微かな期待が入り混じっていた。
ユウマは、ゆっくりと黒革の手帳を開いた。そして、ペンを構える。その仕草は、いつもの「査定」の準備と何ら変わりなかった。しかし、彼が今から書き記そうとしているのは、これまでとは全く異なる「査定項目」だった。
「私は、貴女の融資申請を、再査定します」
ユウマの言葉に、クラリスの表情が、再び驚きに染まった。彼女は、自分が「融資不適格」だと宣告されたことを、覚えている。あの冷徹な判断を覆す、というのか。
「ただし、今回の査定は、これまでの『信用スコア』に基づくものではありません」
ユウマは、まっすぐにクラリスの瞳を見つめた。彼の銀縁眼鏡の奥の瞳には、かつてないほどの、真剣な光が宿っていた。
「私は、貴女の**『感情』を査定します**」
その言葉が、クラリスの心を貫いた。彼女の身体が、微かに震える。感情査定。それは、この査定社会において、最も危険な行為であり、同時に最も禁じられた査定項目でもあった。感情は、数値化できない。故に、査定不能。故に、無価値。それが、この世界の常識だった。
「『感情』、ですって? 貴方は、それを『非効率』で『不安定』だと、切り捨ててきたはずでしょう?」
クラリスの声は、困惑と、そして微かな興奮が入り混じっていた。彼女は、ユウマの提案が持つ意味の大きさを、理解し始めていた。
「はい。しかし、貴女は、その『非効率』で『不安定』な感情によって、これまでの『悪女』を演じ続けてきた。ならば、その感情こそが、貴女の『真の信用担保』となり得るのではないか、という仮説に至りました」
ユウマは、淡々と、しかし確かな論理で説明した。彼の言葉は、彼のこれまでの信念を、根底から覆すものだった。
「貴女の**『妹を守るという感情』**が、貴女の行動の全てを駆動しているのだとすれば、その感情こそが、貴女の最も強固な『担保』となる可能性があります」
ユウマは、クラリスの瞳をまっすぐに見つめ、ペンを走らせた。彼の黒革の手帳に、新たな「査定項目」が書き込まれていく。
新たな査定項目:
感情担保査定:対象人物の行動原理を駆動する感情の強度、持続性、およびその対象を査定。
主要感情: 妹への保護欲、愛情。
評価基準: 感情の純粋性、自己犠牲の程度、目的達成への執着度。
クラリスは、ユウマの手帳に書かれた「感情担保査定」という文字をじっと見つめた。彼女の目から、一筋の涙が溢れ落ちた。それは、喜びでも、悲しみでもない、理解されたことへの、そして、これまで一人で背負ってきた重荷が、僅かに軽くなったような、そんな感情の涙だった。
「……そんな破綻した査定、銀行が認めるはずがないわ」
彼女の声は、弱々しかった。しかし、その瞳には、ユウマへの信頼と、そして、この「感情査定」という新たな挑戦への、微かな希望の光が宿っていた。
「私の査定は、私が責任を負います」
ユウマは、そう言って、ペンを置いた。彼の瞳には、クラリスの涙が映っている。彼の心の中の「誤差」は、もはや単なる「誤差」ではなかった。それは、彼の世界を広げ、新たな価値観を築き上げようとする、強烈な「推進力」へと変わり始めていたのだ。
庭園の片隅に咲く黒薔薇が、風に揺れる。ユウマとクラリス、二人の間に、新たな「契約」が、言葉ではなく、互いの心の奥底で結ばれようとしていた。それは、この査定社会の常識を覆す、大胆で、そして危険な「感情担保融資」の始まりだった。