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10:この女は演技をしている


ユウマ・カサギは、ヴァンルート邸の離れで、盲目の少女リズの寝顔を見た日から、彼の「査定官」としての心が大きく揺らぎ始めていた。彼の合理的で感情を排除した世界に、「守るべき存在のために、自らを犠牲にする」という、数値化できない、しかし確かな「愛」の存在が、強烈な光を放ち始めたのだ。クラリスが「悪女」を演じる理由が、この無垢な妹のためだとしたら? その問いが、彼の頭の中を支配していた。

翌朝、ユウマは書庫に戻り、改めてクラリス・ヴァンルートに関する全ての記録を精査し直した。これまで彼が「客観的事実」として受け入れてきた情報が、今は全く別の意味を帯びて見えた。彼は、マリナ・フロセミドから受けた忠告や、クラリス自身の挑発的な言動さえも、彼女の「演技」の一部である可能性を考慮に入れながら、データを再分析した。

彼の目の前に広がるのは、クラリスの「悪行」に関する膨大な記録だ。 エベール子爵家長男アルノーとの婚約破棄事件。 ロズウェル貿易の倒産。 ヴェルナー令息の失踪と自殺。

これら全てが、彼女が「極悪令嬢」と呼ばれる所以だった。しかし、ユウマは、改めて各事件の詳細な「記録帳」を読み込んだ。そこには、被害者たちの感情的な証言の裏に隠された、奇妙な矛盾点が見え隠れしていた。

「アルノー・エベールの証言……『クラリスは私の全てを奪った』。しかし、彼の浪費癖に関する隠蔽記録が存在する。クラリスが本当に全ての財産を巻き上げたのなら、なぜ彼の債務は銀行記録から消されていないのか?」

ユウマは、黒革の手帳にメモを走り書きした。彼の視線は、次にロズウェル貿易の記録へと移る。

「ロズウェル貿易の不正流用疑惑……。帳簿上はクラリス氏が多額の資金を引き出したことになっているが、その資金の使途が『不明』とされている。通常、これほどの巨額の資金ならば、必ず追跡できるはずだ。なぜ、記録が途絶えている?」

そして、最も謎が深かったのが、レオン・ヴェルナー令息の事件だ。 「ヴェルナー令息の自殺。クラリス氏からの『一方的な関係断絶』が原因とされている。しかし、ヴェルナー令息が交際中に精神不安定な様子を見せていたという、当時の医者のカルテが残っている。クラリス氏が彼と関係を持つ前から、既に彼に精神的な問題があったとすれば?」

ユウマは、これらの記録の全てに、**「証拠の曖昧さ」**という共通点を見出していた。まるで、誰かが意図的に、決定的な証拠を残さないようにしながら、クラリスに「悪女」のレッテルを貼り付けようとしているかのように。

彼は、銀行の古いファイルから、ヴァンルート家に仕えていた元使用人たちの「発言記録」を探し出した。金融大崩壊以前の、まだヴァンルート家が栄華を誇っていた頃の記録だ。

「マダム・アンナ(元専属メイド)の証言:『クラリス様は、幼い頃から妹のリズ様を大変慈しんでおられました』『いつもリズ様を笑顔にしようと、様々な物語を語っていました』」 「セバスチャン(元執事)の証言:『クラリス様は、常にヴァンルート家の誇りを重んじ、財政の健全化にも熱心でございました』『浪費を嫌い、質素な生活を心がけていらっしゃいました』」

これらの発言は、現在の「悪女令嬢」としてのクラリスの評判とは、あまりにもかけ離れたものだった。彼らが語るクラリス像は、慎ましく、家族思いで、そして責任感の強い貴族令嬢のそれだった。

ユウマは、自分の手帳に、新たな結論を書き加えた。

結論:

既存の「極悪令嬢」像は、複数の矛盾を抱えている。

各事件における証拠は曖昧であり、意図的な隠蔽または偽装の可能性。

元使用人たちの証言は、クラリスが「悪女」とは異なる人格を有していたことを示唆。

彼の視線が、クラリスが書き綴っているであろう「演技帳」に思いを馳せる。彼女は、自らの意思で「悪女」の仮面を被り、その役を演じているのではないか。もしそうだとしたら、何のために? その答えは、昨夜目にした、離れにいた盲目の少女、リズの存在に繋がる。

(この女は……演技をしている)

その確信が、ユウマの心の中で、氷塊が溶けるように広がっていった。彼は、これまで信じてきた「数値化された信用」という世界が、いかに不完全で、表層的なものだったのかを、突きつけられているような感覚に陥った。

クラリス・ヴァンルート。彼女は、世間が言うような「生まれながらの悪女」ではない。

彼女は、**「仮面を被ることに慣れすぎた女」**に過ぎないのではないか。

ユウマは、彼女がなぜそこまでして仮面を被るのか、その理由を深く考える。それは、彼女が「信用」の概念を信じていないからか? それとも、彼女自身の弱さ、あるいは守りたいもののために、唯一選択できる道が「悪女」という役割しかなかったからなのか?

彼の脳裏に、あの「信用と愛、何が違うの?」というクラリスの問いが蘇った。あの時、彼女は「愛は証拠を要さない」という彼の言葉に、どこか寂しげに笑った。彼女は、愛というものが「証拠を要さないが故に、信用されない」という残酷な現実を知っていたからこそ、自ら「信用されない者」を演じてきたのかもしれない。

ユウマは、手帳に新たな項目を書き加えた。これは、彼自身の「査定」の記録であると同時に、クラリス・ヴァンルートという謎を解き明かすための、新たな一歩だった。

仮説:

クラリス・ヴァンルートは、自らの意思で「極悪令嬢」を演じている。

その目的は、世間の評価を意図的に下げることで、**特定の対象(妹のリズ)**を保護するため。

彼女の行動は、経済的利益ではなく、**感情的な「守り」**に基づいている。

ユウマは、書庫の窓から差し込む、午後の淡い光を見つめた。その光は、彼の心の中の迷いや葛藤を、照らしているかのようだった。彼の「感情を排除した査定官」としての矜持は、今、目の前の「演技」を続ける女によって、根底から揺さぶられている。

彼の心に、「査定官失格」という言葉が、別の意味を持って響いた。もし、感情を無視した査定が、真実を見誤るのだとしたら、それは本当に「失格」ではないのか?

彼は、立ち上がった。書庫を出て、この邸宅のどこかにいるであろうクラリスを探そうとした。彼の目的は、もはや彼女を「査定」することだけではなかった。彼女が何のために、これほどの重い仮面を被り続けてきたのか、その「真実」を知ることに、彼の全てが向かっていた。

そして、その真実を知ることが、彼の「信用」という世界観を、そして彼自身の未来を、大きく変えることになるだろうという予感を、ユウマは漠然と感じていた。



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