第一幕 1:銀行監査官、来訪す
帝都の旧貴族街の一角に、ひときわ目を引く豪奢な邸宅があった。かつては王族も招いたという、白い壁と青い屋根の壮麗な建物――ヴァンルート家。
しかし、その内部に一歩足を踏み入れれば、かつての栄華が過ぎ去ったことがありありと見て取れる。磨き上げられていない大理石の床には微かな埃が積もり、天井には蜘蛛の巣が張られ、ところどころ剥がれた壁紙が、邸の傷みを静かに物語っていた。
この日、その静寂を破る来訪者があった。真鍮のプレートが輝く重厚な門扉の前に止まった漆黒の馬車から降り立ったのは、一人の青年だ。彼の名はユウマ・カサギ。帝都第一中央銀行の若き査定官である。
ユウマは、その端正な顔立ちに一切の感情を浮かべず、静かに邸宅を見上げた。漆黒の髪はきっちりと整えられ、銀縁眼鏡の奥の瞳は、まるで精密な機械の歯車のように冷徹な光を放っている。手には、常に持ち歩いている黒革の手帳と、銀行のロゴが刻まれた分厚い書類鞄。
彼の姿は、まさに帝都第一中央銀行が掲げる「合理主義」を体現しているかのようだった。
ユウマの今日の目的は、この邸宅の主、クラリス・ヴァンルートへの面談と、ヴァンルート家の記録調査だった。
彼女は、帝都の社交界で「極悪令嬢」「灰色の詐欺姫」と悪名高い存在。複数の貴族男性を破滅させ、莫大な財産を巻き上げたという噂が絶えない。そんなクラリスが、今、銀行の**“再査定対象”**として浮上していた。
「ヴァンルート邸……。記録と照合するに、資産価値は著しく低下。しかし、維持費は異常に高い。非合理の極みだな」
ユウマは心の内で呟き、手帳に鉛筆でサラサラとメモを走らせた。彼の思考回路は常に論理的で、感情が入り込む余地はない。
目の前の邸宅も、クラリス・ヴァンルートという人間も、彼にとってはただの「査定対象」に過ぎなかった。
古びた門番の詰所を通り過ぎると、門は自動的に開いた。だが、そこには門番の姿はなく、錆びついた蝶番が軋む音だけが響く。ユウマは微かに眉をひそめた。
貴族邸では通常ありえない光景だ。この時点から既に、このヴァンルート家が一般的な「信用」の枠組みから外れていることを感じ取っていた。
広大な庭園も手入れが行き届かず、雑草が伸び放題になっている。かつては美しかったであろう花壇も、今は無残な姿を晒していた。
しかし、その中に一輪だけ、鮮やかな黒薔薇がひっそりと咲いているのが目に入った。その漆黒の花弁は、まるでこの邸宅の荒廃を嘲笑うかのように、艶めかしいまでに輝いている。
玄関の重い扉をノックすると、軋む音を立ててゆっくりと開いた。中に現れたのは、メイドでも執事でもなく、一人の女性だった。
彼女こそが、クラリス・ヴァンルート。
プラチナブロンドの髪は、邸内の薄暗がりの中でも眩しいほどに輝き、青灰色の瞳は、深淵を思わせるほど深く、そして魅惑的だった。
艶やかな黒のドレスは、彼女の白い肌を際立たせ、首元に結ばれた黒いリボンが、どこか意味深なアクセントになっている。
ユウマは、彼女を見た瞬間に、頭の中で「記録」が作動するのを感じた。
(対象人物:クラリス・ヴァンルート。容姿、特A評価。しかし、危険度も特A。この女は……)
彼の冷静な思考とは裏腹に、クラリスが放つ並外れた存在感に、微かな、本当に微かな「誤差」のようなものが生じたのを感じた。
「あら、ごきげんよう、銀行員さん。ずいぶんとお堅いご来客ね」
クラリスの声は、琥珀色のブランデーのように甘く、そしてどこか人を魅了する響きを持っていた。
彼女は、ユウマの全身をまるで品定めするかのように、ゆっくりと視線を巡らせた。その視線に、ユウマは微かに身構えた。
彼の「感情を信用しない」という信念が、警鐘を鳴らす。
「帝都第一中央銀行・監査局所属、ユウマ・カサギです。貴族院の要請により、ヴァンルート家の再査定に参りました」
ユウマは、感情を排した声で事務的に告げた。分厚い書類鞄から、ヴァンルート家宛の公文書を抜き取り、クラリスに差し出す。その書類には、彼女の悪名がびっしりと書き連ねられているはずだった。
クラリスは、差し出された書類には目もくれず、ただユウマの手元に視線を向けた。そして、ゆっくりと彼の手から書類を受け取った。その指先が、ユウマの指先に僅かに触れた。
その一瞬の接触に、ユウマの背筋に微かな電流が走った。彼の脳裏に「感情的接触、発生。警戒レベル:低」と記録される。
「まあ、堅苦しい。どうぞ、中へ。わざわざこんな辺鄙な屋敷まで足を運んでくださったのですもの。お茶くらいはお出ししましょう」
クラリスは、ユウマを招き入れた。彼女の言葉は丁寧だが、その瞳の奥には、彼を「次の玩具」とでも言いたげな、挑発的な光が宿っているように見えた。
その光は、ユウマがこれまで出会ったどんな貴族とも、査定対象とも違う異質なものだった。
広々としたエントランスホールは、埃っぽく、人気がない。ユウマは周囲を素早く見回したが、使用人の気配は一切ない。彼の観察眼は、僅かな違和感も逃さない。
「ヴァンルート家には、使用人の方は?」
ユウマが問うと、クラリスは優雅な笑みを浮かべた。
「ええ、もう長く働いてくれる者はいなくて。貧乏ですから。私の悪評のせいかしら?」
彼女はそう言いながら、肩をすくめた。その仕草は、自嘲的でありながら、どこか諦めにも似た響きがあった。
しかし、ユウマはその言葉を額面通りには受け取らなかった。彼の脳裏には、過去のクラリスに関する「悪評」の記録がフラッシュバックする。彼女の振る舞い、言葉の裏に、何か別の意図が隠されているのではないかという直感が、彼の冷徹な思考に小さな波紋を立て始めていた。
通された応接間もまた、手入れ不足が否めなかった。豪華な家具には白い布がかけられ、使用されているのは中央の小さなティーテーブルと、その周りの二脚の椅子だけだ。クラリスは、慣れた手つきで紅茶を淹れた。使用人がいないという言葉に嘘偽りはないようだった。
クラリスは、湯気の立つティーカップをユウマの前に差し出した。その指先には、一見して高価だとわかる真珠の指輪が輝いている。
「さあ、どうぞ。冷たい査定官さんには、熱いお茶がお似合いかしら」
彼女はそう言って、再び挑発的に微笑んだ。ユウマは、カップに手を伸ばす前に、彼女の顔をまっすぐに見つめた。その瞳には、計算と分析の光が宿っている。
「……私の査定に、感情は入り込みません」
ユウマは静かに言った。彼はカップを手に取り、一口紅茶を飲んだ。香り高く、確かな味わいだった。
「それは残念ですわね。私、貴方のようなお堅い方が、感情を乱すところを見るのが大好きなのだけど」
クラリスは、自分のカップをゆっくりと傾けた。その瞳の奥に、獲物を見定めたかのような、獰猛な光が宿る。
「貴方は、私を抱きたいとは思わないの?」
突然の挑発的な言葉に、ユウマはピクリと反応した。彼の瞳が、僅かに揺れる。こんな直接的な言葉を投げかけてくる査定対象は、過去にいなかった。
ユウマは、一瞬の動揺を押し殺し、冷静に答えた。
「そう感じたら、査定官失格です。私は職務を全うするのみ」
彼は、視線をクラリスの瞳から外し、黒革の手帳を開いた。そこに、この最初の面談で得られた情報を書き込んでいく。
(対象人物:クラリス・ヴァンルート。挑発的言動多数。感情への誘惑試行あり。しかし、反応なし。査定継続)
クラリスは、そんなユウマの様子をじっと見つめていた。彼女の口元に浮かぶ笑みは、さらに深まる。しかし、その瞳の奥には、どこか遠い場所を見つめるような、寂しげな光が宿っているのを、ユウマはまだ気づいていなかった。
この日、帝都第一中央銀行の若き査定官と、「極悪令嬢」の最初の接触が果たされた。それは、単なる監査の始まりではなく、二人の「信用」と「感情」を巡る壮大な物語の幕開けに過ぎなかった。