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戦国の亡霊――いわゆる真田丸に関する私的雑感――

作者: ギルマン

 大昔に、ブログに上げたことがある文章を、エッセイという形なら再利用できるかと考えて、投稿させてもらうものです。


 歴史的には不正確な記述が含まれていますので、ご注意ください。

 日本の城には織豊系城郭と分類されるものがある。

 即ち、織田氏・豊臣氏及びその影響下で築かれた城郭のことで、石垣に囲まれ、天守閣がそびえ立つ姿がその際立った特徴となっている。

 要するに、織豊系城郭というものは、一般的に日本の城と言って思い浮かぶ城の形をしていると考えて良い。


 姫路城・彦根城・熊本城・名古屋城・江戸城そしてもちろん安土城、いずれも織豊系城郭に分類される。

 これらの城は、それ以前の戦国時代の城―――主に土塁によって囲まれた土の城―――とは、明らかに一線を画すものと言える。


 雄大な天守閣は、新たな権力の誕生を象徴するモニュメントであり、統治の象徴でもある。

 強固な石垣は優れた防御力とともに、洗練された美しさを兼ね備え、文字通り泥臭い土塁とは視覚的にも雲泥の差がある。

 そしてまた、外界との明確な隔絶をも感じさせる石垣は、織豊期に確立されようとしていた身分制度と相まって、支配者と被支配者との明瞭な境界をも象徴しているようにも思われるのである。


 戦国時代の土の城とこの織豊系城郭との違いは、泥臭く、貧しく、しかし身分が流動的で立身出世の可能性もあった戦国時代と、豪華で煌びやかだが、反面規格化された身分社会になりつつもあった安土桃山時代の違い。

 ひいては日本史における中世と近世の違いを象徴しているように見える。


 この織豊系城郭の一つの完成型を、豊臣秀吉の大坂城に見ることが出来る。


 織田家の重臣として信長の雄飛を間近で見て、その後を引き継ぎ天下を統一した豊臣秀吉。

 自身城攻めの名手であったその秀吉が、精魂を傾け建造した巨大城郭は、無類の堅固さと豪奢さを兼ね備えた当時最強の城であり、新たな時代そのものをも象徴している。

 正に完全無欠の織豊系城郭と言ってもよいだろう。


 しかしながらその大坂城は、ついに実戦に臨まんとしている正にその時に、大規模な増築を施されることになる。

 大坂冬の陣を前に、惣堀南面に新たな出丸、いわゆる「真田丸」が築かれたのである。

 

 真田丸の増築によって、確かに大坂城の防御力はさらに高まった。

 しかし、秀吉の大坂城を完成された一体の建造物とみるならば、純軍事的目的から武骨に付け足された真田丸は、その完全性を崩す異形の付加構造物と言うことも出来るだろう。


 この真田丸について、ある魅力的な解釈が存在する。

 それは、真田丸とは巨大な丸馬出であるという見解である。







 ―――丸馬出

 誤謬を恐れず極論してしまうなら、それは織豊期においては過去の遺物と思われてもおかしくはないものだ。

 なぜならば、丸馬出は大坂の陣から遡ること30余年前に滅亡した、有力戦国大名甲斐武田氏の城を象徴する構造物だったからである。




 巷間に武田信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と言い、国を守るのは城ではなく人である、人心をつかんだならば城は必要ないとして、城を築かなかった。などと言われるが、もちろんこれはただの俗説であり、全く事実ではない。


 確かに信玄はその居所こそ躑躅ヶ崎館であり、新たな居城は築かなかった。

 しかし、その領国内には、川中島の戦いで有名な海津城を始め、上原城・深志城・大島城・諏訪原城・田中城等々と、実に夥しい数の城塞を築いている。


 そして、その技術は甲州流あるいは武田流築城術と呼ばれ、後北条氏の北条流築城術と並んで、戦国期築城術の双璧と呼ばれるほどの卓越したものであった。いわば「戦国時代の土の城」の最高峰の存在だったのだ。

 その武田流築城術を象徴するのが丸馬出である。


 馬出とは、城の入り口である「虎口」の前に、堀や防壁を築いて形作られた構造物で、敵の突入を防ぐとともに、そこに籠って敵兵を射撃することで城の最前線を形成し、更に攻撃軍に隙ができた時などは、そこから出撃して反撃の起点にもなる施設である。


 馬出を無視して城本体を攻めれば馬出から横射され、馬出を攻めようとすれば、馬出と城本体からの十字砲火に晒させる。そして隙を見せれば馬出から城兵が出撃するのである。

 方形に築かれたものを角馬出、半円形に作られたものを丸馬出と呼ぶ。


 武田流の城郭にはこの丸馬出が多用され、その一部はかなり大型化し、著しい特徴をなしていた。


 そして、この丸馬出を顕著な特徴とする武田流城塞は、前述のように武田領の各地に建設され、各地域での武田家の覇権を象徴し、武田家の一大勢力圏を形作っていたのである。


 しかし、精強を誇った武田家の最期は、あっけなく惨めなものであった。

 天正10年(1582年)織田・徳川らの大軍に武田領が攻められた時、武田家は内部からの崩壊が進んでおり、高遠城や田中城など一部の例外を除いて、ほとんどの城は戦うことなく降伏し、あるいは放棄された。


 新たな武田家の居城で、武田流築城術の粋を極めた存在であった新府城も、守る兵がなく放棄せれ、追い詰められた武田勝頼は天目山で自害した。

 戦国大名きっての名門の一つである武田家の、余りにもあっけない滅亡だった。




 戦国屈指と讃えられた武田流城塞は、武田家の滅亡に際し、全く無力であった。

 敵軍の前に強固に立ちはだかるはずだったその城塞群は、ほとんどが守る者もなく打ち捨てられ、戦うことすらなく、新たな時代の体現者である織田・徳川軍によって、ただ空しく踏み越えられていった。


 皮肉にも「人は城……」の言葉のとおり、守る人が崩れてしまえば、どんなに堅固な城塞も、確かに無駄であったのだ。








 もしも、真田丸が丸馬出しであるという仮説が正しいとするならば、秀吉の天下統一、関ヶ原の戦い、江戸開幕と、安土桃山時代から更に江戸時代と時が進んだ1614年に、その30年以上前に滅びた武田家と武田流築城術を象徴するその丸馬出が、大坂城に忽然と出現したこととなる。


 しかも過去の遺物と言われてもおかしくないそれは、驚くべきことに今回は無力な存在ではなかった。


 それは、雲霞の如く攻めよせる徳川の大軍の前に、敢然と立ちふさがり、これに大打撃を与えたのだった。


 かつて、武田家滅亡という、本来ならば、死闘を繰り広げるべきだった時に、実際にはほとんど戦いにすらならず、むなしく打ち捨てられ、ついに発揮されることもなかったその真の力を、今こそ、徳川軍相手に存分に見せつけたのだ。


 それは一種異様な光景であったことだろう。

 織豊系城郭の完成型ともいえる大坂城に余りにも「戦国時代的」な丸馬出の増築。


 しかもそれが存分に活躍したのだ。

 それは確かに異形の存在だったはずだ。

 あたかも、大坂の陣という戦乱の時代が終焉を迎えようとしているその時に、戦国時代の花形であった戦国大名武田家や武田流築城術が、このまま忘れさられてゆく事を拒んで、亡霊の如く蘇って来たかのようだ。







 その真田丸も、大坂冬の陣の和睦条件である堀の取り壊しに伴い破却され、束の間蘇った戦国時代の亡霊は姿を消した。


 しかし、そこで戦った真田信繁とその配下の兵は、続く大阪夏の陣において、奮迅の働きを見せ家康の本陣すら脅かすことになる。


 関ヶ原以後15年間に渡って九度山に蟄居していた真田信繁に、子飼いの兵など存在しなかったはずなのだから、彼らの強靭な戦闘力は真田丸の戦いで培われたものと言わざるを得ない。


 その彼らが家康本陣を襲った最後の突撃は、戦国時代という過ぎ去った時代の亡霊が放った、最期の咆哮であったかのようにも思われるのである。

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― 新着の感想 ―
[一言] 興味深い作品でした。 NHK大河ドラマの真田丸、は負け確定の歴史の物語だったので、気が向いた時しか見ませんでしたが、歴史とは様々な繋がりや可能性を内包していたモノの中で顕在化した一つという事…
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