兄、再会する
「ほう、これがお主の……ぬおっ!?」
「せぇい!」
筒の中に浮かぶイデアを見ていたニックに、不意にムーナが背後から目隠しをし、そのまま力一杯背後へと引き倒そうとした。通常ならば首やら腰やらの骨に重篤な被害が出そうな危険な行為だが、当然ながらニックの巨体は小揺るぎもしない。
「何だムーナ? ふざけていては危ないぞ?」
「危なくしてるのよぉ! 年頃の娘の裸を、そんな風に見るもんじゃないわぁ!」
「おぉ、それもそうか」
水に満ちた筒の中でプカプカと浮かぶイデアは、当然ながら全裸だった。ニック自身はそれを見たからといって何とも思わないが、見ず知らずの中年男に裸体を見られる娘の方は違うだろう。
「これが本物のイデア……何か、思ったより大きい?」
そんなニックとムーナのやりとりを余所に、フレイはぽつりとそんな感想を呟く。夢の中で会ったイデアの印象は一二、三歳くらいの少女だったが、目の前に浮かんでいる女性は一六歳くらいに見える。たった三歳と言ってしまえばそれまでだが、受ける印象は大分違う。
「そうか? 勇者の姉ちゃんならそう変わらないと思うが……」
ただし、それを聞いたアトミスの視線はフレイの胸や尻に向けられる。その不躾な視線に、フレイは思わず自分の体を隠しながらアトミスを睨み付けた。
「違うわよこの馬鹿兄貴! そうじゃなくて、夢の中で会った時はもうちょっと子供だったような気がしたってだけよ!」
「ああ、そういうことか。それは……」
本物のアトミスがイデアをここに運び込んだ時、イデアは二五歳だった。だがその後年はほぼ寝たきりで時々僅かに意識が戻る程度だったため、イデア本人にとっては年齢がそのまま生きた時間とはなっていない。
そしてそんなイデアが更なる長期の眠りに就いたならば、その心を守る為に辛い記憶を少しずつ切り捨てていくだろうというのはアトミスも想定していた。辛かった大人時代の記憶を忘れ、代わりに幸せだった子供時代の思い出を強く意識すれば、やがて自分が本当に子供だと思い込んでしまうのは自明だ。
「全部が上手くいってれば、このくらいの年で丁度よくなるはずだったんだがなぁ。逆に足を引っ張って、こんなに寝坊させるなんて、やっぱり俺は紛い物だぜ」
「アトミスさん……」
「お父様……」
皮肉めいた笑みを浮かべるアトミスに、フレイは言葉を失いピースがアトミスにギュッとしがみつく。
「私はお父様と会えて幸せでした。お別れをしたあの時も、本体と決別してお父様を探す旅に出たことも、二度と会えないと知って、それでもお父様の側にいたくてあの部屋で機能停止していたことすらも……全部全部、幸せです。
私にとって、お父様はお父様ですわ! だから……」
「ははは、ありがとなピース。さて、じゃあ最後のチェックをしたら、いよいよご対面といくか! おーいオッサン! ちょっと来てくれ!」
「ん? 何だ?」
「あっ!? ちょっ、ちょっとぉ!?」
アトミスに呼ばれ、ほっそりした指に目隠しをされその背に豊満な胸をむにゅりと押しつけられたままのニックが、軽くムーナを引きずるようにしてアトミスの方へと歩み寄る。
「いや、そのまま来るのかよ……あー、悪いんだがオッサンとピースでイデアの体を調べてくれるか? 問題ないとは思うんだが、ちょっとでもおかしいと思うところがあったら教えてくれ」
「わかりましたお父様!」
「うむん? 見ていいのか?」
元気に返事をするピースとは対照的に、ニックは目隠しをされたまま小首を傾げる。
「オッサン、格闘技の達人なんだろ? なら人体の構造には詳しいかと思ってな。一旦外に出すともう中には戻せねーから、念には念を入れたいんだよ」
「わかった。ムーナ」
「はぁ、そういう理由じゃ仕方ないわねぇ」
「でしたら、微力ながら拙僧もお手伝いしましょう。基人族の体の構造はそれなりに勉強しておりますからな」
「お、そうなの? じゃあ頼む」
「お任せ下さい」
渋々手を離したムーナと入れ替わるようにロンが近づいて来て、三人が真剣な表情でイデアの体を隅々まで見回していく。その間にはアトミスの操作によりイデアの体表面を何度も光の線が行ったり来たりしていて……そんな光景を何も出来ないフレイとムーナは微妙な表情で見つめ続ける。
「何かこう……何? 真面目なことをやってるのはわかってるんだけど、もの凄く申し訳ない気持ちになるのは何でだろう?」
「さぁ? とりあえずあの子が起きてきたらニックとアトミスを思う存分殴らせてあげればいいんじゃないかしらぁ? ロンは……ちょっと可哀想だけど、あの子が望めば叩かれてあげるくらいはするでしょうしぃ」
「あはは……それは確かに」
フレイ達がそんな雑談をしている間にも、イデアの体のチェックは終わる。その後はアトミスが光る窓の上で指を走らせていくと、遂に筒の中から液体が抜け、筒の中でぺたんと座り込んだイデアの正面の蓋が開いた。
「……イデア?」
恐る恐るアトミスが声をかけると、イデアの目がゆっくりと開いていく。体の動かし方を思い出すかのように手や足を震わせながら立ち上がると、そのままアトミスの方に近づいていって……その手がペチリとアトミスの頬を叩く。
「おっ……ちゃんの……かぁっ!」
まだ上手く動かない口を精一杯に開いて、イデアが叫ぶ。そのまま倒れそうになって、アトミスは慌ててイデアの体を抱き留めた。
「だ、大丈夫か?」
「…………く」
「……何?」
「服!」
「ふく……服! お、おう! 服な!」
キッと睨むイデアをとりあえず床に座らせ、アトミスは用意していた貫頭衣をイデアの頭に被せて着せていく。そうしてとりあえず全裸ではなくなったイデアは、しかしギュッと自分の体を抱きしめて俯いたまま何も言わない。
「えっと……ご、ごめんな? でもほら、流石に服を着せたままにはできなかったって言うか」
「違う!」
「え、違うの!? あー、じゃあ……何だ? オッサンに裸を見られたのが駄目だったのか? それなら俺がボッコボコにしとくから……」
「違う!」
ニックが微妙な理不尽さを胸の奥で飲み込むなか、自分の前にしゃがみ込んでオロオロするアトミスの胸に、イデアがコツンと己の頭を押しつける。
「違う! 違うよ……何で、何であたしをおいていったの!?」
「それは……」
「わかってる。わかってるよ。そうしなきゃ駄目だったんだって、あたしを助けるためだったって、わかってる! わかってるけど、でも……っ!」
それでもあたしは、お兄ちゃんと一緒にいたかった――その言葉を飲み込んだイデアの肩を掴むと、アトミスは真剣な顔でイデアの目をまっすぐに見つめる。
「イデア……よく聞け。今からアトミスの……お前の本物のお兄ちゃんの遺言を伝える」
「……っ!?」
「いくぞ……『我が――』」
「聞きたくない!」
アトミスの言葉を遮るために、イデアが思いきり大声をあげる。その頬を滴り落ちるのは、決して培養液だけではない。
「そんなの聞きたくない! 何でそんなこと言うの!?」
「あー……なあイデア。確かに見た目はそっくりだろうけど、俺は――」
「お兄ちゃんだよ!」
子供のように泣き叫ぶイデアが、アトミスの首に手を回して縋り付く。
「お兄ちゃんに、本物も偽物もない! みんなみんな、あたしのために必死に頑張ってくれた本物のお兄ちゃんだよ! だから遺言なんて聞きたくない! 言いたいことがあるなら、他の誰かじゃなくお兄ちゃんの言葉で言って!
もう一人は嫌……ずっと一緒に居てよ……アトミスお兄ちゃん……っ」
「イデア…………」
アトミスの腕が、ゆっくりとイデアの背に回されていく。幾度も躊躇い開いたり閉じたりしながらも、最後にはその細い腰をしっかりと抱きしめる。
「ああ……ああ、ずっと一緒だ。おはようイデア。いい夢は見られたか?」
「おはよう、お兄ちゃん。いい夢なら、これから一杯見るよ。お兄ちゃんと一緒に」
遙かな時を経て、兄と妹が遂に再び巡り会う。だがその感動の瞬間は長くは続かない。
「よーしイデア! 再会のチューをしよう!」
「えっ、それは嫌」
「何故にっ!? せっかくの再会だぜ!? そこは『お兄ちゃん大好き!』って言うところじゃない?」
「むー……お兄ちゃん、嫌い」
「ぐはっ!?」
幾千年を過ぎても切れ味の変わらない妹の言葉に、アトミスは胸を打たれてガックリと項垂れる。そんなアトミスにすかさず駆け寄るのはピースだ。
「お父様! 私ならチューどころかその先までバッチ来いですわ!」
「いや、それは今違うっていうか……」
「フフ。ねえ、お兄ちゃん?」
「な、何でしょうイデアさん?」
おずおずと聞き返すアトミスの頬に、瞬間熱い感触が走る。
「お兄ちゃん、大好き!」
「…………お、お、うぉぉぉぉ!? 勝った! 勝ったぞ! 第一部完!」
「お父様! 私も! 私もチューをしたいですすわ!」
はしゃぐアトミスの側にピースも駆け寄り、三人が幸せそうな笑顔を浮かべる。数千年の時を経て、こうしてようやく妹の声は兄に届けられたのだった。





