父、外に出る
「ホントに着いてくるのかよ、凄ぇな……」
雲などとっくに通り過ぎた、遙か空の果て。自分の隣を生身の体で追従してくる筋肉親父を、アトミスは呆れとも感心とも違う微妙な表情で見つめて呟く。
もっとも、そんな視線を向けられたニックの方は、久しぶりに娘に応援されたことでこれ以上無いほどに上機嫌だ。
「わはは、鍛えておるからな!」
「いや、鍛えるとかそういうことじゃ……まあいいや。よく聞けオッサン。もう少し飛ぶと、その先には世界を隔てる結界がある。で、そこに辿り着くとどんだけ前に進んでも進めなくなる」
「うむん? 世界の果て、永遠の海と同じようなことか?」
「あー、響きからするとそれで合ってるはずだ。この結界を突破する方法はいくつかあるんだが……今回は時間をかけてられないからな。一番単純な突破方法を使う」
「どうするのだ?」
「決まってるだろ? このまま突っ切るんだよ!」
そう言ってアトミスは親指を立ててニヤリと笑う。
「ただ、結界を抜けるには最低でも今の三倍は速度が必要になる。だからオッサンは無理だったら……」
「おお、やはり素早く行けば抜けられたのか! ならば……ぬぅん!」
ニックの太ももが一際膨れ、力強く空を踏みきるとその巨体が途轍もない勢いでアトミスの横を飛び去っていく。白い雲を置き去りにしている辺り、その速度はどう考えても音速を超えている。
「えぇ……って、オッサンのケツを眺めてる場合じゃねーだろ! 二重発動、ハヤク・トベール・ウィング!」
その言葉に、アトミスの背に輝く翼が一段広がる。それと同時に五倍近く速くなった飛行速度でアトミスがニックを追い、再び二人の体が並ぶ。
「そろそろだ! 覚悟しろよ!」
「うむ!」
ただまっすぐに前を見つめ、ニックの足が空を蹴る。するとプツンと膜のようなものを抜けた瞬間、突如としてニックは全ての感覚を失った。
(うおっ!?)
目を閉じたわけでもないのに目の前には何も見えず、確かに声を発したはずなのに自分の声すら聞こえない。体の感覚すらも曖昧となり、自分と世界の境界が急速にぼやけていく。
(……ふむ)
常人ならば自分を見失い、そのまま静かに消えていくしかないその状況で、ニックは心を落ち着け己を見つめ直す。自分の体、自分の心、自分を構成する全てを明確に頭に思い浮かべれば、曖昧だった感覚は即座に蘇り、開いた目には自分の手がしっかりと映り込んでいた。
「なるほど、こういうことか」
「目が覚めたか。駄目なら内側に蹴り返そうかと思ったんだが……」
一人納得するニックに、アトミスが声をかけてきた。光の一筋すら存在しない場所だというのに、その姿ははっきりと見える。
「ここが世界の外、通称『虚無の海』だ。ここには何も無い。が、『無い』という概念もまた無いから、逆説的に全てがある。わかりやすく言うと、自身が『在る』と確信する事象を、自分に対してのみ影響する形で再現することができるわけだな」
「……?」
「あー……あれだ。オッサンの場合は……ここに地面とか壁があったらいいな、って場所に、自分だけが触れる床とか壁ができる。今も普通に立ってるだろ?」
「おお、言われてみれば! わはは、これは便利だな」
『……いや待て。そんな単純なことではないだろう?』
「仕方ねーだろ。こんなところでオッサンに理解できるまでここの説明なんてしてらんねーんだから」
はしゃぎながら見えない床を踏みしめ壁を叩くニックにオーゼンが疑問の声をあげ、アトミスが若干面倒臭そうな顔をして答える。
「ぶっちゃけあれだけはっきり自己の確立ができてりゃ、後はどうとでもなるだろ。何で見えるのかとか、呼吸はどうしてるんだとか、下手に説明したら却ってできなくなりそうだし」
『むぅ、それは確かに』
生身で「世界の膜」を越えたことで、幸いにもニックは世界の内側でできたことを、今もできて当然だと認識している。だからこそ光も闇もない場所で物を見れるし、空気など無くても呼吸もできれば音も聞こえる。
だがその理屈を理解させようと細かい説明をした結果、理解が追いつかないことで認識が揺らげばそれら全てに支障が出る可能性がある。ならばこのくらいざっくり流す方がニックにとって都合がいいであろうというのがオーゼンとアトミスの共通見解であった。
「よしよし、これなら全力で殴れそうだな。で、これからどうするのだ? 単純にあれを殴っては駄目なのだろう?」
そんな二人の会話を余所に、ニックはひとしきり足場の感触を確かめてからそう言って視線を動かす。その先には薄い光の膜で覆われた世界と、それに巻き付く長大にして巨大な禍々しい骨蛇の姿がある。
「お、おぅ、そうだな。絶対とまでは言わないが、あれの頭がある部分にオワリンデがいるはずだ。まずはそこに辿り着いて、オワリンデをどうにかして骨蛇の制御を奪い取れば、比較的安全にどうにかできると思うんだが……」
「頭か……そうは言ってもなぁ」
アトミスの言葉に改めて骨蛇を視るニックだったが、連なる骨の体はその全てが同じ形をしており、どちらが前でどちらが後ろかを判別する手段はない。
「いっそもっと世界から離れれば、とりあえずこちら側半分を確認することはできるのではないか?」
「いや、これ以上世界から離れるのはやめた方がいい。この大きさの物体を俯瞰できるほど離れたら、おそらく『楔』が外れて戻れなくなる」
「楔?」
「そうだ。難しいことは全部省くが、俺達は世界の外に出てもまだこの世界と繋がってて、それが切れたら戻れなくなるんだよ。それがかつてのアトラガルドでも世界の真実の研究が進まなかった最大の原因だからな」
『ふむ。アトラガルドの技術を以てしても、越えられたのは膜一つということか』
「はは、まあそんなもんだ。何だよお前、魔導具にしちゃ随分と知性的というか、感情的だな。どんなコード組んでんだ? 後で調べさせろよ」
『丁重にお断りする。我は我だ。たとえ元が何であったとしても、過ごした年月と関わった者達の心が我という存在を創り上げた。それを他者にいじくり回されるなど御免被る』
「うっわ、自己同一性を確立してるのか! 本気で調べたいところなんだが……ま、どっちにしろまずはやることをやっちまわねーとな。
さて、じゃあどっちに行くか……」
ニックの鞄に鎮座するオーゼンに興味津々の様子を示しながらも、アトミスが世界に巻き付く骨蛇を眺めてそう呟く。確率二分の一はそう悪い勝率ではないが、かかる時間を考えればできれは無駄足は避けたい。
『おい貴様よ。何か忘れていることがあるのではないか?』
「ん? どうしたオーゼン。何かあるのか?」
『その頭の場所には、さっき貴様が直接対峙した相手が待ち構えているのであろう? ならば……』
「そうか!」
「何だオッサン。何かいい手があるのか?」
その答えに思い至ったニックは、アトミスの問いにニヤリと笑って鞄の中からオーゼンを取り出す。
「ふふふ、見ておれ……『王能百式 王の羅針』!」
「おおおぉぉ!?」
得意げにニックが叫べば、その手の中に羅針球が出現する。その現象にアトミスが少年のように目をキラキラさせて見つめてきたが、ニックはそれを無視してオーゼンに指示を出す。
「さあオーゼン! あの女の場所を指し示すのだ!」
『うむ! 任せよ!』
「探査系の魔導具か! ってか何だ今の!? 光って形が変わるとか、浪漫の塊じゃねーか!」
「さあお主……アトミスだったか? 目的地は向こうだぞ!」
「オーケーオーケー。なら早速移動しよう……ところでそれ、ちょっとだけ俺に貸してみる気、ない?」
「無いな! これは儂の大事な相棒だからな!」
「いやほら、そこは……な? ちょっとだけ! 先っちょだけだから!」
「何の先なのかはわからんが、無いと言ったら無いぞ! ほれ、さっさと来んか!」
「ぐぅぅ……俺は諦めないからな!」
ソワソワするアトミスを連れ、ニックが世界の外を駆けて行く。そうしてしばらく進むと、二人の前に巨大な竜の頭骨が遠くから姿を現してきた。





