父、奥に行く
あるいは溶かされ、あるいは折られた木々を踏み越え、五メートルもの道幅のある主の移動跡をニック達一行はかなりの早足で進んでいく。それでも一日で辿り着けるような距離ではないため森の中での野営を挟むことになったのだが、この中に野営を苦にするような者は一人もいない。
そうして歩き続けること三日。周囲の木々が青々とした葉から黄色く代わり、やがて枯れ果て幹と枝のみとなった立木すらまばらになった先に、そこはあった。
「着いた。これがクサルの大地」
「ほぅ、これはまた……」
立ち止まるニックの前に広がっているのは、森の中に不自然に広がった円形の土地だった。真っ赤な土は乾いているというわけでもないのに草の一本すら生えておらず、周囲には強烈な臭気が漂っている。
「ここから先、本当に無理。ヌメルの膜でも防げない」
「ぐぅぅ、何だか肌、痛い……」
しきりに顔を手で擦り「ヌメルの膜」を絶やさないようにしているメクァブの横では、ナットゥがビリビリとした刺激を肌に感じて顔をしかめている。なおそんなナットゥの顔も、五分に一回くらいの頻度でメクァブが撫でて膜を維持している。
「ここ昔、ハッコウ族住んでた。ネチョネチョのハッコウ族と我らヌメル族、交流あった」
「ああ、その話なら俺も知ってる。我らネヴァール族もハッコウ族とは付き合いあった。でもずっと昔、いつも来てたハッコウ族の者来なくなった。気になってここ訪ねたら、その時にはもうこうなってたらしい」
「ふむん? つまりそのハッコウ族というのが何かして、ここがこうなったというわけか?」
「わからない。ハッコウ族が何かしたのか、それとも何かにハッコウ族が巻き込まれたのか。調べたくても、この先誰も進めない」
「ずっと昔のヌメル族の長老、ここ調べようと戦士送り出したこと、ある。でもここから奥に進んだ戦士、誰一人戻らなかった。それからここ、禁忌の土地。こんなところで森の主出るの待つ、戦士でも無理」
「だろうなぁ」
二人の言葉に、ニックは深い納得と共に頷く。話としては聞いていたが、確かに近くにいるのはごく小さな虫くらいで、魔物も動物も植物も存在していない。くぼんだ地面には僅かに水が溜まっている場所もあるが、遠目に見ても黄色く濁った水はとても飲めるとは思えない。
もしここに監視所のようなものを作るとしたら、相当に堅牢な建物を莫大な時間と手間をかけて建造し、かつ換気や水の調達などの魔法道具を完備させ、そのうえで定期的に食料を届けるなどしなければ無理だろう。こんなところで監視を続けさせるくらいなら、多少の被害は覚悟で出てきた魔物を倒す方がいいというのは実に納得のいく判断だった。
「では、ちょっと奥に行ってみるか」
「ニック!?」
無造作に足を踏み出そうとしたニックの肩を、ナットゥとメクァブがそれぞれ掴んで引き留める。
「お前、何で話聞かない!? この先無理! メクァブだってそう言ってる!」
「私のヌメルの膜、ヌメル族で最高にヌメヌメ。でも、この先一〇〇歩進んだら、もう戻れる自信ない。金テカのニック、それでも行くのか?」
「メクァブ!? 何言ってる!? ニック止める!」
自分と違ってニックの無謀を容認するようなことを言うメクァブに、ナットゥが驚愕の表情を浮かべる。だがそれに対してメクァブは苦笑しながら首を横に振る。
「止める、無理。戦士はそういうもの。お前だって戦士、わかるはず」
「うぐっ! それは……でも!」
苦しげに言葉を詰まらせるナットゥをそのままに、メクァブがニックの方を見た。悔しさと切なさの入り交じった眼差しで、ニックの頬に優しく手を伸ばす。
「すまないニック。私、この先行けない。お前と一緒に行きたいけれど、私の命、私だけのもの違う。だからせめて……」
メクァブの手がヌルヌルと滑り、ニックの顔にヌメルの膜を塗りつけていく。その愛おしげな手つきに、ニックは目を閉じ黙って全てを受け入れる。
「私の膜が、お前を守る。だからきっと、お前生きて帰る。金テカのニック、行ってこい!」
「ああ。ありがとうメクァブよ」
「うぅ……これ、俺来た意味あったか?」
「ははは、そんなしょぼくれた顔をするなナットゥ。意味はあるとも。お主にはこれを預けたい」
微妙にやさぐれた顔をするナットゥに、ニックは肩から提げていた魔法の鞄を渡す。
「ニック? これ、お前の大事な殻入れ。何で俺に預ける?」
「それなりに丈夫な物のはずなのだが、流石にこの先にそれを持って行くのはマズい気がしてな。必ず取りに戻るから、大事に持っておいてくれ」
「ニック……わかった。俺、お前の殻入れ、必ず守る! だから絶対取りに来い!」
「おう! では行ってくるぞ」
二人の視線を背中に受けて、ニックがクサルの大地へと足を踏み出す。一歩ごとに濃くなっていく臭気はニックの肌を食い破らんとまとわりつき、塗ってもらったヌメルの膜は瞬く間に薄まり消滅してしまう。
「おおぅ、これは強烈だな」
『……そうだな。色々な意味で強烈だな』
そしてニックが新たに腰に巻いた毛皮も、あっという間に腐食してボロボロとその場に崩れ落ちてしまった。今や尻丸出しのニックが身につけているのは、股間に輝く黄金の獅子頭のみ。
「……これは、あれだ。必要な犠牲というやつだ」
『本当にそうか? 貴様が尻を丸出しで歩くのが、本当にこの世界にとって必要なことなのか!? だとしたら世界とは何と残酷であることか……』
「そうぼやくなオーゼン。一応聞くが、お主は大丈夫なのだな?」
『無論だ。現段階であれば森の主とやらに直接していた時の方が刺激が強かったからな。一〇〇倍も濃くなれば多少は危機感も覚えるが、この程度なら……ん? どうした?』
まだ歩き始めたばかりのニックが、不意にその場で足を止める。それを不審に思うオーゼンだったが、それに答える代わりにニックはその場で四つん這いとなり、地面に耳を押しつける。
「むーん? これは……?」
「ニック!? どうした!? くそっ、今助けに行く!」
「馬鹿、やめろ! あの距離でもネヴァールでは無理! でも私なら……っ」
そんなニックの仕草が、その場で倒れ込んだように見えたのだろう。背後からナットゥとメクァブの声が聞こえたが、それを無視してニックは地中に意識を集中させ……そしてメクァブが覚悟を決めて走り出す直前に、スッとその場で立ち上がって二人の方へと戻っていった。
「ニック! 大丈夫か!?」
「よかった! 金テカのニック、戻ってきてよかった……!」
「あー、すまぬ。心配をかけたか?」
「いい。でも、どうした? やっぱり帰るか?」
「そうだ、帰ろう! 一人でクサルの大地、あそこまで入った! ニック、英雄! 誰も何も言わない!」
「いやいや、そうではないのだ。戻ってきたというか、奥に行く必要がなくなったのだ」
「……ニック、何言ってる? 俺、意味分からない」
「ふふふ、実際やって見せた方が早かろう。少し下がっているのだ」
思いきり首を傾げる二人を下がらせ、ニックがその場でしゃがみ込むと、トントンと拳で地面を叩く。
「ここ……いや、もうちょっとこっちか?」
「ニック、何するつもりだ?」
「ここだな。ではいくぞ……フンッ!」
「うぉぉぉぉ!?!?!?」
ニックが大きく腕を振り上げ地面を叩くと、その瞬間世界が揺れる。そしてそれを呼び水としたように赤く死に絶えた地面に亀裂が走り、クサルの大地がボロボロと崩れていく。
「じ、地面揺れる! 崩れる!? 何だこれ、何が起きた!?」
「ニック、何した!? お前、世界壊したか!?」
「世界とまでは言わんが、確かに壊したぞ。これがこの地が死に果てた原因であろう」
畏怖の籠もった声で問うてくる二人に、ニックはクイと視線を崩壊した大地の方に向ける。その視線の指し示す先には、濁った黄金色に輝く巨大な湖が姿を現していた。





