父、覗き込まれる
「すまぬ、ちょっとこれを預かってくれ」
「わかった。ニック、頑張れ!」
魔法の鞄をナットゥに預けると、ニックは悠々と囲いの中央へ歩み出る。その佇まいには強者の貫禄がにじみ出ており、敵であるはずのヌメル族の戦士達の口からも思わずため息が漏れるほどだ。
そしてそんなニックの前に立つのは、負けず劣らずの肉体美を誇るヌメル族の女戦士。一八〇センチの高身長と全身に纏う筋肉は、全体的に大きい者の多いこの密林においても一際目立つ大きさだ。
「見ただけでわかる。お前強い! 私、戦う楽しみ!」
「そうか。そう言えば儂も無手の相手と戦うのはかなり久しぶりだな。存分に相手をしてもらうことにしよう」
肌と同じ褐色の瞳を潤ませて言うメクァブに、ニックもニヤリと笑って答える。娘と別れて旅をし始めてからも強敵と戦う機会は幾度かあったが、純粋な無手の相手というのはまずいない。一番近かったのは世界樹の護衛であった戦士だが、全身に魔導兵装を纏った相手を無手と称するのは流石に無理があるだろう。
「では、お主の手並みを拝見するとしよう」
構えどころか拳すら握らず、ニックがその場に泰然と立つ。ただしその目はまっすぐにメクァブを見つめており、一挙手一投足の全てを見極めんとしている。
そんなニックに対し、メクァブの方も動かない……いや、動けない。ただ立っているだけのニックには何処にも攻め入る隙がなく、森の生活で鍛えられた戦闘感が何処に撃ち込んでも容易く防がれると伝えてくる。
「…………面白い!」
だからこそ、メクァブは先に動く。倒れてしまう寸前まで低く頭を下げると、そのまま猛然とニックに突っ込んだ。無論そのままならばニックの放つ膝を顔面に食らっておしまいだが……
「おっ!?」
ぬるりという感触と共に、ニックの膝蹴りがメクァブの頬を滑っていく。それでも衝撃を殺しきれずに一瞬ふらつくメクァブだったが、考えるより先に動いた体はニックの足を抱きかかえ、そのまま走り抜けることで地面に倒そうと試みる。
「ぬぅっ!?」
自分の足を抱きかかえるメクァブの腕は、間違いなくぬめっている。だというのにそのぬめりを上手くいかして絡みつくように離れないメクァブに、ニックは少し強めに足を振ってその体を吹き飛ばした。もっともメクァブ自身も途中で飛ばされると理解していたのか、自分で背後に飛んだため着地で体勢を崩すこともない。
「ふしゅぅぅぅ……」
「ほほぅ。なかなかやるではないか。ならば次は儂から行こう!」
まるで蛇か何かのように息を漏らすメクァブを、今度はニックが攻める。グッと地を蹴り一瞬にして間合いを詰めると、軽めの拳を数発放って様子を見る。
だが、その拳はメクァブの巧みな防御により滑らされ、力の殆どが外に流されてしまう。ならばと避けられぬ腹に拳を入れれば、パチャンという水音と共にその衝撃の半分以上が腹部を覆うように出現した粘液に吸収されてしまう。
「ぐふっ!? ヌメルの膜、その程度じゃ破れない!」
「いい気概だ!」
たとえ威力が半減したとはいえ、そこはニックの拳。胃を潰され口から息を漏らしたメクァブだったが、その苦痛と衝撃に怯むこと無くカウンターの拳を放ち、その一撃がニックの頬をかすめていく。
「まだだ!」
メクァブの攻撃はそれだけで終わらない。自らの足を意図的に滑らせることで風車のように体を横回転させ、ニックの頭部に常識ではあり得ない動きで回し蹴りを放つ。それをニックが上体を反らして回避したところでニックの両足を掴み、頭から股下をぬるりとくぐり抜けてニックの背後へと回り込んだ。
だが、羽交い締めにするには身長が足りない。ならばとニックの腰に腕を回してそのままのけぞるように投げ飛ばそうと試みるも、ニックの体が重すぎて持ち上げる事ができない。
「重い!?」
「知らんのか? 筋肉は重いのだ!」
腕力には自信があっただけに、まさかと驚くメクァブにニックが腰を捻って肘打ちを放つ。だがメクァブは素早く離れてそれを回避すると、今度はニックの周囲をヌメヌメとまとわりつくように滑ってまわり、その視線が切れたところで背後から飛びかかった。
「見えているぞ!」
とはいえ、視線が切れた程度で相手を見失うニックではない。きっちりとメクァブの動きを察知して素早く正面に体を向けると、飛びかかってくるメクァブに向かってニックが拳を突き出す。だがメクァブはそれすらも読み切り、突き出された腕をぬるりと抱き留め肘の部分をガッチリと固めるように抱き込んだ。
「降参しろ! 折るぞ!」
「お主には無理だ!」
ニックが腕を持ち上げれば、絡みついたメクァブの体が一緒に宙に浮いていく。そのまま地面に叩きつけるように腕を降ろすニックだったが、途中でメクァブの体がぬるりと滑り、勢いに乗せて飛んでいくことで地面に叩きつけられるのを回避した。
「そんな抜け方ができるのか!」
「驚くの、まだ早い!」
飛ばされたメクァブが、大地に降り立つと同時に再びニックに向かって突進してくる。だがそれは既に見た動きであり、当然ながらニックは同じようにメクァブを殴り飛ばそうとして……その違和感に気づく。
「ぬっ!?」
「かかったな!」
ニックの足裏に、ぬるりとした感触が生じる。これまでの戦いのなかで、メクァブはニックが踏み込むであろう場所にヌメルの膜を塗りつけていたのだ。
それは先の勝負と同じ展開。だがオックラーが油断していたのとは違い、今回はニックがそこに踏み込まざるを得ないようにメクァブが誘導した。己の思惑通りに動いてくれた相手に会心の笑みを浮かべるメクァブだったが、迫り来る筋肉親父が見せるのは焦りでも絶望でもなく、ニヤリと笑うしたり顔。
「甘い!」
ダンッとニックが踏み込めば、その衝撃は周囲の木々をざわめかせ、ニックの足が深く大地に沈み込む。表面だからこそ滑るのであり、地面にめり込ませてしまえば滑る余地など存在しない。
「これで――」
故にニックの拳は、これまでで一番力が籠もっている。強く踏み込み腰を捻って打ち出される拳の威力を想像してしまい、メクァブの目が動揺に揺れる。
(まだだ! また滑らせて……)
「終わりだ!」
まっすぐ伸びてきたニックの腕が、不意に上にあがる。本来ならばとっくに殴られている位置を飛び越えてメクァブが進むと、頭上から拳が落ちてくるのが感覚で理解できた。
「ガフッ!?」
咄嗟のことに対応できず、メクァブは上から殴りつけられそのまま地面に叩きつけられた。意識こそ失わなかったが、呼吸を失い五秒ほど身動きが取れなかった時点で勝負はついている。これほどの強者が無抵抗で五秒も足下に転がっている相手にとどめを刺せないはずがない。
「クッ……我らの負け…………っ!?」
悔しげに声を絞り出しながら、うつ伏せに倒れたままのメクァブが頭を上げてニックの方を見ようとする。すると滑って位置がずれていたためか、メクァブの目線は期せずしてニックの腰に巻いた毛皮の内側を覗き込んでしまった。
「テカテカ……」
「ぬおっ!? な、何を見ているのだ!?」
その視線に気づいてニックが慌てて飛び退いたが、時既に遅し。メクァブの目には暗闇のなかで燦然と輝く黄金の獅子頭がはっきりと焼き付いている。なるほどこれがこの男の雄々しさの象徴なのだと思えば、メクァブは素直に敗北を受け入れることができた。
「私の負けだ、金テカのニック。我らヌメル族は、お前達に従おう」
「お、おぅ? いや、その呼び方は……」
「やった! 勝った! 流石はニック! 金の殻付き、テカテカニック!」
「オックラー!? だからそれは辞めてくれと――」
「ニック! ニック! 金ニック! テカテカニック! 金テカニック!」
ニックが抗議の声をあげるよりも強く、周囲からニックの勝利を讃える声が響き渡る。ネヴァール族のみならずヌメル族にすらそう呼ばれてしまっては、今更それをやめてくれとも言いづらい。
「流石だニック! お前、ネヴァールもヌメルも倒した! ネバネバもヌメヌメも越えた、テカテカの戦士!」
「あー……うむ。あ、ありがとう……」
『クッ、クックックッ……クフーッ! テカテカ! テカテカときたか! プフッ! アッハッハッハッハ!』
輝くような笑顔でナットゥにそう言われ、ニックは股間から聞こえてくる爆笑をそのままに、ちょっとだけ遠い目でしばし現実から目を逸らすのだった。





