父、耳が悪くなる
「さて、オカミ殿の話でこうなった理由はわかった。ならば次の問題は、これからどうするかということだな」
オカミが落ち着いたのを見計らい、ニックが改めてそう話を切り出す。なんとなくいい話を聞いて終わったような空気が広がっていたが、話し合いの本番はむしろこれからなのだ。
「まずは幾つか確認させてくれ。オカミ殿としてはこの先どうしたい? 獣人領域にある実家に帰りたいか? それともここで温泉宿を続けたいのだろうか?」
「それは……」
ニックに問われ、オカミはしばし考え込む。無言のまま左右の子供達の顔を見て、それからニックの方に改めて顔を向け直す。
「実家にはいつか一度は帰りたいと思っておりますが、幼い子供達では獣人領域までの長旅は耐えられませんし、何より旅費がありません。
それに、夫の残してくれたこの宿にも思い入れがあります。なのでできればここで仕事を続けて、そうしてお金が貯まったら子供達を連れて一度帰郷するのが理想なのですが……」
言ってオカミが振り返れば、そこにあるのは屋根に穴が空いていたり、壁が大きく歪んだりしている温泉宿。基人族とそう変わらない身体能力しか無い狸人族の女性では、応急修理すらままならなかった痛々しい姿がそこにある。
「確かに建物がこのままではどうしようもないな。ならば――」
「ちょーっと待ったぁ!」
ニックとオカミの会話に割って入るように、突然ホッタテが大声をあげる。そのままズズイッと二人の間に体を割り込ませると、それぞれの顔を見てから大きくため息をついてみせた。
「ハァァ。なんでぇなんでぇ、オレッチをのけ者にして二人して話をすすめやがって! そいつぁちょっと薄情ってもんじゃねーのか? コンチキショーが!」
「そんな、のけ者にしているつもりなんて……」
「なら何で最初にオレッチに言わねーんだよ!? アアン!? オレッチを何だと思ってやがるんだ!?」
「お、おい! 母ちゃんに何すんだ!」
「怖い……」
おずおずと話すオカミに対し、ホッタテはグイグイ顔を近づけて怒鳴り声をあげる。その勢いにアーニルドは母を守るように前に立ち、オットーは怯えて母の後ろに身を隠したが、ホッタテはそれを一切気にせず言葉を続けていく。
「そりゃあ確かに、オレッチはまだ三〇をちょいと超えた程度の若造さ! おまけに仕事中にヘマやって怪我しちまうような未熟者だ。だがなぁ、それでもオレッチは大工なんだぜ? 宿を直すってなったら、オレッチに真っ先に声をかけるのが筋ってもんだろうがよぉ!」
「で、ですが、先程もお話しした通り、私には職人の方に仕事をお願いできるほどの蓄えは……」
「カーッ! わかってねぇ! オカミさん、アンタ全然わかってねぇよ!」
ホッタテがペチリと己の額を叩き、空を見上げて瞑目した。天に向かって突き出した太い前髪が、ぐるんぐるんと中空で円を描いて回る。
「職人ってのはただ働きはしねぇ。それをやったら他の職人に迷惑がかかっちまうからな。だが何も報酬は金じゃなきゃいけないってこともねぇ! わかるか?」
「えーっと……でしたら、何をお支払いすれば……?」
「てやんでぇ! ったく、皆まで言わせるなよコンチキショー! 修理の間にかかる宿泊日と飯! それだけ払ってくれりゃ、あとは心意気だけで十分だ! どうだ、オレッチに仕事を依頼する気になったかい?」
「そんな!? それじゃあまりにも……」
「聞こえねぇ聞こえねぇ! オレッチの耳には『はい』しか聞こえねーなぁ! ほれ、何だって?」
「っ…………」
わざとらしく耳に手を当てるホッタテを前に、収まったはずの涙がまた溢れそうになってオカミが思わず目元を押さえる。そんな二人のやりとりに、しかしニックが水を差すような言葉を投げた。
「なあホッタテよ。この宿を直すと言ったが、一体どうするつもりだ?」
「アァン? どうって、そりゃオレッチが直すんだよ」
「だから、どうやってだ? 釘くらいならともかく、木材はどうやって調達するつもりなのだ?」
「そりゃあ……ど、どうにかするさ!」
ニックの指摘に、ホッタテの目があからさまに泳ぐ。この近辺であれば木材そのものはそう高くはないだろうが、それでも量を買うとなればそれなりの値段になるし、何よりこんなまともな道もない場所まで運ぶとなると、輸送にかかる費用は心意気でなんとかなるような額ではすまない。
「ってか、最初にここを建てた時はどうしたんだ?」
「それは……さあ? お義父さんが若い頃に建てたということでしたから、おそらく四〇年くらい前だと思うんですけど、その辺はさっぱり……」
「おぅ、そうか……」
申し訳なさそうなオカミの言葉に、ホッタテの前髪がへにょりと萎える。大口を叩いた手前、今更無理だなどと口が裂けても言えるはずがない。言えないが……できないことはできない。
「な、なーに! 見渡せば周りにこんだけ木が生えてんだ! いざとなったらオレッチが切り倒して……っ!?」
明らかに無理をした声でホッタテがそう言うと、不意にその視線の先で一本の木が音を立てて倒れていく。その横に立っているのはさっきまですぐ側にいたはずの筋肉親父だ。
「なっ!? あ、アンタ……!?」
「ふっふっふ、言っていなかったが、儂は冒険者になる前は木こりをしておってな。木材の調達ならば少々自信があるのだ。どうだオカミ殿、ホッタテと同じ条件で儂も雇ってみる気はないか?」
「お、お客様まで……!?」
「クッ、アッハッハッハッハ! なんでぇなんでぇ、ここにはバカしかいねーのかよコンチクショーが!」
ニヤリと笑って言うニックに、オカミが三度瞳を潤ませホッタテがぶるんぶるんと前髪を振り回して笑う。目まぐるしく変わっていく状況を前に、何だかよくわからなくなってきたアーニルドが母を見上げて問うてくる。
「な、なあ母ちゃん? 結局何がどうなったんだ?」
「フフッ。あのねアーニルド。お客様達が、この宿を直してくれるって言ってるの」
「じゃ、じゃあボク達はまだここにいられるの?」
「そうよオットー。出て行かなくていいの」
壊れた宿をまともに見せて営業するのは、事によれば詐欺と訴えられても仕方の無いやり方だ。だからこそいざという時は隠してある僅かなお金を持って、子供達だけでも逃げるようにとオカミは言い含めていた。
だが、もうその必要はない。不安げに見つめるオットーをそっと抱きしめ、オカミは小さく肩を振るわせる。
「さて、では返事を聞こう。どうするのだオカミ殿?」
「ま、オレッチの耳は未だに『はい』しか聞こえねーけどよ!」
「おお、奇遇だなホッタテよ。儂もどうやら同じらしいぞ?」
「ケッ、大の男が二人も揃ってポンコツたぁ、笑っちまうぜ!」
互いの肩をバシバシと叩き、ニックとホッタテが顔を付き合わせて笑う。その笑顔が自分に向けられ……オカミはもはや涙を堪えない。
「はい……お願いします……私達母子を、どうか助けてください……」
「母ちゃん……」
「お母さん……」
「オウよ! オレッチに任せときな!」
「うむ、その依頼、確かに引き受けた!」
泣き崩れる母と、その腕に抱かれ、縋り付く二人の子供達。守るべき者達を前に、男達は誇りを込めてその胸を笑顔でドンと叩くのだった。