狸女将、身の上を語る
「オイオイオイオイ、いきなり宿がボロっちくなっちまったんだが、コリャ一体どういうこった!?」
突然に見える景色が変わったことで、宿の中からホッタテが慌てて飛びだしてきた。そうしてニックの姿を見つけると、すぐに側へと走り寄ってくる。
「おお、ニックじゃねーか! 何でこうなったか、アンタ何か知ってるかい?」
「うむん? まあ知っていると言えば知ってるが……」
「それは私の口から説明させていただきます」
「その声……アンタまさか、オカミさんか?」
ニックの言葉を遮るようにして言ったオカミに対し、ホッタテが太く長く飛びだした髪をグイングインと振り乱しながら問う。声は以前と同じだが、目の周りだけが濃い黒で覆われ、他はモフモフの茶色い体毛に包まれたオカミの顔は当然ながら人の頃とは似ても似つかない。
「はい。今まで騙していて申し訳ありませんでした」
「騙した!? あー、何だよもう! オレッチにもわかるように、とにかく最初っから説明してくれや!」
「わかりました」
ガリガリと頭を掻くホッタテと、ただ無言で静かに佇むニック。そんな二人を前に、オカミは自分の身の上を語り始めた。
「ご覧の通り、私は基人族ではありません。狸人族という獣人です。夫は冒険者で、一五年前に獣人領域で知り合い、結婚しました。結婚後もしばらくはそちらで暮らしていたんですけど、一〇年前にこの宿の持ち主だった夫のお義父様が体を壊してしまい、この宿を継いで欲しいという話を聞いてこちらに引っ越してきたんです」
「へぇ、そうなのかい。確かにこの痛み具合は、風雨でやられてるのを考えてもそれなりの年月が経ってるようだしなぁ」
オカミの話に、ホッタテが相づちを打つ。露わになった本物の宿の家屋からは、五年や一〇年では出ないような歴史が感じられる。
「こちらに引っ越してきた翌年にはお義父様が亡くなってしまいましたが、それでも夫婦二人でなんとかこの宿を切り盛りして参りました。そのうちに子供が産まれ、定期的に訪れてくれる常連のお客様にも恵まれて、生活は順調だったのですが……」
そこで一旦言葉を切ると、俯いたオカミがキュッと歯を食いしばる。だらりと下げた両手にはそれぞれ子供達が掴まっており、心配そうに母の顔を見上げている。
「三年ほど前です。この山に大きな嵐がやってきて、何もかもを吹き散らしていったんです。夫はなんとか宿を守ろうと必死に頑張りましたが、嵐に勝つことなどできるはずもなく……崩れて吹き飛ばされた瓦礫に当たって、あっけなくその命を断たれてしまいました」
「そいつぁ……………………」
「むぅ」
オカミの語る現実に、ニックもホッタテもかける言葉を失う。恨む相手すら存在しないままに旦那を、父を奪われたオカミ達母子に、安い同情の言葉などかけられるはずもない。
「それで全てが変わってしまいました。宿は幾つもの場所に穴が空いたり壁が歪んだりしてしまいましたけど、本職の方に修理を依頼できるほどのお金はありません。なので苦肉の策として幻術で誤魔化してみたのですが、見た目はともかく隙間風などはどうすることもできず……」
「あー、そりゃ確かに客も来なくなるだろうなぁ。オレッチだって冬場にここに泊まりてぇかって言われりゃ、流石に厳しいぜ」
今のような時期ならともかく、温泉宿の集客の本番は当然寒くなってからだ。だが如何に温泉で体が温まろうと、肝心の眠る部屋に隙間風が吹き込むのではゆっくり休むことなどできるはずもない。
ましてや幻術が解かれ本当の宿の状態を見てしまえば、ここに金を払って泊まりたいとはホッタテには思えなかった。
「そうしてお客様が減ってしまえば、当然収益がなくなって食料の買い付けもできなくなってしまいます。かといってお客様や幼い子供達を宿に残して私が長時間ここを離れるわけにもいかず、食材の調達にも苦労する有様でして」
「それで昨日はお主達の分の食事が無かったわけか」
「えっ!? ど、どうして……?」
したり顔でそう言ったニックに、オカミが驚きの声をあげる。
「昨日の夕食の時にな、子供達が儂の部屋を覗いておったのだ。その時にまあ、ちょっとな」
「あっ……」
苦笑いするニックの顔に、オカミは全てを察して子供達の方に視線を向ける。
「ご、ごめんよ母ちゃん。オイラどうしてもお腹が空いちゃって……」
「お母さん、ごめんなさい……」
「いいのよ。貴方達は悪くないわ。お母さんがもっとしっかりしていれば……」
「母ちゃんは悪くねーよ! オイラがもっと強かったら、森に入って獲物を狩ってこられるのに……」
「ぼ、ボクだって、お母さんのためにお兄ちゃんを手伝うよ!」
「貴方達……っ!」
健気な我が子達の言葉に、オカミは思わずその場にしゃがみ込んで子供達を抱きしめる。震える腕に込められたのは、一体どれほどの想いであろうか。
「てやんでぇ! 泣かせるじゃねーかコンチキショー!」
そんな母子の姿を見て、ホッタテが目に涙を浮かべつつズビッと鼻を啜る。ビヨンビヨンと大きく揺れる前髪が、その感動具合をこれでもかと物語っている。
「ふむ、そういうことであったか……苦労されたのですな」
「はい……ですが、お客様を騙していたことには違いありません。受け取ったお金は全て返金させていただきますので、どうか子供達だけは……」
「バッキャロー! 何つまんねーこと言ってやがんだ! 金なんかいるわけねーだろうが!」
深々と頭を下げるオカミに、ホッタテが怒鳴るように声を上げる。服の袖をこれでもかとまくり上げると、戸惑うオカミに自分の顔をグイグイと近づけていく。
「こんな話を聞いたあとで金返せなんて言う奴がいたら、オレッチがぶん殴ってやるぜ!」
「でも、私が騙していたことは事実ですし……」
「そうだな。確かに単に騙されたのであれば、文句の一つも言いたくなるかも知れんな」
肩を落とすオカミの言葉をニックが肯定したことで、ホッタテがニックに向かって勢いよく振り向く。
「アァ!? テメェ、んなつまんねーこと言う野郎だったのか!? いいぜ、このオレッチがテメェのその腐りきった性根をたたき直してやる!」
ガッチリと膠で固められた庇のように伸びる髪がニックの横っ面をひっぱたき、鼻が触れ合いそうな距離でホッタテが下からニックを睨み付ける。そうしていきり立つホッタテを前に、ニックは軽く笑いながらその肩を掴み体を離した。
「まあ落ち着け。儂は『単に騙されたのであれば』と言ったのだ。なあオカミ殿」
「はい……」
振り向いて声をかけたニックに、オカミが観念したように肩をすぼめて小さな声で答える。
「確かにこの宿の状態は、客を入れるには好ましくない状態だったのだろう。だがこうして幻が解けたからこそ見えることもある。たとえば廊下、たとえば壁。儂から見てすら素人仕事ではあるが必死に修復したように見えるし、何より無事な部分はしっかりと掃除されておる。
料理や温泉に関してもそうだ。自分達が食べる分すら削り、手を掛けて作られたであろう料理は十分に美味かったし、温泉もきっちり整備されておった。つまるところ、お主はお主にできる最大限のもてなしをしてくれたのであろう?
ならば儂はそれを騙されたとは思わぬ。家屋がどうであろうとも、お主達のもてなしの心は確かに本物であった」
「お客様……っ」
欺し誤魔化すことでしか、この宿を守れなかった。だからこそ己の手の及ぶ限りは精一杯努力してきた。それでも真実を知られれば罵倒されるものとばかり思ってきたオカミだったが、客から返ってきたのは心からの賞賛。
「ありがとう……ございます……っ!」
こぼれる涙を必死に抑え込むオカミの口からは、ただその言葉だけが嗚咽と共にこぼれだした。