父、問いただす
「では、これより鍛錬を始める!」
「「はい、師匠!」」
温泉宿の中庭にて、ニックの言葉に二人の子供が元気に答える。ちなみに、師匠呼びは別にニックがそうさせたわけではなく、アーニルドが「そっちの方がカッコイイ!」とはしゃいだからである。
「最初にお主達に教えるのは……拳の握り方だ!」
「はい! って、拳?」
続くニックの台詞に、アーニルドがあからさまに不満げな声を出す。その予想通りな反応に、ニックは思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「ははは、気持ちはわかるが、まずはこれができねば何もできんぞ?」
「えー、でも、そんなの教えてもらわなくたって誰でもできるだろ?」
「ただ握るだけならな。だが握り方にもいくつか種類があり、それぞれに意味がある。それをきちんと理解して鍛錬をせねば、いらぬ怪我をすることもあるからな」
「ふーん……」
「ま、やってみるのが早かろう」
そう言うとニックは自身の大きな手をよく見えるように前に突き出し、人差し指から小指までをしっかり折りたたんでから親指を手のひら方向から人差し指と中指に添え、ギュッと拳を締め上げて見せる。
「これが基本的な拳の握り方だ。この状態でまっすぐに突き出して相手を殴るわけだが、この時手首を僅かに下げ、指の根元にある固い骨と腕の骨が一直線になるように意識するのが重要だ。そのまままっすぐに突き出すと脆い指の背の骨で殴って、自分の手の方を痛めてしまうからな」
「へー。こんな感じか?」
「えっと……こう?」
「うむ、そうだな。だがもうちょっと……こんな感じだ」
ニックの教えに従って拳を突き出してみせる二人に、ニックがそっと手を添えて姿勢を正していく。
「こう……こうか? 何だよ、簡単じゃん!」
「えいっ!えいっ!」
「おいオットー! そんなヘロヘロじゃ強くなれねーぞ?」
「うぅ、で、でも……」
シュッシュッと調子に乗って拳を突き出していくアーニルドに対し、オットーはゆっくりと、だが丁寧に拳を繰り出す。そんな弟の姿にアーニルドがちょっと得意げに上から声をかけるが、ニックは笑いながらオットーの方に声をかける。
「ふふふ、気にせずともよい。今の段階ではお主の方がアーニルドより上手くできているぞ」
「そ、そうなの!?」
「えー、何でだよ!? オイラの方がずっと速く殴れてるじゃん!」
「違うぞアーニルドよ。拳を突き出すという動作にとって、必要なのは速さよりも正確さなのだ。見ているがいい」
そう言うとニックは二人の側を離れ、近くに立っている木のところへ歩いて行く。
「いいか? 速いだけでまっすぐに殴れないと、こうなる」
ニックの拳がやや弧を描いて突き出され、それが命中した木の幹がぐしゃりと潰れる。そのまま倒れていく木に手を添えて地面に横たえると、今度は隣の木に向かい合った。
「対してまっすぐに殴れば……こうだ!」
次いでニックの拳が、今度は美しい直線を描いて打ち出される。するとスパンという小気味のいい音と共に、太い木の幹にニックの拳と同じ大きさの穴が綺麗に穿たれた。
「どうだ? 雑に殴るだけと違って、綺麗に殴れればこれだけ――」
「うぉぉぉぉ!? 何だそれ、オッチャンすげー!」
「うわぁぁぁ……」
振り返ったニックの方に、目をキラキラさせたアーニルド達が駆け寄ってくる。
「それ! それ! それオイラにもできるようになるのか!?」
「ぼ、ボクにもできる?」
「待て待て。できぬとは言わんが、すぐには無理だぞ? 正しい姿勢を意識して体を動かせるようになり、あとは地道な鍛錬で体を鍛えていけば、いずれは……と言ったところか」
「やる! オイラ頑張る!」
「ボクも!」
「うむうむ、頑張るがいい」
すっかりやる気になった二人の姿を、ニックは微笑みながら見つめる。その後も時々ちょっとした助言をしたりしていると、背後の宿から出てきた人物がニックの背に声をかけてきた。
「あの、お客様」
「ん? ああ、オカミ殿か。どうかしましたかな?」
「いえ、昨日の夜に続いて、今日も子供達がお世話になっておりますので、改めてお礼をと思いまして」
「ははは、気にせんでくだされ。昨夜の事もそうですが、これも儂が好きでやっているだけですからな」
「ですけど……」
なおも遠慮する言葉を続けるオカミに、ニックは少しだけ照れくさそうに笑う。
「実は儂にも娘がおりましてな。こうして子供達と遊ぶのは、昔を思い出して儂としても実に楽しいのですよ。そういう意味では、むしろ儂の方がお礼を言わねばなりませんかな?」
「……ありがとうございます」
ニヤリと笑って見せるニックに、オカミが深く頭を下げる。その顔にはやはり疲労の色が濃く見え、目の下の隈が心なしか濃くなっているような気がする。
「ふーむ。随分と疲れが溜まっておられるようですな」
「え?」
不意に顔を覗き込むようにしてきたニックに、オカミは軽い驚きの声をあげた。思わず一歩引いてから軽く俯いてペタペタと顔を触り、すぐにまた顔をあげてニックの方を見る。
「そ、そんなことはありませんよ? これこの通り、今日も元気一杯でお客様をおもてなし致しますから」
そう言って微笑むオカミの顔は、一瞬前とは打って変わって健康そのものに見えた。だがだからこそニックは真剣な表情で小さく首を横に振って答える。
「駄目ですな。そこまで……幻術を使ってまで誤魔化さねばならぬほど体調が優れないのであれば、今すぐにでも休んだ方がいい」
「げ、幻術!? お客様、一体何を言っておられるのですか?」
受けた動揺を必死に押し殺し、努めて平然とした笑みでオカミが返す。だがニックはオカミから目をそらすこと無く静かに言葉を続けていく。
「儂には頼りになる相棒がおりましてな。この宿の様子やオカミ殿達の姿が幻術で誤魔化されていることはわかっておるのです」
「そ、そんな…………っ!?」
フラフラとよろめくオカミの足が、一歩また一歩と後ずさっていく。それと同時にオカミの顔が仮面を貼り付けたかのように無表情で動かなくなり、手や足などの肌の露出している部分がさざ波のように揺らめいて見える。
「……それだけならば、正直何も告げずに去ってもよかった。だがその顔は絶対に見逃せぬ。無粋は承知の上ですが、事情を話してはいただけませんかな?」
「あっ、うぅ…………」
言葉を詰まらせ、オカミがその場でへたり込む。そんなオカミの姿が晩年に無理をして強がっている妻の姿と重なってみえてしまえば、もはや相手にどう思われようともニックにはオカミをこのまま放置することなどできない。
「母ちゃん!? おいオッチャン、母ちゃんに何してんだ!?」
と、そこで母に詰め寄るニックの姿を見て、アーニルドが勢いよくニックの方に駆け寄ってくる。そのまま教えたとおりにギュッと拳を握ってニックに殴りかかってきたが、ニックはそれをアーニルドが怪我をしないよう注意して柔らかく受け止める。
「クソッ、離せよ! 母ちゃんはオイラが守るんだ!」
「落ち着くのだアーニルド。儂は別にお主の母をどうこうしようなどとは思っておらん!」
「嘘だ! だったら何で母ちゃんがそんなに辛そうにしてるんだよ!」
「いや、それは……」
「お母さん……っ!」
ニックとアーニルドが問答をする間にも、オットーはその場でヘタリとしゃがみ込んでしまった母に縋り付く。
「どうしたのお母さん? 元気ないの?」
「ああ、オットー……アーニルドも、違うの。お母さんは大丈夫だから、やめて」
「でも!」
「いいから! お願い」
「……わかったよ」
オカミの言葉を受けて、アーニルドが興奮を静める。そのままニックの側を離れて二人の子供が母の元に辿り着くと、自身もまたようやく動揺を収めたオカミがゆっくりと立ち上がり、ニックに向かって相対した。
「いつかはこの日が来ると覚悟しておりましたが……今日があの人との夢の終わりのようですね」
フッと、オカミの体から力が抜ける。それと同時に立派だった宿は大きな破損が幾つも見えるボロ屋へと変わり、それと同時にオカミ達の姿もまた人から獣人へと変わる。
「これは……」
遂に目にした真実を前に、ニックは小さく声を漏らした。





