父、食い違う
男同士の熱い友情を交わし合ったニックとホッタテ。二人はその後も蒸し風呂の中で会話を続けていた。
「ほぅ、その歳で湯治とは……何処か悪いのか?」
「大したことじゃねぇんだけどよ、仕事でちょっと肩をやっちまってな。そこそこの回復薬も使ったんだが、どうも鈍い痛みが抜けねぇんだよ。
それでも我慢して仕事してたらよぉ、親方が『テメェは気が短くて注意力が足りねぇからそんなヘマすんだ! 温泉でも行って少しは落ち着くってことを学んできやがれ!』って怒鳴りやがって! で、風の噂で聞いたこの温泉に来てみたってわけよ」
「なるほどなぁ。ふふ、いい親方ではないか」
湯治となれば、最低でも一月くらいはのんびりするものだ。弟子の体を気遣ってそれだけの長期休暇を許すとなれば、実子でもなければ相当に気に入られているか、あるいは雇い主の心が広いかのどちらかでしかない。そう感心するニックに、ホッタテは心底嫌そうに顔をしかめる。
「てやんでぇ! 馬鹿言うんじゃねーよ! あの口うるさくて頭も拳骨もカッチカチの頑固ジジイがいい人だと!? これだから何も知らねぇ奴はよぉ! こっちはもうすぐあの顔を見なくちゃならねーと思ってうんざりしてるってのによぉ! カーッ!」
乱暴にそう言い捨てるホッタテだったが、その声には何処か嬉しそうな色が滲んでいる。つまりはそうやって悪口を言い合える程度には親密な関係なのだろう。それを感じ取ってニックが小さく笑みを浮かべると、ホッタテはばつが悪そうな顔をして露骨に話題を変えてくる。
「そういうアンタはどうしたんだい? ここに来てるオレッチが言うのもなんだけど、こんな辺鄙なところに来る奴なんて滅多にいねぇって聞いてるぜ?」
「儂の場合は、たまたま立ち寄った近くの村でここのことを教えてもらったのだ。いい温泉宿があるから是非寄ってみてはと言われてな」
「この近くってーと……ああ、あの村か。いや、あそこだって普通は行かねぇぞ? アンタみたいに強そうな奴が行ったってことは、ひょっとして何か問題でも起きたのか?」
「うむ、それはな……」
熱い熱い蒸し風呂のなかで、二人の男が語り合う。見た目の印象に反して蒸し風呂の温度は思ったよりも低く、ホッタテが何度か熱した石に水をかけたが、微妙に温度が上がりきらない。
「おっかしーな、何であんまり熱くならねぇんだろうな?」
「ふむん? 何処かから蒸気が抜けているのではないか?」
「まあそうなんだろうけどよ、でも見た感じじゃピッチリ塞がってるんだよなぁ」
蒸し風呂の中は人が四、五人入れば一杯になってしまうような小さな部屋であり、ホッタテがその作りを子細に観察していくが、これといって問題になりそうなところは見つからない。
「そう言えば、部屋の中も妙に隙間風が吹いてくるんだよな。ひょっとしてそういう特別な建築法でもあるのか? 確かに見た目がしっかりしてるのに風が抜けるとなりゃ、夏場は重宝されるだろうけどよぉ」
「ほぅ、確かにそんなものがあるのなら注文が来そうだな。その場合冬場はしっかりその隙間? を塞げるのかが疑問だが」
「だな。まあ隙間なんぞ布きれでも詰めときゃどうにでもなるがな! カーッ!」
「ははは、それはそうだな」
庶民の家では、多少の破損程度では職人を呼んで修繕などということは金銭的な意味でできない。なので小さな破損はおがくずで埋め、大きな破損はぼろ布を詰めて何とかするというのが基本だ。
なお、布でどうにもできないような破損規模になると、適当に板を打ち付けてその場しのぎをしつついよいよ本職に依頼となる。その場合は当分の間食事が質素になったりするので、子供の視点では親が家の壁に板を打ち付け始めるのは恐怖の象徴であったりする……閑話休題。
その後更にしばらく話をしてから、今度は温泉に入るというホッタテを置いてニックは脱衣所へと戻っていった。火照った体には吹き込んでくる隙間風が気持ちよく、適度に冷やしながら流れる汗を拭き上げていくと、不意にオーゼンから声がかかった。
『なあ、貴様よ。ちょっといいか?』
「ん? 何だ?」
『貴様達の話を聞いていて思ったのだがな、何故貴様達はあの蒸し風呂の部屋で蒸気が漏れていることを不思議に思っていたり、あの部屋で隙間風が吹くことに疑問を感じているのだ?』
「……? 言っている意味がわからんのだが……?」
真面目な声でそう問うてくるオーゼンに、しかしニックは首を傾げるしかない。あてがわれた部屋もさっきの蒸し風呂の部屋も、確かに多少古めかしくはあるものの、ニックが見た範囲ではしっかりとした作りだったからだ。
「まあ確かにアトラガルドの建築物とは比べるべくもないのだろうが、今まで泊まってきた宿の部屋と比べてもそう違いはなかったであろう?」
『は? 貴様こそ何を言っているのだ? 確かに野宿よりはずっとマシだろうが、きちんと金を払って泊まった宿でこれほどボロボロのところなど今まで一つとしてなかったではないか』
「……はぁ?」
あまりにも食い違う意見に、ニックは思わず変な声を出してしまう。これが出会ったばかりの相手であれば「今まで随分と恵まれた暮らしをしてきたのだな」と生暖かい視線を向けたりするところだが、ニックにとってオーゼンは二年半もの間一緒に旅をしてきた相棒だ。ここまで感覚がずれているというのは考えづらい。
「待てオーゼン。お主には一体この宿がどう見えているのだ? 儂には古くはあってもしっかりと手入れのされた、木造の割といい宿に見えるのだが」
『そうなのか? 我には様々な場所で大きな破損の目立つ、ボロボロの建物に見えるぞ。ということは……』
「…………幻術か?」
オーゼンとニックで見え方が違う。この場合最初に思いつくのが幻術だ。殆ど魔力を持たないニックは幻術に対する耐性が著しく低く、基本的には相手が見せたいと思う幻をほぼそのまま見てしまう。
対してオーゼンはアトラガルドの至宝であり、当然ながら生半な魔法など通じない。ましてや周囲の状況を魔力で「視て」いるということもあり、現代においてオーゼンを騙せる幻術使いはニックをして心当たりがないほどである。
『どうもおかしいと思ったのだ。あのような壊れかけの椅子に普通に腰掛けようとした辺りで気づくべきだったか……』
「というか、それなら最初の段階でボロボロの宿だと言ってくれればよかったではないか! 何故儂がそんなところに泊まると思ったのだ!?」
『そこはまあ、貴様だからな。目当てが温泉である以上、この程度なら気にしないのかと思ってしまったのだ。というか、我はちゃんと「本当にこんなところに泊まるのか?」と問うていたであろう?』
「ぐぬっ、言われてみれば……」
今思い返してみれば、「こんな高そうな宿に泊まるのか?」ではなく「こんなぼろい宿に泊まるのか?」と問われていたのだと気づけるし、それに「この程度なら問題ない」と答えたのも、「この程度のボロさなら問題ない」と受け取られてしまったのだと理解できる。
『ちょっとしたすれ違いというところか。しかしそうなると、貴様の見ているものと我の視ているものとの差違をしっかりと確認しておかねばな』
「だな。と言っても要は建物がぼろいだけなのであろう? まさかとは思うが、オカミ殿が存在しないなどということは……?」
『流石にそれはない。あの女性は普通にいたぞ』
「そうか、それはよかった」
オーゼンのその言葉に、ニックはホッと胸を撫で下ろす。居もしない相手と会話をしたとまでなると、一体何を信じていいのか本気でわからなくなってしまう。
『このような所に獣人の女性がいるとは思わなかったから、珍しいとは思ったがな』
「…………獣人!?」
最後に何気なく落とされたオーゼン謹製の爆弾に、ニックは素っ裸のまま己の股間を凝視することになった。