父、温泉に浸かる
廊下に張られた案内板を頼りに進むと、程なくして道は建物の外へと続いていった。簡単な屋根と平たく削られた飛び石の床を踏みながら進んでいくのは、童心に返ったようで何とも楽しい。
「ほっ! よっ!」
『まったく、幼子のような遊びをしおってからに』
「ははは、たまにはよいではないか。っと、到着だな」
石を踏み外してはいけないというありがちな、だが懐かしい遊びを堪能したニックの前には、小さな木製の小屋が建っている。扉を開けて中に入ってみれば、そこは脱衣所になっているようだった。
「脱いだ服はここに置くのか……ふむ」
小屋の中には棚が据え付けてあり、そこには丈夫な草で編んだ籠が置かれている。その中に脱いだ衣服を次々と入れていくニックだったが、その手が下着にかかろうかというところでふと動きを止める。
「なあオーゼン」
『言うな。わかっているとも。我は甘んじて貴様の股間に鎮座する屈辱を受け入れよう』
「いや、そうではなくてな。せっかくの温泉なのだから、たまにはゆっくり湯に浸かりたいと思ってな。お主を手に持って入ろうかと思ったのだが……やはり股間の方がいいのか?」
『ぐがっ!? そ、そんなわけがあるまい!』
気を遣ったようなニックの言葉に、オーゼンは慌てて抗議の声をあげる。
が、時既に遅し。籠に入れられた鞄からオーゼンを取り出すと、それを顔の前に持ってきたニックがニヤリと笑って見せる。
「ふふふ、なんだオーゼン。色々言うわりにはお主も案外寂しがりではないか」
『寂しいだと!? 貴様、我が一体どんな気持ちで……っ!?』
「わかったわかった。そうだな、我らはいつも一緒だ! 『王能百式 王の尊厳』!」
高らかにニックが声をあげれば、その股間に見慣れた黄金の獅子頭が宿る。変わるはずのないその表情が何処かふてくされて見えるのは、きっと気のせいだろう。
なお、流石に温泉に荷物を持ち込むわけにもいかないため魔法の鞄も籠の中に残しているのだが、たとえ視界が遮られていようとも一〇メートル程度の距離に木製の壁などニックには無いも同然であり、余人が大量に出入りする公衆浴場というわけでもないのでそこは気にしない。
逆に言えば先日の手痛い失態も伴ってオーゼンにだけは過剰に気を遣っているとも言えるが、これはそもそもかつてからオーゼンを「物」としては扱っていないためである……閑話休題。
「さーて、どんな温泉か……おおっ!」
扉を開けた先には、簡単な洗い場の他に穴を掘って周囲を岩で固めた温泉、更にはその近くに脱衣所とは違う小さな小屋もあった。隙間から白い蒸気が漏れていることからして、おそらくそちらは蒸し風呂だろう。
「ほぅ、蒸し風呂まであるのか! とは言え最初は温泉に浸からねばな!」
立ち上る湯気と温泉独特の臭気に、ニックは弾む足取りで湯船の方へと近づいていく。洗い場でざっと体を流してから肩まで湯に浸かれば、あまりの心地よさにその口から思わずため息が漏れた。
「くはぁぁぁぁぁぁぁ…………あー、これはいいな」
『ふむ。こういう時だけは我もちょっと体が欲しいと思うな』
「ん? 味覚はともかく、温度ならば感じるのではないか?」
『わからなくはないが、あくまでも数字として理解できるだけだからな。それにそもそも湯でほぐれる体がないのだ。肉体的な疲労など感じるはずもない代わりに、それが癒える感覚もまた我には知り得ぬことなのだ』
「いいところもあれば悪いところもあるということか。ま、いずれ時が進んで技術が発達すれば、お主がお主のまま飯を食ったり温泉を楽しんだりできるようになったりもするのではないか? 砂漠の王者や世界樹の守護者を見るに、お主という中身があれば外付けの体は意外とどうにかなりそうな気がするしな」
『馬鹿を言え。貴様にはわからんのだろうが、あれは現代とは圧倒的に隔絶した技術だぞ? 今の技術者達がそこに辿り着くのに、それこそ何千年かかることか……』
「ふふっ、それこそお主なら気長に待てるではないか。いつか遠い未来で、今日の儂とお主の会話が思い出されることがあるとするなら……それは何とも夢のある話ではないか」
『未来、か……まあ貴様のような非常識な男のことなら、何千何万年経とうとも忘れるとは思えんがな』
言いながら、オーゼンはほんの数十年後には訪れるであろうニックとの別れの日をふと思い浮かべる。その時自分は、果たして泣くのか笑うのか。
(……フッ。考えても詮無いことだ)
まだたったの二年と半分しか一緒に過ごしていないのに、あまりにも濃い日々は思い出が山のように積み上がっている。その一〇倍以上の時間が残されている今終わりのことを考えるなど、気が早いにも程がある。
「あぁ、しかし本当に気持ちがいいな……」
『そうだな。この温かさこそが至福なのだろうな』
体を包む温もりを、オーゼンはしっかりと記憶しておく。ニックの言う通りいつか自分が人のような体を手に入れたならば、今日のこの日、この場所をしっかりと再現できるように。
そしてその時、思うのだ。ああ、我が友の感じていた気持ちよさは、こういうものだったのかと。遙かな時を超えて、我らは同じ思いを共有したのだと。
(くくく、悪くない未来だな……)
「どうしたオーゼン? ここに来てから微妙に不満そうだったが、今は随分とご機嫌ではないか」
『む、何故そう思うのだ?』
「なんとなくだ」
『そうか、なんとなくか……』
まったりゆったり、温泉での二人の時が湯船にぷかりと浮かんでは消えていく。十分にそれを堪能し、そろそろ蒸し風呂の方にでも行こうかと思ったその時、ふとニックは脱衣所に近づいてくる別の人間の気配を感じ取った。
「ん? 誰か来たな」
『そのようだな。貴様以外にも泊まっている客がいるということだったし、その者ではないか?』
「ああ、そう言えばそうだったな」
一応自分の荷物に手をつけられないかを警戒し、扉越しに気配を探り続けるニックだったが、件の人物はごく普通に着替えて温泉へと入ってきた。
「おっと、先客かい? こいつぁ珍しいな」
「ああ、邪魔しておるぞ。お主が先にこの宿に泊まっていたという者か?」
気安い調子でニックに声をかけてきたのは、如何にも力仕事に従事しているであろう引き締まった体をした三〇代中盤くらいの男性。まるで庇のように突き出した太く丸い黒髪は、どうやったらそんな風になるのか見当も付かない。
「随分と変わった髪型だな。それは一体どうやっているのだ?」
「アン? こりゃあ膠で固めてんのよ! オレッチの気合いの象徴って奴だな! そう言うアンタこそ、随分とスゲぇのをつけてるじゃねーか! 何だそりゃ!?」
「これか? 何と言われると……尊厳、か?」
「アッハッハ! 風呂でナニを隠してるのが尊厳ときたか! アンタ面白ぇ奴だな!」
「お主もな。儂は鉄級冒険者のニックだ。お主は?」
「オレッチはホッタテ。近くの町で大工をやってる、しがない職人さ」
ニックの差し出した手を、ホッタテがガッチリと掴む。そのまま不意を突くようにホッタテがグッと手に力を込めるが、ニックの表情は些かも変わらない。
「フヌッ! ヌギギギギ……」
「フッフッフ、それで終わりか? なら次はこちらから行くとしよう」
「ぐあっ!? いっ、ててててて!? ま、参った! 降参だ!」
お返しとばかりに力を入れ始めたニックに、ホッタテはあっさりと負けを認める。すぐに離された手をフリフリと振りつつ、ニックを見るホッタテに浮かぶのは尊敬の表情だ。
「カーッ! アンタ強ぇな! その見た目は伊達じゃねぇってことか!」
「まあな」
暗黙の「男比べ」を終え、二人は改めて笑顔で握手をするのだった。