父、お勧めされる
チリツモ山脈へと向かう道すがら。森深い山奥の村にて、ニックは歓待を受けていた。
「いやぁ、本当にありがとうございました。ニック殿のおかげでこの村は救われましたぞ!」
「いやいや、儂はただできることをしただけですから」
たまたま通りかかったその村では、ほんの数日前から近くにキラーグリズリーが出没していた。小さな田舎村に冒険者ギルドが常設されているわけもなく、本来ならここから数日かけて町まで赴き、そこでギルドに依頼を出し、それを受けた冒険者がやってきて魔物を退治……という流れだが、そうなると魔物が退治されて安全が確保されるまでには相応の時間がかかる。
が、たまたま村に立ち寄ったニックがその話を聞き、そのままフラリと森へと立ち入ると、あっさりとキラーグリズリーを倒してきた。そのおかげで覚悟していた村人の犠牲は一人も出ることなく脅威は去り、喜んだ村長と村人一同ができる限りの感謝を込めて小さな宴を開いてくれたのだ。
「それにしても、こんな山奥にニック殿のような腕利きの冒険者がやってきてくれるとは、本当に幸運でしたなぁ。こちらには何か用事があっていらしたんですかの?」
「チリツモ山脈の方に向かっていておりましてな。道沿いに歩くよりもここをまっすぐ行った方が早いかと思って歩いていたのです」
「ほぅ! ここを越える方が早いと思われるとは、何とも豪儀な方ですな。そりゃあんな熊如きあっさりと仕留めるわけです。ささ、もう一杯どうぞ」
「おお、ありがとうございます」
木製のジョッキに注がれる地酒は癖も酒精もなかなかに強いが、ニックはそれを存分に堪能していく。そうして更に何杯か酒を勧められつつ話をしていくと、鼻の頭を赤くした村長がご機嫌な様子で新たな話題を切り出した。
「そう言えば、この辺に温泉宿があるのはご存じですかな?」
「温泉宿? いえ、それは初耳ですな」
「そうですか。ワシは行ったことはないのですが、何でも山間にあるとは思えない立派な作りの宿と、浸かると体の芯から疲れの抜ける温泉があるとかで、時々この村を経由して行く人がいるようですぞ。
もし宜しければニック殿も行ってみては如何ですかな?」
「それはよさそうですな! 是非寄らせていただきましょう」
新たな旅の楽しみを教えられ、満面の笑みを浮かべたニックが酒を飲み干す。そうしてその日の晩は村長の家に泊めてもらい、翌日の朝、村人達の見送りを受けてニックは教えてもらった温泉宿の方へと歩を進めていった。
「むぅ、この辺のはずなのだが……」
『時々人が来ると言っていたわりには、随分な獣道だな。こんな所を客が通るのか?』
「そうなのだろう? 温泉が湧く場所を動かすことなどできんだろうし、道を作るなどそれこそ国の仕事だ。個人ではどうすることもできずとも仕方あるまい」
『まあ、それはそうだがな』
そんな事を話ながら、ニックは山歩きの素人ならば容易く見失ってしまいそうな獣道を歩いて行く。すると突如として前方に視界が開け、そこにはこんな山奥にあるとは思えないような立派な木造の宿が建っていた。
「おお! これは凄いな!」
『確かに……これは凄いな』
素直に驚きの声をあげるニックとは対照的に、オーゼンの声は何故だか渋い。
『おい貴様よ。貴様ならば問題ないだろうが、本当にこんな所に泊まるのか?』
「うむん? この程度……と言っては失礼だが、問題あるまい?」
『そうか。いや、貴様がいいのならいいのだがな』
「?」
確かに山奥にこれほど立派な家屋を持っているのだから、相応に宿泊費はかかるだろう。だがニックとしてはここに泊まるのは完全に趣味なので、別に宿泊費に金貨を要求されたとしても気にはしない。
そんなことはわかっているはずのオーゼンの反応に微妙に首を傾げつつ、ニックは宿の扉を開け、中に入って声を出す。
「おーい、誰かおらんかー?」
「はーい! ただいまー!」
その言葉に返ってきたのは、妙齢の女性の声。トテトテと足音を立てながら廊下の奥から走ってやってきたのは、三〇歳ほどに見えるややふくよかな女性であった。
「お待たせして申し訳ありません。お泊まりですか?」
「そうだ。大丈夫だろうか?」
「はい……」
問うニックに、目の下に薄く隈のある女性はやや曇った表情で答える。その様子が気になって、ニックは慌てて言葉を付け加える。
「あー、無理ならばそれでも構わんぞ? 残念ではあるが、この宿の者を困らせたいわけではないのだ」
「あっ!? 申し訳ありません。実はその、珍しく今は他にも泊まっていらっしゃるお客様がおりまして。この宿は私の他には小さな息子二人の三人家族で経営しておりますので、どうしても手が足りないことがあるかも知れないと……」
「なんだ、そんなことか。なに、できることは自分でやるし、男手が必要なら手伝ってもいいぞ? 儂はのんびり温泉に入りに来ただけだからな」
困った様子で顔を俯かせる女性の答えに、しかしニックは逆に安堵して笑顔を浮かべる。そんなニックの態度に女性が思わず小さく笑みをこぼした。
「ふふっ、そうですか。わかりました。宿泊料金は一泊で銅貨三〇枚、朝と夜の食事をつける場合はそれぞれ銅貨五枚ずつ追加をいただくことになりますが、どうしますか?」
「そうだな……ではとりあえず二泊で、食事は朝夜両方つけてくれ」
言って腰の鞄から金を取り出し女性に支払うと、それを受け取った女性がきっちり枚数を数えてから懐にしまい込み、ニックに向かって改めて一礼する。
「確かに頂戴しました。申し遅れましたが、私は当温泉宿を経営しておりますオカミと申します。短い間ですがどうぞ宜しくお願い致します」
「オカミ殿か。儂は鉄級冒険者のニックだ。宜しくな」
「ニック様ですね。では早速お部屋に案内致しますので、こちらへどうぞ」
そう言って先を歩くオカミの後を続き、ニックが廊下を歩いて行く。その際にどうにも足下がフワフワするような違和感を感じたが、板張りの廊下は見た限りでは特に歪んでいるようには見えない。
「むーん?」
「どうかなさいましたか?」
「ああ、いや。何でもない」
「そうですか……では、お部屋はこちらになります」
「うむ、ありがとう」
ニックが礼を言うと、オカミが一礼してその場を去って行く。それを見送ってから木製の引き戸を開けて中に入ると、そこは木製のテーブルと椅子が二脚、それにベッドが二つ並ぶ簡素ながらも快適そうな部屋であった。大きく作られた窓からは深い森の木々がよく見え、十分に差し込む日差しは室内を明るく照らしてくれる。
「ほぅ、なかなかの部屋だな」
しっかりした見た目の割には何処からか隙間風が吹き込んできているようだが、僅かに秋の匂いのし始めたこの時期であればむしろ心地よくすら感じる。思わずふぅと一息ついて椅子に腰を下ろすと、ギギッという嫌な感じの音がしてニックは慌てて立ち上がった。
「おっと」
『おい貴様よ、無茶な事をするでない! どう見ても貴様が座って大丈夫なわけないではないか!』
「そ、そうか? まあ、うむ。確かに儂は重いからな」
みっしりと筋肉の詰まったニックの巨体に加え、メーショウ作の鎧まで着込んでいるニックの総重量は普通の大人三人分に近い。流石にそれを支えきれないことを家具のせいにするほどニックは傲慢ではなく、いそいそと剣と鎧を外してから座れば、やはり怪しげな音はするものの椅子はニックの体重をかろうじて支えてくれた。
「むぅ……これは座らぬ方がいいか?」
『当たり前だ。壊す前に床にでも座っておけ。この室内なら床も椅子も大差あるまい』
「うむ……?」
オーゼンの言葉に、ニックは改めて室内を見回す。質素ではあるが掃除は行き届いており、そう言う意味では確かに椅子も床も大差ないかも知れない。
「…………まあいいか。では早速温泉に行ってみるとしよう!」
なんとなく腑に落ちないものを感じながらも、ニックは入ってきたばかりの部屋を出て、壁に掛かっている矢印を頼りに意気揚々と温泉の方へと歩いて行った。