父、初心に返る
ニックからすれば些細な、だがパパカツイナやフーリルからすれば大きな障害となったサギッシが去ったことで、その後ニックは何に邪魔されることもなくパーリーピーポーでの日々を満喫していった。
競売にも勿論復帰して色々な出品物を見たり、あるいは自分が出品した品が高値で競り落とされ、割とあっさり何百枚という金貨を稼ぎ出したことでパパカツイナに大興奮されたり、フーリルの手引きで北区の者達と集まり、酒を酌み交わしたりもした。
うっとりとした表情で自分の筋肉を撫でさする男に何とも言えない笑顔で対応したり、フーリルからニックにも着られる大きさのフリフリドレスを贈られたりしたのも、今ではいい思い出だ。
そんな日々の中でも一番印象に残ったのが……
『今思い返しても、あの美術館の特別展示室は酷かったな……』
「何だ突然? まあ確かに凄かったが」
主立った場所は全て回り尽くし、そろそろ別の町に出発しようかと考えていた夜。唐突にそんなことを言い出したオーゼンに、ニックは思わず苦笑いで答える。
伯爵という高い地位を持っていたフェッチの計らいにより、ニックとパパカツイナは約束通りネーブル美術館の特別展示室に入ることができた。一般開放より一足先に踏み込んだそこは当然ながら他に見ている者もおらず、素晴らしい芸術品をゆっくりと堪能し放題ではあったのだが……問題はその芸術品の内容だ。
『まさか飾られている全てが性的なものを現した美術、芸術品のみとはな。そこはやはりあの王子の国ということか』
「ははは、そうだな」
確かに優れた美術品には人体の美しさという普遍的なものを表現するものが多々あるし、中には性愛を描いたような絵画や像なども存在しているのは間違いない。
が、それだけを集めるというのはやはり類を見ないことであり、飾られているどれもが超一流の作品であるが故に、強烈な艶めかしさで存在を主張してくる芸術品を前に、なんとなく目のやり場に困る場所であったのだ。
『……ふと思ったのだが、イワホリ殿が作った貴様の石像は一体どっちに飾られるのであろうな?』
「うぐっ!? それは……だ、大丈夫であろう?」
何が大丈夫なのかはわからなかったが、とりあえずニックはそう言って心を落ち着ける。自分の裸の石像が特別展示室に飾られ、訪れた客から全身を舐め回されるように見つめられると想像すると、どうにも尻の辺りがむず痒くなってしまう。
「そ、それよりほれ! 次の目的地を考えようではないか!」
『誤魔化したな? まあ実際どうしようもないだろうが……ふむ、次か』
露骨に話題を逸らしたニックに、オーゼンは内心でニヤリと笑ってから新たな旅の目的地について考え始める。
『流石にそろそろ何かを求めるというのは難しくなってくるな。文化、芸術、娯楽、魔法技術などのパッと思いつくものが多くある場所には大抵行ってしまったし……であれば先日も一つ回収できたことだし、初心に返って遺跡巡りでもしてみるか?』
「遺跡か……以前に声をかけていた者達からの情報が冒険者ギルドに幾つか届いておったし、それを回りながら面白そうな事があれば首を突っ込んでいくというのもありか?」
『貴様であれば放っておいても向こうから厄介事がやってくるだろうがな』
「またお主はそういうことを!」
言いながらパシンと鞄を叩いてみると、その奥からクックッと笑い声が伝わってくる。出会ってからもう二年と半分。幾度となく繰り返した会話なれど、幾度繰り返したところで飽きるということもない。
「ではまあ、とりあえず近場から順に巡ってみるとするか。ここから一番近いというと、少し前にバン殿からもらった手紙に書いてあったチリツモ山脈であろうか?」
『ほぅ、あの歴史学者か。それはなかなか期待が持てそうだ』
「だな。『百練の迷宮』かどうかはともかく、古い遺跡であることは間違いなかろう。ひょっとしたら面白い発見があるかも知れんぞ?」
『うむ。期待しておこう』
そんな事を話し合ってから、ニックは静かにパーリーピーポー最後の夜の眠りにつく。世界に暮らす大多数の人々と同じ、今日の平穏が明日も続くと信じて疑わないその眠りの間にも…………運命の時は着実に迫ってきていた。
――警告。警告。
誰にも聞こえない警告音が、虚空の果てに響き渡る。けたたましく鳴り響くそれは聞く者全てに強い危機感を抱かせるようにできているが、残念ながらそれを聞く者はこの世界に一人も居ない。
――MAterial MOnster's humaNOidの回収したEmotional Energyの浄化システムが停止しています。直ちに浄化システムを再起動してください。
ただ、もしその声が届いたとしても、きっと誰にも理解はされないだろう。それは遙か昔に魔族が神と崇める一人の男が作り出したものであり、その技術は在りし日のアトラガルドにおいてすら異端にして最先端。文明の衰退した現代において、それを僅かにでも使える者は世界中を探してもほんの数名しかいない。
――不純物の蓄積率が八〇パーセントを超えました。規定により浄化システムの強制再稼働を実行します…………失敗。浄化核が存在しません。浄化システムの起動には浄化核を正しい位置にセットしてください。
それでも、この警告を聞くことができれば何らかの異常が起きていることくらいは理解できるはずであった。だからこそわざわざ人の気を引き、気に障る音を鳴らしているわけだが……一万年近い時の流れは、高度な魔導具の性能を保つにはあまりにも長すぎた。
といっても、それは設計者にして設置者、管理者である男のせいばかりではない。そもそも男が世界の再生にかかる時間を試算した際の結果はおおよそ三〇〇〇年ばかりであり、だからこそ五〇〇〇年は耐えられるでように設備を整えたのだ。それが倍の時の流れに耐えきれなかったのを責めるのは流石に酷というものだろう。
――警告。警告。不純物の貯蔵限界が近づいています。直ちに浄化システムを再起動するか、Emotional Energyの収集を停止してください。
では、何故それほどまでに大きな計算違いが起きたのか? その明確な答えを提示することは誰にもできない。如何に男が天才であっても、何も知らずに地上に生きる人々がどのような進化を遂げ、文明を築き生活をしていくかの全てを予想しきることなどできるはずがない。それは文字通り神の所業であり、男は魔族から神と崇められてはいても、所詮は一人の人間であった。
――警告。不純物が限界を超えた場合、予期せぬ被害を及ぼす可能性があります。浄化システムを再起動できない場合、管理者の指示に従い、直ちに当施設の稼働を停止してください。
過去を知り、現在を知り、そして己を知っている男は、だからこそ知り得なかった。まさか自分が地上から去った後、あらゆる過去の文明や技術が抹消されてしまうなど。その結果一万年もの時を経てなお、世界の文明がかつてのアトラガルドの足下にすら届かないことを。
知りようがない。わかるはずがない。だがそれで割り切ってしまうには、事態はあまりにも大きすぎる。
――警告。警告。
かくて届くはずの声は届かず、危機は誰にも知られず見逃されていく。
――限界まで、あと…………
終わりの時は、確実に迫っていた。