父、秘密に触れる
眠って起きて、パーリーピーポー滞在五日目。朝からしっかり気合いを入れて、ニックは遂に北区へと足を踏み入れた。早朝にもかかわらずなかなかの人通りがあったが、その大半が区画の外へ出て行く人々な辺り、まさに夜の町の面目躍如といったところだろう。
「ほぅ、なかなかに綺麗な町並みだな」
そうして人の流れとは逆に歩いて進んだニックの目の前には、予想と違って割と落ち着いた町並みが広がっていた。建物の装飾こそやや派手だが、店の入り口を薄衣一枚着た女性が掃き清めていたりするのは、何とも不思議な光景だ。
『夜の店と言えば雑多で淫猥な印象を受けやすいが、実際には客とて暗くて汚い店よりも明るく清潔な店を好むのは当然だ。ましてやそれが大きな町の一区画を構成するほど建ち並んでいるなら、営業終わりに掃除くらいはするだろうよ』
「まあ、そうだな」
すえた匂いの充満する場末の娼館というのも存在しないわけではないが、そんなところは働いている女性もそれを買いにくる男性もまともな人間ではない。きちんと経営している娼館というのはむしろ衛生には気を遣っており、そういう意味ではここは正しく王都に相応しい経営状況と言えるのだろう。
そんな静かな通りを、ニックはゆっくりと歩いていく。無論この時間も夜勤明けの衛兵などを相手にした店は営業しているため幾人かの女性から声をかけられたりもしたが、ニックはそれを軽くあしらいつつ娼館の隙間に存在する怪しげな雑貨屋などを覗き込み、使い道のわからない謎の魔法道具や何故か何十種類もある精力剤の違いに首を傾げてみたりと、それなりに楽しく北区の散策を進めていくが……
「むぅ、もう終わりか」
いくら広いと言っても、流石に中央通りをまっすぐに歩くだけではすぐに最奥に辿り着いてしまう。であれば通りを一本奥に進めばいいだけではあるのだが、そこで頭に蘇ってくるのは昨日老紳士から聞いた言葉だ。
『どうした? 行かぬのか?』
「いや、昨日のご老人の言葉が少々気になってな」
『何を今更。貴様がどんな変態趣味に目覚めようと、我はきちんと受け止めてやるぞ? まあ場合によっては少々口調が素っ気なくなったりするかも知れんが』
「言っておれ! とはいえ、確かにここまできて何も見ずに戻るのもつまらんか」
腰の鞄をパシンとひと叩きしてから、ニックは徐に横道に入っていく。すると通りを一本隔てただけだというのに、場の空気が随分とぬるく感じられる。
「ふむん……?」
じっくりと周囲を見回しながら歩いてみるが、町並みそのものは先程とそう変わるものではない。ただ店の前に立っている女性が積極的に客引きをしておらず、むしろ客側の品定めをしているようにすら感じられる。
『これは面白い変化だな。なるほど、大通りは「選ぶ側」だが、こちらだと「選ばれる側」になるわけか』
オーゼンがそんな感想を呟いている間にも、妙にオドオドした青年がフラフラと店の側に近づいていくと、側に立っていた女性がニヤリと笑って青年の腕を掴み、やや強引に店内へと連れ込んでいく。一見すると無理矢理に誘われているように見えなくも無いが、青年の顔が嬉しそうに緩んでいるあたり、ここはそういう関係を楽しむ店なのだろう。
『ひょっとして、通りを一本奥に進むごとに店の系統が変わるということか? ならば更なる奥には一体何があるのだろうか? おい貴様よ、もう一本奥の通りに行ってみるのだ』
「更にか? まあいいが……」
オーゼンに促されて、ニックは近くの横道を進み、更に奥へと進んでいく。ただし今度は大きな通りには繋がっておらず、細い道が複雑に分岐しているようだった。
「これは……どうなのだ? 住宅街というわけでもなさそうだが……」
「ねえ貴方。ちょっといいかしら?」
キョロキョロと周囲を見回すニックに、不意に何処からか声がかけられる。声のした方向にニックが視線を向けると、建物の角から姿を現したのはまるで貴族の少女が着るようなフリフリのドレスに身を包んだ筋肉質の大男。
ニックよりは小さいとはいえ、身長一九〇センチほどはあるであろうその男が、二つに割れた顎に手を当てニックに向かって鋭い視線と共に言葉を投げつけてくる。
「貴方、朝からずっとこの辺をうろうろしているみたいだけど、一体何をしているのかしら?」
「うむん? 何と言われると困るのだが……というか、お主の方こそ何者なのだ?」
「アタシ? アタシはフーリル……まあ、この辺一帯の顔役ってところかしら。見慣れない冒険者がギルドの出した巡回路とは違う場所をキョロキョロしながら歩いているっていうから、様子を見に来たのよ。
で、貴方はこちらの質問に答えてくれるの?」
微妙にしわがれた声で女言葉を喋る大男……フーリルが、改めてニックにそう問い掛けてくる。体格、格好、口調、視線と男の全てが並の人間ならば走って逃げたくなるような威圧感を放っているが、当然のことニックはそれを平然と受け流す。
「さっきも言ったが、何と言われても困るのだ。特に目的があってここにいるわけではないというか、むしろただ歩き回って見て回ることこそが目的だからな」
「それってつまり、単なる興味本位でここまで来たってこと?」
「あー、そうなるな」
「へぇ…………」
ニックの答えに、フーリルは目を細めてニックを見据える。そうしてしばし無言の時が流れると、フーリルはあからさまに大きなため息をついてみせた。
「ハァ、いいわ。なら一応忠告しておくけど、単なる見学なら一つ前の通りまでにしておきなさい。ここから奥に入ったら……ただじゃすまないかも知れないわよ?」
「ほぅ? それは何とも興味を引かれるな」
脅すようなフーリルの言葉に、しかしニックは逆にニヤリと笑みを浮かべる。駄目と言われるとやりたくなるのが人の性であり、ニックの中にもそういう遊び心は存在している。
「儂はこれでもなかなかに強いと思っているのだが、それでも危険だと?」
「まあね。人の法には触れずとも、神の意志には背を向ける罪。秘密の蜜はとっても甘いの。一度味わってしまったら、きっと抜け出せないほどにね。
それでもいいなら……さ、どうぞ」
「……………………」
フーリルが一歩横に移動すると、ニックはそこを無言で通り抜ける。何があっても大丈夫なように警戒しながら進んでいくと、程なくして甘ったるい花の匂いとむせかえる汗の匂いが混じった臭気が強く漂い始める。
「これは一体……っ!?」
慎重に慎重に、ニックは路地の角から奥を覗き込む。するとそこにあったのは……ヌメヌメと絡み合う二つの肉の塊であった。
「兄貴ぃ! 俺ぁ、俺ぁもう……」
「へへへ、随分とだらしねぇな。ちょっと触るだけでビクンビクン震えて、涎を垂らしておねだりかぁ?」
「だってよぉ、俺もう、切なくて……頼むよ兄貴、もう我慢できねぇぜ!」
「仕方ねぇ奴だな。いいぜ、タップリ可愛がってやる。だがその前に……」
驚きのあまり固まっていたニックの方に、兄貴と呼ばれた男の方が不意に視線を向けてくる。
「どうやら新しい客が来たみたいだな」
「す、すまぬ!」
咄嗟にそう断りを入れ、ニックは気持ち悪いくらいに素早くなめらかな動作で来た道を戻っていく。そうしてすぐに元の場所まで戻ると、フーリルが呆れたような声でニックに話しかけてきた。
「だから言ったでしょ? やめときなさいって」
「う、うむ。そうだな。実に適切な忠告であった……申し訳ない」
「まあいいけどね。見ての通り、ここには色んな愛の形があるの。それを汚らわしいと否定するのは簡単だけど、アタシ達はそうしない。双方の合意があるならば大抵のことは受け入れるし、場所だって提供するわ。
ここは北区の日陰の楽園。『普通』とか『常識』っていう暴力から逃げ出した人達が集まる安住の地なの。だからできればそっとしておいてあげてね」
「わかった。本当にすまなかった。心から謝罪しよう」
単なる好奇心で場を乱してしまったことを後悔し、ニックは深く深く頭を下げる。そうしてから日の当たる方へと歩き去って行くニックの背を見送ると、フーリルは改めてその場でほくそ笑んだ。
「もっと騒ぎ立てられるかと思ったけど……何よ、随分といい男じゃない。惚れちゃいそうだわ」
「おうっ!?」
その瞬間ニックの背筋に言い知れぬ悪寒が走ったのだが、その原因をニックが知ることはついぞなかった。





