父、平穏を噛みしめる
老紳士との会合をなんとかやり過ごしたニックは、そのまま早足で西区を後にし、一目散に宿まで戻ってきた。その後は鎧を脱いでベッドに倒れ込むと、心の底から安堵のため息を漏らす。
「ハァ、疲れたな……」
『何とも情けない姿だな。貴様が裸を晒すのなどいつものことではないか』
「馬鹿を言うな! 儂が脱ぐのは常に必然性があるからであって、誰かに裸を見せたいなどと思ったことは一度として無いぞ!?」
『必然性があれば衆目の前で裸体を晒すという時点で……いや、まあ、言うまい。それでどうするのだ? 鎧を脱いだうえでまた西区に戻るのか?』
「いや、あそこはもういいだろう。大体雰囲気は掴めたというのもあるが、これ以上は儂の気持ちが持たぬ。あのねっとりとした視線の意味に気づいてしまってはな……」
西区に入ってすぐに、ニックは周囲の自分を見る目が他とは違うことに気づいていた。最初は如何にも紳士淑女然とした衣服を身に纏う人々のなかで冒険者として武装したままの自分が物珍しいのかと思っていたが、老紳士の話を聞いてしまえばそれが勘違いだったと理解できてしまう。
なお、すぐに気づくことができなかったのは同種の視線を女性だけではなく、一部の男性からも向けられていたからである。
「仮に鎧を脱いだとしても、あれだけ注目を集めていたなら儂の顔は知られているだろう。そういうつもりがあるならともかく、観光のためだけに今からもう一度戻るのはな……」
『いらぬ誤解を重ねるだけか。貴様を見ていると忘れそうになるが、危うきに近づかぬのは生物として当然の対処法だからな』
「そういうことだ。この時間から他の所に行くのも気が進まぬし、今日は少し早いが休んでしまって、明日はまた別の所に行くとしよう」
『わかった。我としてはあの特殊性に多少の興味を引かれなくもないが、貴様が嫌がるのに無理強いするほどのものでもないしな。ならば明日はどうする? 北か? それとも南か?』
「儂としては南の方がいいな。この流れで北に行くのは、どうもいい予感がせん」
『そうか? そういうことならば北に行った方が面白いものが見られる気もするが……』
「その場合は念のため、お主を股間に装着していくことにする」
『よし、南区だ』
二人の意見が揃ったところで、ニックは適当に夕食を済ませてから早めに就寝する。そうして次の日の朝を迎えると、予定通り南区へと足を踏み入れていった。
「おぉぉ、普通だ!」
活気溢れる朝の町。その見慣れた光景にニックは思わず感嘆の声を漏らしてしまう。西も東も見た目だけならそれほど変わっていたわけではないが、そこに暮らす人々の内心まで普通というのは今のニックにとっては感動するほど素晴らしい。
『確かにここは一般的な町と変わらぬようだな。だがそうなると特に見るべきものがないということでもあるが……』
「ははは、たまにはよいではないか。よし、ではまずは冒険者ギルドに顔を出してみるか」
雑多な人混みを進んでいけば、すぐに冒険者ギルドの建物は見つかる。慣れた様子で建物の内部に入ってみると、建物の規模の割には中にいる冒険者の数が少なく、代わりにやや多めの受付嬢が暇そうな顔をしていたりする。
もっとも、それはある程度予想できたことだ。そのまま依頼掲示板の方へ行って張り出された依頼書を眺めれば、やはり大都市ならではの問題……というより傾向がありありと現れているのがわかる。
「やはり大きな町だと銅級や鉄級への依頼は厳しいな」
未熟な銅級冒険者がこなす依頼と言えばゴブリンなどの小型の魔物の駆除や薬草採取などが基本だが、小さな町や村と違って大都市の場合は町壁の外もある程度開拓されているため、小型の魔物は軍によって駆逐されていたり、薬草が生えるような森も切り開かれてしまっている場合が多い。
そのため銅級冒険者への依頼の多くが下水道の掃除やネズミの駆除などの雑用になり、鉄級にいたっては依頼そのものが少ない。これは鉄級への依頼のほとんどが町を出入りする商人の護衛依頼のため、顔見知りからの紹介などで枠が埋まってしまい、掲示板で募集する必要がないからである。
ただし、では大都市では冒険者ギルドは寂れているかといえば全くそんなことはなく、逆に銀級以上の依頼に関してはこちらの方がずっと多い。
初心者のうちは田舎で頑張り、実力がついたならば都心に出てきて大手の商会や優秀な錬金術師の期待に応えるような仕事をするというのが、一般的な冒険者の成長過程なのだ。
「ふーむ。暇つぶしに一つくらいは簡単な依頼を受けてみてもよかったが……ん?」
と、そこでニックの視界の端に映ったのは、「町内北区の巡回警邏」という依頼だ。普通ならばまず見かけないその依頼内容に興味を引かれ、ニックは受付へとその依頼書を持って行く。
「すまぬ、この依頼について聞きたいのだが」
「拝見します……ああ、これですね。これはこちらの指定する順路で町を歩いてもらい、何か問題が起きた場合にその対処をお願いする依頼となります」
「うむ、それはまあそうなのだろうが……何故こんな依頼が? こう言っては何だが、こういうのは衛兵の仕事であろう?」
「勿論そうなのですが、三日後に行われる競売の関係で、今この町にはかなりの数の人が集まっているんです。
で、人が集まればちょっとしたいざこざも増えてしまい、その対処に手を取られるせいで全体的に衛兵が不足してしまっているため、冒険者の方を臨時で雇っているという感じですね。
犯罪者に対する裁量権までは与えられませんので、何か問題を起こした人がいたら衛兵が来るまでの間確保してください。自衛に関しては認められますが、過剰な暴力を振るった場合は処罰される可能性もあります。要は常識的な判断、行動をしていただければ問題ないということですが……どうします? お引き受けになりますか?」
「うーむ、そうだなぁ……」
受付嬢に問われ、ニックはしばし考え込む。そうして……
『意外だな。てっきり貴様ならばあの依頼を受けるのではないかと思ったが』
結局依頼を受けずに冒険者ギルドを後にしたニックに、腰の鞄からオーゼンが話しかけてくる。
『どうせ明日は北区に行くのだ。ならば報酬……はともかく、ギルドへの貢献値を稼ぐならば受けた方が得だったのではないか?』
「それも間違ってはおらんだろうが、せっかく町を見て回ろうというのに行動順を縛られるのは煩わしいかと思ってな。それに実質的な問題が無いとはいえ、仕事中に遊び歩くというのはマズいだろうしな」
『ふむ、それは確かにそうだな』
王都だけあってパーリーピーポーの町はかなりの広さがあり、北区だけでも小さな町より広い。無論ニックならばその程度の広さを全て警戒することも、何処かで何かがあったときに即座に駆けつけることも可能ではあるが、 だからといって何か起きるまで遊び回っていたりすれば、ギルドにとっても町人にとっても心証はよくないだろう。
「それにな……」
『ん? まだ何かあるのか?』
「いや、仕事として引き受けてしまったら、もしまた宿に帰りたくなるようなことがあってもそうはいかんだろう?」
『……ああ、うむ』
思いきり渋い顔をするニックに、オーゼンは同意するしかない。もし昨日のあれが警邏の仕事中であったならば、ニックは宿に帰ったりせずきっちりと日が暮れるまで町中を歩き回っていたことだろう……鎧は脱いでいたかも知れないが。
「とにかくそんなわけだ。では今日はこのまま町を散策するか。ああ、ついでに消耗品の補充もしておきたいな。王都ということであれば、多少値が張っても品揃え自体は豊富だろう。
競売が近い故、現金を調達するために普段なら並ばない掘り出し物などがあるかも知れんぞ?」
『ほほぅ、それは少し楽しみだ。よし、では今日は一日「普通」を堪能するとするか』
「ははは、それはいい! では行くぞ!」
軽い言葉を交わし合い、ニックの巨体がごく普通の人々の中に紛れていく。そうして日が暮れて宿に戻るまで、ニックは平穏な日々の素晴らしさをじっくりと噛みしめるのだった。