父、探し出す
暗くて紅い世界の果てから、途轍もなく巨大なナニカが迫ってくる。一般人なら立っているだけで気が触れてしまいそうな光景を前に……しかしニックはそれらを一切無視して己の顔に思いきり拳を叩き込む。
「っ……! くぅー、これほどの衝撃を味わうのは久しぶりだな」
目がチカチカし視界が揺れ、鼻からは血が滴り落ちる。頭部に傷を負うのはどのくらいぶりか、正直ニック自身にもよくわからない。
「だがおかげで目が覚めた。はは、まさかここまで寝ぼけていたとはな……」
自分の強さに、いつの間にか慢心していた。鍛え上げた体はどんな状況でも守りたいものを守れるはずだと過信していた。
ギュッと固く握りしめた拳を開くも、そこには何も無い。抵抗を試みることすらできず、気づいた時には無くしていた。
「お主はちゃんと警告してくれていたのになぁ……とんだ体たらくだ」
オーゼンが試練の内容を教えられないことを、ニックは当然知っていた。だがそんななかでもオーゼンはきっちりと答えを示唆してくれていた。
『なあ貴様よ。そんな貴様に我から一つ助言をしよう』
『いいから聞くのだ。大事なものからは決して目を離すな。無くすだけなら取り戻せるが、失われれば二度と元には戻らぬ。面倒であろうとも常に寄り添い面倒をみてやるのだ。そうすればきっと報われる日が来るはずだ』
「今思えば、あれこそがこの状況を示していたのか。ならば儂が気をつけていれば、お主を奪われることはなかったのか?」
腰の鞄の中に入れっぱなしにするのではなく、常に手にしていれば、あるいは。無くしてしまった相棒の存在に、ニックの胸には強い慚愧の念が止めどなく湧き上がってくる。
実際のところ、オーゼンが消失したのは「百練の迷宮」の機能によるものなので、その転移を阻害するのは超一流の……それこそムーナのような魔術師であっても突発的には不可能だ。だがそんなことをニックが知るはずもないし、知ったところで「むざむざ相棒を奪われた」という事実が変わるわけではない。
「愚かな儂は、お主を無くしてしまった……だがまだ失ってはいないはずだ」
魔力という余計なものがないからこそ、ニックは自分の中にオーゼンとの絆……王能百式の力がしっかりと感じられる。無論オーゼン無しでそれを発動することはできないが、ニックが求めるのは「力」ではない。
「ならばどうすればお主を取り戻せる? あれを倒すのがおそらくその答えの一つなのであろうが……」
海を砕きながら近づいてくるそれは、ニックをして見たことがないほどに大きい。雲を突くとまでは言わずともそれに近い……海に潜った時に調べた海底の深さを考えると、おそらく五〇〇メートルほどの身長があるだろう。
見た目の印象としては、二足歩行するトカゲやワニなどが近いだろうか? 太く短い足と長い尻尾が巨大な体躯を支えており、軽く持ち上げた短い手には鋭い爪が生えているのが見える。
全身は黒い鱗で覆われているが、その背中の部分には蒼く輝く背びれのようなものが並んでおり、紅い光の満たす世界ではその不気味な光が一際目立つ。
そんな破壊の化身とでも言うべきものが自分に向かって歩いてくるというのに、しかしニックはそれからあっさりと目をそらした。
「儂はもう何も侮らぬ。儂の全力を持って、もっとも確実にお主を取り戻す手段を選ぼう」
そう言って、ニックはその場で棒立ちになり目を閉じる。そんなニックに遂に間近に辿り着いた「終焉の獣」が太い尻尾を打ち付けると、ニックの巨体が木の葉のように宙を舞った。
「GYAOOOOOOOO!!!」
「……………………」
雄叫びをあげ、獣がニックを踏みつける。ベキリという嫌な音と共にニックの左足が歪な方向へと曲がったが、それでもニックは眉一つ動かすことなく、ジッと目を閉じたまま動かない。
「GYAOOOOOOOO!!!」
一切の抵抗を見せないニックを、獣はひたすらになぶっていく。殴り、突き刺し、叩きつけ、無防備にそれを受け続けたニックの体には無数の痣と出血が生じる。致命傷こそないが、その怪我は決して軽くない。
「GYAOOOOOOOO!!!」
その様子に、獣は一瞬つまらなそうに顔を歪める。もはや手ずから壊す価値すらないと、全てを終わらせるべくその口に青白い吐息を溜めて……
「…………見つけたぞ」
遂に目を開いた筋肉親父が、空を見上げてニヤリと笑った。へし折れた骨など気合いで元に戻し、地を踏みしめる足に猛烈な力を漲らせる。急に変わったニックの様子に終焉の獣が滅びの蒼光を放とうとしたが……時既に遅し。
「GYA!?」
ニックが大地を蹴った瞬間、島の七割がその衝撃を受け止めて硝子のように砕け散った。そのまま空に向かって飛翔するニックの体が途中で何かを弾き飛ばしたが、そんなことは気にするに値しない。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
雄叫びと共に、ニックが引き絞った腕を振るう。全身全霊を込めた右の拳は炎を纏い雲を生み、時の理すら乗り越える速度で何も無い、だが確実に存在する「世界を隔てる壁」を殴りつけた。
シャァァァァァァー……………………ン
薄氷を踏み砕いたかのような、高く澄んだ音が閉じた世界に鳴り響く。それと同時に世界を隔てる壁がパリンパリンと砕けて落ちていき、そこからは様々な景色が情景を覗かせる。
灼熱の火山地帯。極寒の氷の大地。光溢れる緑の草原。天を衝く石造りの塔の立ち並ぶ町。数多の世界へ通じる穴が現れては消える不可思議な状況を前に、ニックは再び意識を集中させる。
「……ここだっ!」
瞬きするほどの時間だけ繋がった、ニックが望む場所への扉。他の全てを捨ててただ一心に感じ取った相棒の気配を頼りに飛び込んだその場所は、もう幾度も目にしてきた、試練達成後に訪れる台座の間であった。
「ふむ、やはりここか」
今までの流れからして、試練を達成すれば武具や魔法の鞄と一緒にオーゼンも返却されるのではという考えは確かにあった。であればここにオーゼンがあることはごく自然であるし、実際オーゼンの気配を辿ってここに辿り着いたのだから、それは間違っていないのだろう。
ちなみに、ではなぜ普通に敵を倒して試練を達成しなかったのかと言えば、それが「絶対」ではなかったからだ。
あの敵を倒した場合、試練が進行したとしても次に何が起こるかわからない。別の敵が現れる程度なら大した問題ではないが、また何か奪われたり、あるいは取り返しの付かない変化が生じる可能性をこそニックは恐れた。
だからこそニックは自分が「終焉の獣」になぶられるのを構わず、防御すら捨てて一心不乱にオーゼンの居場所を特定し、一刻も早く直接ここに辿り着けるように全力を尽くしたのである。
「……とりあえず、先に身支度を調えるか」
そう独りごちてから、ニックは側に置いてあった鎧と剣を身につけ、魔法の鞄を肩にかける。幸いにして既に魔法の鞄は使えるようになっていたため、いらぬ心配をかけないようにとニックは自分の負傷を回復薬で治療し、体に着いた血を拭き取る。
そうして身支度を調えたところで、ニックは最後に残された真珠のような光沢を持つ金属製の白い箱に目を向けた。その蓋に手を伸ばしそっと開くと、差し込んだ光が照らし出すのは無くしたはずのメダリオン。
『やっとか。随分と遅かったのではないか?』
「ははは、すまんすまん。今回はちょっとばかり手こずってしまってな」
『そうか。まあたまにはそういうこともあるだろう。やはり貴様には我がついていてやらねばならんようだな』
「ああ、そうだな……なあオーゼン?」
『ん? 何だ?』
「おかえり」
『うむ。戻ったぞ』
笑顔で言うニックの手の中で、オーゼンの体がキラリと輝いた気がした。