父、次の旅に発つ
思わぬ騒ぎと結末を見た、ローリングシープーの王の襲来より三日。ニックとケガリの牧場生活はすっかり平穏を取り戻して……いなかった。
「何でまたいるのー!?」
「メヒェー」
朝起きて厩舎に顔を出すと、元々いたシープー達に混じって、厩舎の一室に黒い毛玉がすっぽりとはまり込んでいる。その光景にケガリが思わず声をあげたが、当の黒毛玉は素知らぬ顔でとぼけた鳴き声をあげて答える。
「あー、またいたのか」
「おじさん! 三日! もう三日目ですよ! ていうかあれから毎日ですよ!?」
格好いい感じに去って行った毛玉の王は、翌日には何事もない感じでここに戻ってきていた。それでも夜には帰るのだが、昨日は朝イチでやってきたし、今日に至っては既にここにいる。つまり、もはやここに嵌まっている時間の方が長い。
「そりゃ言いましたよ! また来てねって言いましたけど、でもこんなに頻繁に来るとは思わないじゃないですか!」
「はっはっは、よっぽどその部屋が気に入ったのだろうなぁ。とは言えお主が嫌だというのなら、また追い出すか?」
「メヒェッ!?」
スポンと放り出された恐怖を思い出し、黒い毛玉がぷるぷると震える。ニックの見立てでは討伐依頼が出るなら銀級相当になると思われる強力な魔物なのだが、そのすがるようなつぶらな瞳にケガリが微妙に顔をしかめる。
「それは……そこまではしなくてもいいですけど。可哀想ですし」
「メヒェェェェ!!!」
言質を取ったとばかりに、シープーの王が嬉しそうな声で鳴く。そんな王の姿に苦笑しつつも温かい視線を向けるケガリだったが、同時に生じた悩みにはぽつりと一言漏らさずにはいられない。
「はぁ、お母さんに何て言えばいいんだろう……」
「おーい、ケガリー!」
と、そこに厩舎の外から聞き慣れた男の声が聞こえてくる。それにケガリが応えるより早く、キンジョーが勝手知ったるとばかりに厩舎の方にやってきた。
「いたいた……って、またコイツもいるのか」
「キンジョーさん。ええ、今日もまた来てたみたいです」
「随分と気に入られたもんだなぁ。にしても、相変わらず凄ぇ毛並みだぜ」
「メヒェェェェ!!!」
物珍しそうに見るキンジョーに、シープーの王は誇らしげに鳴き声をあげる。おそらくは『王たる我の毛が見事なのは当然であろう!』とでも鳴いているのだろうが、他の皆は勿論「王の万言」を使っていないニックにもその言葉が伝わることは無い。
なお、ケガリはキンジョーにこの黒いシープーのことを「いつの間にか来ていた野性のシープー」としか説明していない。一応説明しようとはしたのだが、王様云々はニックが秘密にして欲しいと言っていた魔法道具のことを話さなければならなくなるため、それ以上に言いようがなかったのだ。
「それでキンジョーさん。こんな朝早くからどうしたんですか?」
「ああ、それなんだがな」
「ケガリー!」
キンジョーの背後から、不意に大人の女性が姿を現した。その顔を見た瞬間、ケガリが一目散に女性の方に駆けていく。
「お母さん!」
「ただいまケガリ。いい子でお留守番してた?」
「うん! 私頑張ってシープー達のお世話したよ!」
「そう。ありがとうケガリ。それでえっと、そちらの方が冒険者のニックさんかしら?」
愛しい我が子を抱きしめてから、ケガリの母、セワズキがニックの方に顔を向ける。あらかじめキンジョーから説明を受けているからか、その顔に不信感のようなものは感じられない。
「お初にお目にかかる。儂はここ数日こちらで厄介になっております、鉄級冒険者のニックです。親御さんがご不在の間に勝手に家に世話になってしまい、まずは無礼を謝らせていただきたい」
「いえ、お気になさらないでください。そこはキンジョーさんが気を遣ってくれたとのことですから。
申し遅れました、私はケガリの母で、セワズキと申します。宜しくお願いしますね、ニックさん」
軽く頭を下げて謝罪するニックに、セワズキが微笑みながらそう答える。そんな彼女が次に視線を向けたのは、我関せずと素晴らしい隙間を堪能しているシープーの王だ。
「それで、貴方が最近うちに来ているっていう黒いシープーね? 本当に綺麗な毛……」
「メヒェー?」
突然近寄ってきて手を伸ばしてきたセワズキに、王は軽く威嚇するような鳴き声をあげた。先日のこともあって流石に問答無用に攻撃を仕掛けたりはしないものの、その体毛はギュッと締まってセワズキの手を弾き返す。
「あら、ケガリはいいのに私は駄目なの? うふふ、ならこれでどう?」
「メヒェッ!?」
「ここ? ここがいいのね? ならこっちも……ほらほら!」
「メヒェェェェ……」
固く拒んでいたはずの王の体毛が、セワズキの手に揉みほぐされて徐々にその侵入を許していく。やがてセワズキの手が肘まで沈み込む頃には、王は蕩けるような鳴き声を漏らすようになっていた。
「…………あれは一体どうなっているのだ?」
「フフッ、お母さんはああやってシープーの毛を揉み込むのが得意なんです。お母さんに揉まれると、みんなああやって気持ちよさそうな声で鳴くんですよ」
「そうなのか……」
威厳も何もかも失った王の姿に、ニックは微妙な想いを抱く。もし「王の万言」を発動していたら、子供の教育には宜しくないような言葉が聞こえてくるような気がしてならない。
「ねえ貴方。そんなにうちが気に入ったなら、うちの子にならない? 黒いシープーなんて初めて見るし、この毛並みならきっと高く売れるわ」
「メヒェッ!? メヒェェェェェ!!!」
「大丈夫よ。毛を刈ってから生えそろうまでの間はここできちんとお世話するし、それにここにいるなら何回だってこうして毛を揉みほぐしてあげるわよ? ほーら、わしゃわしゃわしゃー!」
「メヒェェェェェェェェ!?!?!?」
「きゃっ!?」
もはや限界とばかりに鳴き声をあげた王が、大慌てで厩舎から飛びだして行く。最後に何やら捨て台詞のようなものもひと鳴きして転がっていく王の姿に、セワズキは少しだけ残念そうな顔をした。
「あら、逃げられちゃった。お母さんもまだまだね」
『……哀れな』
「ふむ、この様子ならばあれがまた暴れることもなさそうだな。であれば……なあケガリよ。丁度いい頃合いであるし、そろそろ儂はここを立とうかと思う」
「えっ!? おじさん、何でそんな急に!?」
突然すぎるニックの提案に、ケガリが驚きの声をあげる。その反応に少しだけ心が痛むが、元々親が帰ってくるまで、そして追加でシープーの王の安全性を確認するまでと決めていただけに、ニックの考えが変わることはない。
「いや、元々お主の母が帰ってくるまでと決めておったのだ。子供だけならまだしも、お主とその母親だけの家に儂のようなよそ者の男が泊まるのは世間的にもよくないだろうしな」
「そんなこと! ないよね、お母さん?」
「え、ええ。ケガリも随分とお世話になったようですし、せめて今日くらいはゆっくりしていかれてはどうですか? 大したおもてなしもできませんが……」
「もてなしならばもう十分受けましたとも。儂も娘がいるのですが、幼い頃の娘と遊んでいるような、楽しい日々を送らせていただきましたからな」
ニカッと笑って言うニックに、一歩後ろで控えていたキンジョーが徐に声をかけてくる。
「そうかい。ま、それなら出る前に俺の家に寄ってくれよ。あんたには渡さないといけないもんもあるしな」
「いや、それもいらん……と断るのも無粋か。ならばこの後寄らせてもらおう」
「え、え? おじさん、本当に行っちゃうんですか!? 昨日まではそんなこと何も言ってなかったのに!」
戸惑うケガリが、母の元を離れてニックの側にやってくる。そうして不安げに自分を見つめる少女の頭を、ニックはその大きな手で優しく撫でた。
「出会いも別れも突然なものだ。お主に会ったときとてそうだったであろう?」
「それはそうですけど、でも……」
「なに、あの黒いのではないが、また遊びにくるさ。シープー達と戯れるのは儂としても実に楽しかったからな。次は娘と一緒に来たいところだ」
「……また、来て下さいね? おじさんなら明日来てくれてもいいですから!」
「ハッハッハ! 流石にそこまであの黒いのの真似はできんが、ま、いずれな」
最後にポンポンとケガリの頭を軽く叩くと、ニックはケガリ達に背を向けた。三日前は見送る側だったニックが見送られる側となり、手を振るケガリを置き去りにしてニックはキンジョーと歩いて行く。
「たった一〇日……いや、九日か? それだけであんなに好かれるとはなぁ。セワズキさんのところに居づらいんなら、うちに泊まったっていいんだぜ?」
「ははは、それをやり始めたら旅など出来なくなってしまうからな。旅立ちは名残惜しいくらいが丁度いいのだ」
「そんなもんかい。一生をこの村で終える俺には、きっとずっとわからない気持ちなんだろうなぁ」
「それもまた幸せであろう。どちらが上とか下などというのは、それこそ言うだけ野暮というものだ」
「違いねぇ!」
男二人が笑い合い、やがてニックはパーリーピーポーへの旅を続けるべく小さな村を後にする。
なお、そんな村にいつの頃からか大量のローリングシープー達が訪れるようになり、そこに住む一人の女性が「毛玉の女神」と呼ばれるようになるのは、もうしばらく先のことである。





