父、顛末を告げる
「馬鹿ー!!!」
スカンピンの町の一角。怪しげな蝶の踊る看板を上げた連れ込み宿屋の店内にて、ニックの顔面に乙女の拳が炸裂する。一切の遠慮も容赦も感じられないその一撃を受け、ニックは何とも言えないしょぼくれた表情を浮かべた。
「むぅ、何だいきなり」
「何だじゃないでしょー!? あーもう! アタシがどれだけ……あーっ!」
最初元気な様子で宿に戻ってきたニックを見て、ソイネはうっすらと涙すら浮かべてその無事を歓迎した。だがもはや定位置となった酒場の奥の席でニックの語る事情を聞き進めるごとに魅惑的な笑顔がしかめっ面へと変貌していき、最後まで話を聞き終えた今、その感情が遂に爆発してしまったのだ。
「何なの!? 全部演技ってどういうこと!? っていうか何でアタシにまでそんなことしたのよ! 何? 心配してるアタシを見て興奮でもしてたの? オジサマったらそんな変態なわけ!?」
「人聞きの悪いことを言うな! 儂は変態などではないぞ!」
「なら何でよ!?」
「いや、ここはホシガル殿が出資している店なのだろう? ならばここでの儂の行動がホシガル殿に伝わっているのではないかと考えてな。こんなところでぼろを出しては笑い話にもならんし、徹底していたのだ」
「うっ、それは……」
苦笑しながら言うニックに、ソイネは怒りが収まらないながらも言葉を詰まらせてしまう。少なくとも自分にそんな指示は出されていないが、もしホシガルがそう求めたならばニックの様子を伝えていたであろうことは想像に難くない。
「で、でも、それなら他の宿に泊まればよかったんじゃない?」
「それも考えたが、ホシガル殿の手が何処まで伸びているかがわからんからな。であればむしろ『確実に情報が伝わっている』という前提のもとここで過ごす方が楽だったのだ」
「うぅぅ……わかる、わかるけど……」
全てを説明された今、ニックの主張は理解できる。だが頭で理解できることと心の折り合いがつくことは別だ。
「すっごい……すっごいすっごい! ほんっとーに! 心配したんだから!」
「ああ、すまなかったな」
ボスボスと胸を叩かれ、ニックは優しい手つきでソイネの頭を撫でた。その「やらかした後で謝る姿」がどうにも実父と重なって、ソイネは思いきり口をとがらせむくれた顔を逸らす。
「むー、何かズルい。オジサマはそうやって駄目男に引かれるアタシみたいな残念な子を騙してるのね」
「駄目男!? しかも騙す!? 儂はそんな――」
「知りませんー! こんな風に女の子を心配されるのはどう考えても駄目男ですー!」
「ぐぅぅぅぅ……つ、強く否定はできんが、しかし儂は騙してなど、いや確かに今回は騙したことになるのだろうが……」
ニックの大きな体にしなだれかかったソイネが顔をあげれば、そこには悩んだり困ったりと百面相を浮かべるニックの顔がある。それが何だか楽しくて可愛くて、ソイネは内心「仕方ないなぁ」と笑いながら意地悪をやめて話題を変えてあげることにした。
「ところでオジサマ。ホシガルさんに勝ったってことは、あの賭博場はオジサマのものになっちゃったの?」
「ん? ああ、それか。それもまた面倒なことがあってなぁ」
ソイネの問いかけに、ニックはその時のやりとりを思い出して渋顔になる。
最後の勝負の後、スッキリした顔つきになったホシガルは自身の敗北を決して曲げなかった。その為半ば無理矢理にホシガルの全てを手に入れてしまったニックだったが、どれもこれもニックからすれば持て余すばかりである。
どうしたものかと困り果てるニックに、不意に腰の鞄から素晴らしい提案がもたらされる。嬉しそうに腰の鞄をパシパシと叩くニックが首を傾げるホシガルに突きつけた「勝者の権利」は――
「あの賭博場は、ホシガル殿に『貸す』ことにしたのだ」
「貸す? それってつまり、ホシガルさんが雇われ店長になったってこと?」
「あー、まあそんな感じだな」
あの賭博場にあったものを、ニックは結局銅貨一枚すら持ち出してはいない。金貨も美術品も、何もかもがそのままそこに置かれている。
勿論、その全ての所有権はニックにある。ニックはそれを自由に持ち出すことができるが、あえてそれをせず何もかもをそのままにしてきたのだ。
――「お主の目の前に広がる光景は、昨日までと何も変わらぬ。だがここにある全ては儂のものだ。で、どうする? 儂のおさがりに囲まれた城で、お主はいつまで地に伏しているつもりなのだ?」――
ニックのその言葉は、燃え尽きたはずのホシガルの魂に再び火を灯すことに成功した。全ての裁量権を与えられた……それこそ賭博場を売り払うことにすらニックの許可を必要としない……ホシガルは、きっとこれまで以上に努力を重ね、今度こそ「自分だけの何か」を手に入れるために邁進することだろう。
「己の本質を思い出した以上、もう目先の欲望にとらわれて旅人を嵌めるような姑息なやり方はせんだろうが……もし何かあったならば冒険者ギルドを通じて儂を呼ぶといい。その時はこの町まで戻ってきてきっちり殴ってやる」
「うっわ、ホシガルさんを殴るなんて言えるの、きっとオジサマくらいよ? ……その言い方だと、もうすぐいなくなっちゃうの?」
ニヤリと笑って言うニックに、ソイネがふと寂しそうな顔を浮かべて問う。答えはわかりきっているが、それでも聞かずにはいられない。
「うむ。明日の朝には発とうかと思っている。もうこの町でやり残したこともないしな」
「そっか……よかった」
「なんだ、儂がいなくなるのは『よかった』なのか?」
「ぶー! そういう意地悪は減点でーす! 悪いオジサマには……こうだっ!」
座席から軽く腰を浮かし、ソイネの顔がニックに近づく。そのまま頬にキスでもするかと思えたが、不意に顔の軌道がずれ、ニックの耳にカプリと噛みついた。
「おうっ!?」
「ふふーん! お仕置き完了!」
「ハッ、これは参ったな」
感じたくすぐったさに耳をさするニックを見て、ソイネがクスクスと悪戯っぽく笑う。そうしてもう一度座り直すと、ニックの方に体を預け手にしたカップからコクリとお酒を口にする。
「ふぅ……こんな仕事してるから、お客さんとの出会いと別れは日常よ。でも本当に安心してお客さんを見送れるのって、実はあんまり無いのよ。ここは賭博の町だしね。
だからよかった。オジサマの旅立ちはきっといいことなんでしょ?」
「そうだな。後顧に憂いはなく、歩む先には希望がある。ならば別れは悲劇ではなく、新たな出会いと来たるべき再会のための一歩だ」
「……そういう小洒落た言い回しをしようとするの、すっごくオジサン臭い」
「ぐはっ!?」
予想外のツッコミに、ニックの繊細な心が久しぶりに抉られる。別に自分がおじさんであることを否定するつもりはないが、それはそれとしてショックは受けるのだ。
「フフフ。冗談よ冗談! オジサマったら敏感なんだから!」
「ぬぅ、この悪戯娘めが!」
「そうよ? ならどうするの? この後ベッドでお仕置きしちゃう?」
「そうだな。またお主に殴られたと店長に報告を――」
「ごめんなさい。調子に乗りました」
ウッフンと腰をくねらせていたソイネが、一転して綺麗な土下座をしてみせる。そんな風に楽しくじゃれ合いながら最後の夜を過ごすニックとソイネだったが……もうそろそろ部屋に行って寝ようかというところで最後にふとソイネがその疑問を思い出した。
「あ、そうだオジサマ。今更かも知れないけど、何でオジサマってばこんな面倒な演技なんてしたの? 普通にイカサマを指摘してればそれで終わりだったんじゃない?」
「ああ、それか? 儂はこれでも温厚な方でな。酔っ払いに絡まれても笑ってすませるし、お主のような悪戯娘にも怒ったりせん。
だが、悪意を持って殴られた時に殴り返さないほどお人好しではない。ただそれだけのことだ」
相手の為したこと、向けた悪意や込めた力に見合った力で殴り返す。それがニックの拘りであり、これだけ手間をかけた理由の全て。全てを奪おうとするホシガルに奪われる恐怖を味わわせるためだけに、ニックは慣れない演技まで頑張ったのだ。
「そんな理由!? ハァ、やっぱりオジサマって……」
「むぅ、何だそのため息は!?」
「はいはい、何でもないですよー?」
言ってしまえば、ただの気分。そんなもののために苦労をしたと語るニックに心底呆れるソイネだったが、何故だかそこに愛おしさを感じてしまい、母から受け継いでしまった駄目男好きな性根を強く自覚してしまう。
(母さんみたいにならないようにだけは、本当に気をつけようっと)
内心そんなことを強く誓いながらも、ソイネはニックと過ごす本当に最後の夜を目一杯堪能するのだった。