欲しがり男、思い出す
スカンピンの町の中央に佇む、世界最大の賭博場。その中でも一際豪華な遊戯室の中は、今や超大国の宝物庫もかくやというほど宝に溢れていた。
テーブルに座り向かい合う二人の男の周囲には、これでもかという量の金貨が積み上がっている。もはや数えることすら困難なその量は、軽く見積もっても万を超えている。
「私の札は……『貴族』です」
顔をしかめてそう呟くホシガルの背後には、彼の集めた著名な絵画や石像などの芸術品が所狭しと並べられている。審美眼の無いニックにはそれらが本当に価値があるのかはわからなかったが、自分の財を自慢するホシガルが嘘を言うとは思わなかったため、その全てを言い値で査定している。
「では、儂の札を開こう……『騎士』だ」
そんなホシガルに対し、ゆったりとした動きで札を開いて見せるニック。こちらの背後にもまた光沢のある鱗や巨大な牙など、魔物の素材が大量に積み重なっている。ホシガルにはその正確な価値は理解できなかったが、素人目に見ても二束三文の素材だとはとても思えなかった。
「我が『騎士』によりお主の『貴族』は討ち取られた。お主の領地より『騎士』を三人引き抜き、『騎士』が一人もいなくなったことで『商人』が場を離れる。それによって『商人』もいなくなったため、『農民』が追加で三人失踪し……これで儂の勝ちだな」
「…………………………………………」
札がつき何も無くなった己の手の中を、ホシガルは呆然と見つめている。敗北のあまりの衝撃に、意識が追いついていないのだ。
「あー……何と言うか、大丈夫か?」
「…………………………………………」
「ふむ……まあ仕方あるまい。とにかく勝ちは勝ちだ。これは貰っていくぞ」
声をかけても微動だにしないホシガルに、ニックは軽く顔をしかめつつも席を立つ。だがその巨体がホシガルの横を通り過ぎようとした時、ニックの腕をホシガルがギュッと掴んでくる。
「……待て。いや、待ってください」
「何だ? もう勝負は終わりであろう?」
「いいえ、まだです。まだ私には賭けるものがあります」
「そうなのか? 一応言っておくが、『命』などというのは無しだぞ?」
細く節くれ立った手からは想像も付かないほどの強い力で腕を捕まれたことで、ニックは軽い警告の意味も込めつつ冗談めかしてそんなことを口にする。追いつめられた最後の手段として己の命を賭けるというのは物語の中ではよくある話だが、これが現実になると欲しくもない命など賭けられても困るだけなのだ。
「ふふふ、ご安心を。互いに価値を認め合ったもの以外を賭け皿に乗せるつもりはありませんので」
「それはよかった。では何を賭けると?」
「……この賭博場です」
「何!?」
まるで感情の籠もっていない平坦な声でそう言われ、ニックは驚き聞き返す。今まで賭けてきたものも大概だが、それを踏まえてなおその提案は度が過ぎている。
「本気か?」
「ええ、本気ですとも。もうそのくらいしなければ、お客様に奪われたものを全て取り返すことはできないようですからね」
「まあ、うむ。確かにそうかも知れんが……」
賭博というのは、結局の所互いの財産で殴り合う行為だ。抱え込んでいる財貨が多ければ多いほど一度の勝負に使える金額が増える……つまり一度の勝利で奪い取れる額が増えることになる。
なので互いの手持ちに差が開けば開くほど逆転は難しくなる。一度に賭けられる額が減ればそれだけ勝たなければならない回数が増えるのだから当然だ。
「なあ、ホシガル殿。一体何がお主をそこまで駆り立てるのだ?」
故に、ニックはそう問いかける。これだけの賭場を経営し、自分を落とそうとしていた地獄に自ら嵌まりに行こうとする男の思惑がニックには見えてこない。
「引き際はとうに過ぎ去った。だがそれでも今引けば生活に困るわけでもなく、これまで通りの日々が送れるではないか。なのになぜその基盤たる賭博場すら賭けて、嗜好品でしかないそれらを取り戻そうとするのだ?」
「何故? 何故、ですか…………」
もしも通常の精神状態で同じ問いをされたなら、ホシガルはきっと先程のように激高したことだろう。だが負けて全てを失い最後の勝負に出る直前の今、嵐の前の凪のように落ち着いた心が、ニックの問いをきっかけに己の根底にある想いをゆっくりと掘り起こしていく。
砂漠に水を注ぐような飽くなき渇望を満たし続けた一〇年。そんな自分が自分らしくいられる場所を手に入れるための二〇年。自分の真の願いに気づいて今の方向に邁進してきた三〇年。そしてただ純粋に「欲しい」と求めた四〇年。
己の本質を守る鎧のように、己の本質を縛る呪いのように巻き付いていた大人としての理屈や建前が考えるほどに剥がれていき、黒い茨と錆びた鉄くずの花の中から現れたのは、生まれたての赤子のように脆く儚い己の本心。
「ああ、そうか……」
たった一つの純心を思い出し、ホシガルはため息をつく。何のことは無い。どれほど巨万の富を積み上げあらゆるものを手に入れてこようとも、自分は幼いあの日から何一つとして変わっていなかったのだ。
「私はただ、欲しかったのです。私のためだけに作られ、私だけが手にすることのできるもの。そんなとてもキラキラした何かが、私はずっと欲しかった……」
「それはこの賭博場では駄目だったのか? これこそお主以外には作り出せなかったお主の努力の結晶であろう?」
「そう、ですね。そうかも知れません。ですが、もうそれは過去のことです。私はこの賭博場を、賭け皿の上に乗せたのですから」
「いや、儂は――」
続くニックの言葉を、ホシガルは手を前に突き出すことで制する。
「後悔はしていません。この勝負はきっと私にとって必要なものだったのです。さあ、始めましょう。私とお客様、どちらが全てを得るに相応しい存在なのか……これが本当に最後の勝負です」
ホシガルの澄んだ瞳には、これまでの欲に濁って勢い任せに突っ込んできた狂気は微塵も残されていない。だが代わりにそこに宿った意思の光は命の火に勝るとも劣らない己の生き様が輝いており、感じる重圧はこれまでの比ではない。
「……わかった。お主を『敵』と認め、儂も全力でお相手しよう。勝負は何を?」
「一度ね、やってみたい勝負方法があるんですよ。今までは怖くてとてもできませんでしたが」
そう言って、ホシガルは己の指の上に懐から取り出したチップを乗せ、弾いてみせる。するとそれはクルクルと宙を舞い、やがてカチャンという音を立ててテーブルの上に落下した。
「チップは私が弾きます。さあお客様、どちらに賭けますか?」
「ふむん? そうだな……では表にしよう」
「わかりました。では……」
新たなチップを取り出して、ホシガルはそれを指の上に乗せる。ただしそれは普通のチップではなく、こんな時の為に懐に忍ばせていた二枚のうちの一枚。裏が出るように細工してある方だ。
(うちの者が弾けばほぼ確実に任意の面が出せますが……私がやったならば精々八割といったところでしょうか。ふふふ、こんなに分の悪い賭けは久しぶりですね)
隠すことなくほくそ笑み、ホシガルがチップを天高く弾く。それは激しく回転しながら宙を舞い、テーブルの上に着地すると重しの仕込まれた方を下に吸い込まれるように倒れる……ならば光を浴びているのは裏面ということだ。
「……ふぅ。賭けはどうやら私の勝ちのようですな」
「そうか? もう一度しっかり見た方がいいと思うぞ?」
「? 何を言って……っ!?」
どういうわけか余裕たっぷりなニックの言葉にホシガルがテーブルに倒れたチップを目にすると、その表面にはチップの裏面を示す模様が……無かった。
「な、無い!? え、これは……まさか!?」
慌てたホシガルがチップを手に取りひっくり返すと、そちらの表面にも何の模様も刻まれていない。しかも手にしてみて初めてわかったが、どうもチップがほんの少しだけ薄くなっているように感じられる。
「空中で高速回転するチップの表面を削った……!? そんな、どうやって!?」
ホシガルは勿論、すっかり存在感の消えている黒服や各遊戯の係の男達もこの場には存在しており、その全員がチップの挙動に注目していた。だがホシガルが慌てて周囲の者達に視線を向けても、誰もが驚愕の表情と共にただ首を横に振るのみ。
(これだけの人数に注目されているなか、誰にも気づかれることなく金属製のチップの表面を両方とも切り落とした!? そんなことが人間に可能なのですか? そんな、そんなことができるなら、それこそイカサマなんてやり放題じゃ……)
「ふっふっふ、表も裏もないということは、これは引き分けということだな!」
驚きで目を見開くホシガルに、ニックがニヤリと笑ってそう告げる。勝つことなどいつでも出来た相手にここまで情けをかけられては、もはやホシガルに立つ瀬はない。
「ええ、そうですね。この勝負、私の完敗です」
大げさな身振りを交えて「いや、引き分けだと言ったではないか!」と抗議の声をあげるニックを無視して、ホシガルは寂しげな……だが何処か満足げな笑みを浮かべるのだった。