父、条件を出す
「おっと、これは……残念でしたね、お客様」
「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ…………」
これっぽっちも本心の含まれていない係員の言葉と共に、ニックの前から二〇枚の赤チップが運ばれていく。
もっとも、それはただの赤ではない。材質が金属になり、金で縁取られたそれは一枚で金貨一〇枚分の価値を持つ、特別室でだけ使われる高額チップだ。
「も、もうひと勝負だ!」
「それは勿論構いませんが、お客様、チップはまだお持ちなのですか?」
「それは……」
「これはこれは、お困りのようですな」
困窮した顔で言葉を詰まらせたニックの背に、見計らったように声がかけられる。振り返った先にいるのは、二人の屈強な男を背後に控えさせいつも通りに張り付いた笑顔を浮かべるホシガルだ。
「おお、ホシガル殿! いいところに来てくれた! 実は……」
「ええ、ええ。わかっておりますとも。勿論チップならばお貸し致しますよ。おい」
「ハッ!」
ホシガルがそう言って声をかければ、背後に控えていた男のうちの一人が重そうな布袋を取り出して見せる。だがそれにニックが手を伸ばそうとした動きを、ホシガルが自らの手で遮った。
「ホシガル殿?」
「いえね、実はお客様にお貸ししたチップの合計が、そろそろ金貨二〇〇〇枚を超えようとしておりまして。私としてはこれからも存分にお客様に楽しんでいただきたいとは思うのですが、流石にこれ以上は何の担保も無しにチップをお貸しするのは難しいのです」
「ぐぅぅ……いや、しかし、ホシガル殿は以前『換金されなければチップなど数合わせに過ぎない』と言っていたではないか! 儂は今まで一度もチップを現金に換金しておらんのだぞ?」
「それは勿論存じております。ですがそれはそれとして、この賭博場を経営する身としてはお客様だけを特別扱いし続けるわけにもいかないのです。なので形だけ、そう形だけで構いませんので、何か担保をお引き渡しいただけないでしょうか?」
「担保を、形だけ……?」
「そうです。あくまでも形だけです」
戸惑いを見せるニックに、ホシガルは優しそうに見える笑顔でそう告げた。そんなホシガルに対し、ニックは更に迷いを重ねる。
「いや、しかし、金貨二〇〇〇枚の価値があるものと言われても……」
「そうですね。なかなかの大金ですから……どうでしょう? お客様の腰に下げているその剣。そちらを預けていただければ、問題なくチップをお貸しできると思うのですが」
「これか!? いや、しかしこれはとても大事なもので……それに、これが無くては儂は仕事ができなくなってしまうぞ?」
「ははは、そう深刻にお考えにならずとも大丈夫ですよ。これはあくまで形だけなのですから」
「形だけ……形だけか」
「ええ、形だけです。それで、どうされますか?」
ホシガルの言葉に、ニックの視線が腰の剣と黒服の持つチップの入った袋を行ったり来たりする。それを好機と見て取ったホシガルが、更にもう一押し。
「そうですね。ではこうしましょう。そちらの剣を預けていただけるならば、更に倍のチップをお貸し致します。それだけの元手があれば、お客様ならばすぐに大勝して今までの負け分など取り返せますよ。元手があればあるだけ勝ちやすくなるなどというのは当然のことですからね」
「倍!? 倍……ぐぅぅ……倍……………………」
ニックは迷う。視線を動かし、手を動かし、迷いに迷って……だが遂にその腰から剣を外し、ホシガルの方に差し出した。その瞬間、ホシガルの胸の内には狂気にも似た快感が一気に噴き上がる。
(やった! 遂に、遂に手に入れたぞ!)
当たり前だが、ここまでのことは全てホシガルの筋書き通りだ。最初に無償で遊ばせた上で勝たせることで気を大きくさせたり、一度も換金させないことで自分に一切の損失を出さず、かつ現金を介在させないことで相手の金銭感覚を徐々に狂わせていく。
勿論、客の勝ち負けもホシガルの手の内だ。この部屋に勤務している係員は全員凄腕であり、様々なイカサマを駆使してその勝率は八割ほどを誇っている。重ねて魔法道具を利用すれば必勝にすることもできるが、そこまでしてしまうと客の不信感が強くなりすぎてしまうため、これで十分というのがホシガルの導き出した答えとなる。
つまり、この哀れな獲物にどれだけチップを貸し出そうとも最終的にそれが全て回収されるのは自明の理であり、ホシガルは実質無償でこの剣を手に入れることに成功したのだ。
(さあ、さあ早く! 早く私の手に……)
「なあ、ホシガル殿」
「な、何ですか?」
だというのに、哀れな獲物はホシガルの手に剣が振れる少し手前で動きを止めてしまった。うわずりそうになる声を必死で抑え、ホシガルがニックに問い返す。
「さっきも言ったが、これは儂にとって大事な剣なのだ。なのでこれを渡すに際して、ホシガル殿に頼みたいことがある」
「頼み? 何ですか? ああ、もっとチップが欲しいということでしたら……」
「そうではない。儂はどうしてもその剣を取り返したいし、他にもまだ金に換えられるものを持っている。故に儂の財が尽きない限り、儂からの勝負をずっと受け続けて欲しいのだ。途中で辞めたなどと言われてしまっては剣を取り戻せなくなってしまうであろう?」
「…………はっ、ははは! それは確かにそうですね! 勿論それで構いませんよ」
(馬鹿だ! コイツは本物の馬鹿だ!)
湧き上がる歓喜の叫びを渾身の力で押さえ込みながら、ホシガルは笑顔でニックの提案を呑む。
(まだ時間がかかるかと思ったが、これで鎧の方も手に入れたも同然だ! いや、それどころか他にもまだ珍しい物を持っているのか!? ふふふ、全て! その全てをこの私が手に入れるのだ!)
ホシガルの脳内を快楽物質が駆け巡る。性的な絶頂など比較にもならないほどの快感が背筋を振るわせ、貼り付けた鉄面皮がほんの僅かににやけてしまう。
「では、最後の確認だ。儂の手持ちがある間は、ホシガル殿に勝負を受けてもらう。そしてその勝ち負けの分は、今度こそチップではなく現金やそれに準ずる物品などでやりとりする。それで問題ないだろうか?」
「ええ、ええ! 構いませんよ! 勿論ですとも!」
だからこそ、ホシガルは油断してしまった。その条件に含まれていた致命の毒を、ホシガルは見逃してしまった。
「では、受け取ってくだされ」
俯いたままのニックが、片手で魔剣を差し出す。それを両手で受け取ったホシガルは予想以上の重さに思わず蹈鞴を踏んでしまったが、すんでの所で横に控えていた黒服がその体を支えてくれた。
「ああ、何とズッシリくる重さ……っと、いけませんね。おい、それをお客様に」
「ハッ」
満面の笑みを浮かべたホシガルの指示に従い、黒服の男がニックに布袋を二つ差し出す。それをニックはガッシリと掴み取ると、不意にその肩を振るわせ始める。
「クッ、クックックッ……」
「ん? どうかされましたか?」
「いえいえ、何でもありませんぞホシガル殿。ただ、そうですな。強いて言うなら……」
俯いていたニックの顔があがり、その表情が露わになる。だがそこに浮かんでいたのは賭博に狂う愚か者の顔でも、借金に身をやつす負け犬の顔でもない。
「言質はとったぞ?」
「ヒッ!?」
己の手のひらで踊らされた、哀れな獲物。そのはずの相手がホシガルに向けたのは、彼の築いた黄金の城をひと飲みにしてしまいそうな凄絶な笑みであった。