父、部屋に戻る
『本当にあれで良かったのか?』
「うむ? あれはどうしようもあるまい。万が一親に騙されていたり利用されている可能性も考慮してみたが、あれはどう考えても自分の意思で動いているであろう。であれば半端な対応ではなく、ある程度明確な立ち位置を示しておいた方がいいかと思ってな」
薄暗い城の廊下を一人で歩きながら、ニックはオーゼンの問いに答える。実際もっとへりくだって婉曲に誘いを断ることはできたが、ニックはそれを良しとしなかった。
『ふむ。だがそれでは今後の面倒毎が増えるのではないか?』
「それはそうだが、正直今更という気もしてなぁ。あんなにあからさまに薬を盛ってくるような相手では、下手に遠慮すると周囲に被害が出そうだ」
『薬……やはり入っていたか?』
何気なく言うニックに、オーゼンは確認するように問う。あまりにもあからさま過ぎてむしろ疑うように仕向けられた罠なのではと警戒していたオーゼンだったが、敵を買い被りすぎたかと内心ホッとする。
「うむ。まあおそらくは眠り薬程度であろうがな」
口に含んだ時点で、ニックはお茶に何らかの異物が混じっていることに気づいていた。そのためあえて菓子の方にも手を出したが、そちらにも同じ何かが入っていたことで、それが意図的に混入された物であると確信している。
もっとも、ニックでは感覚で「何か入っている」と感じることは出来ても、「それがなんであるか」を判別する知識や技術は無い。たとえば今回のお茶とお菓子には常人が朝まで深い眠りに落ちる程度の睡眠薬が含まれていたのだが、それをニックが知ることは無い。
『というか、薬が入っているとわかっていてよくあれだけ適当に飲み食いできたな』
「はっは。飲食物に混入させて大した違和感を感じさせない程度の毒など、儂に効くわけないではないか」
『……そうか。まあ貴様だからな。それ以上は言うまい』
笑うニックに、オーゼンは呆れた口調で言う。もし万が一の可能性でニックが毒にやられていたらどうにかして助けようと考えていたオーゼンだったが、改めて見せつけられるニックの非常識ぶりには呆れることしかできなかった。
ちなみにだが、人類の最前線で仲間の盾として戦っていたニックは、もっともっと強烈な毒を幾度となくその身に浴びたことがある。
触れるだけで骨まで溶かす溶解毒や、一息吸い込むだけで臓腑が爛れ腹が腐り落ちる腐毒。七日七晩血を吐き全身を掻きむしりながら狂い死ぬ狂幻毒など、まかり間違ってこの辺の町に持ち込まれれば国ごと隔離されるような凶悪な毒を無数に食らったことがあるが、そのどれもニックは「ちょっと肩が重いかな?」くらいの症状しか感じず、しかも一晩寝て起きれば完治していた。
そんなニックにとって、ただ一晩眠り込むだけの薬など原液を樽で飲み干しても効果など出るはずが無い。指輪の方はもう少し強い痺れ薬だったが、海に垂らす薬の量がスプーンからバケツに変わったところで結果が動かないのは当然だ。
そのうえ、媚薬に関しては更に効果が薄い。ニックは自身が強いことを自覚しているため、自分が混乱したり惑わされたりした結果、己の力が仲間に……特に娘に向かうことを何より警戒していた。
それ故に思考を奪う媚薬や魅了の魔術などに関しては積極的に抵抗力を鍛えており、もはやこの世にニックを惑わせることのできる力など存在していなかった。
「まあとにかく、これでこの国の大臣とは敵対するのがほぼ確定だな。どうしたものか……とりあえずガドー殿には相談するとして、今後の立ち回りを考えねば。ぐぅ、面倒くさい……」
『自業自得だ愚か者……と言いたいところだが、流石に今回は貴様が悪いとは言えんな。かといって我に出来ることも無いのだが。それとも諜報に向くような能力を「王能百式」で具現化するか?』
「それも手ではあるが、万能の鬼札ならこの程度のことで切るべきではなかろう」
オーゼンの提案に、ニックは首を横に振る。「王能百式」の力は未だ未知数ではあるが、ニックはそれを極めて高く評価していた。オーゼンという明らかな自我を持つ魔導具の存在を鑑みれば、それは当然の判断だ。
「ただまあ、さしあたって必要なものはひとつあるな」
『む? 何だ?』
「……道案内だ」
ほんの僅かの沈黙の後、ニックは誰がいるわけでもないのにそっと正面から視線をそらし、そう呟く。
『……貴様、まさか迷ったのか?』
「仕方ないであろう! 城の通路というのはそもそも侵入者を迷わせるように設計されているのだ。ならば儂が迷うのは必然であろうが!」
『言っていることは間違ってはおらんが、なんともはや……』
オーゼンの今までとは違う呆れの口調に、ニックは思わず口を尖らせる。
「そうは言うが、ならばお主は部屋からここまでの道順を覚えているのか?」
『覚えているぞ』
「ほれみろ! だから……何?」
『だから、我はきちんと覚えていると言ったのだ。そもそも我はアトラガルドの技術の粋を尽くした魔導具だ。人のように曖昧にものを忘れたりはせぬ』
オーゼンの言葉に、ニックの表情がパッと輝く。
「そ、そうか! ではここからどうやって部屋に戻ればいいのだ?」
『わからん』
「はぁ!?」
だからこそ、その返答に思わず間抜けな声を出してしまったニックが慌てて周囲に視線を走らせる。誰かに見つかれば道を聞けるのだが、反面それによって生じる面倒毎を考えるならばこのまま誰にも見つからずに部屋に帰ることが最善なのは間違いない。
「どういうことだオーゼン! 今覚えていると言ったではないか!」
『先ほどの部屋から貴様の部屋までの道順は覚えている。だが貴様がフラフラと迷い歩いたこの場所から直接貴様の部屋に戻る道を知るわけがなかろう? そもそも現在位置がわからぬのだからな』
「ぐぅぅ……」
『我としては、貴様が彷徨い歩いた道をそのまま戻り、さっきの部屋の前に出てから改めて貴様の部屋に戻るのを推奨するが』
「あそこに戻るのか!? だが部屋の前であの娘に気づかれたりしたら、何というかこう、格好悪くないか?」
『そこまでは知らぬ。貴様の好きにするがよい』
「ぬぅ。名を取るか実を取るか……ぐぬぬぬぬ……」
ひたすらに唸り続けるニック。そのまま数分唸った結果、偶然通りかかったハニトラに見とがめられ、何とか無事に自分の部屋にたどり着くことができた。
「酷い目に遭った……」
「申し訳ありませんニック様。私の立場ではどうすることもできず……」
「あー、いや、そうではない。違うから気にせんでくれ」
「はあ? そうですか?」
ニックがココロに何かをされたのだと考え、自分のせいだと謝るハニトラにニックは慌てて手を振って否定する。
「確かに色々言われはしたが、儂としては道に迷った方が余程大変であったわ。故にお主に会えて助かった。感謝するぞ、ハニトラよ」
「……っ」
「ん? どうかしたか?」
「い、いえ。何でもありません」
自分の働きに……それも何の苦労も無いただの道案内に感謝の言葉を告げられ、ハニトラは一瞬言葉を詰まらせた。それは彼女の主が決定的に欠いているものであり、ならばこそハニトラの胸にはその言葉がじんわりと染み込んでいく。
「ニック様……あの、私……」
「ふぁぁ……流石に眠いな。ああ、すまぬ。何か言いかけたか?」
「……いえ、何でもありません。もう夜も遅いですし、ごゆっくりお休みください」
「そうか? では休ませてもらうとするか」
僅かに首を傾げつつも、ニックはその巨体を柔らかなベッドに沈ませた。いびきこそかかないが、すぐにその巨体に相応しい寝息を立て始める。
「…………お休みなさいませ、ニック様」
そんなニックの頬に、ハニトラがそっと唇を押し当てる。何の性的な意図もなく、ただ愛しい物にするようなその口づけに、ニックが寝ぼけながらもポリポリと頬を掻いた。
「フフッ。では、失礼します」
眠る筋肉親父に静かに一礼をして、ハニトラは部屋を出ていく。
『まったく。本当に貴様という男は……これも王の資質と言うべきか?』
ただ一人、そんな様子を全て見ていたオーゼンだけが、その想いを夜の闇に遊ばせていた。





