黒娘、誘惑する
「さ、せっかく来ていただいたのに立ち話というわけにはまいりません。まずはこちらにどうぞ」
「わかりました。では失礼致します」
ココロの勧め……あるいは命令に従い、ニックは部屋の中にあったテーブルに着く。そこにはお茶の用意がなされており、座ったニックにココロが手ずから紅茶を入れ、湯気の立つカップを差し出した。
「さ、どうぞ」
「おお、手ずからお茶を入れていただけるとは、光栄ですな。いただきます」
一言礼を口にしてから、ニックはお茶に口をつける。なかなかに高級な茶葉らしく、芳醇な香りが口から鼻に抜けていく。
「これはまた上等なお茶ですな。わ……たしのような者に、勿体ない」
「ウフフ。先ほども言いましたけど、普通に話していただいて構いませんよ?」
「では、遠慮無く。こちらの菓子ももらっても?」
「勿論ですわ。ニック様のために用意したものですから」
ニッコリと笑うココロに、ニックは太い指で器用に小さな焼き菓子を摘まむと、ひとつふたつとヒョイヒョイ口の中に放り込んでいく。そうしてバリバリかみ砕いて、パサついた口内を紅茶で潤す。
(なんとも下品な食べ方ね。どれほど偉大な娘がいようと、所詮父親はただの下民ということかしら)
そんなニックの様子に、ココロは内心そんなことを考えていた。だが当然それを表に出すような間抜けなことはしない。ただじっと……まるで虫か何かを観察するようにニックのことを見つめ続ける。
「ふぅ、美味かった! それでココロ嬢? 儂に話を聞きたかったということですが、何故にこのような遅い時間帯に? ココロ嬢のような年若い娘が、如何に既婚者の中年とはいえ男を部屋に呼ぶにはあまり相応しい時間帯とは思えんが……?」
「申し訳ありません。私もそう思いはするのですが、貴族としてやらねばならぬことが沢山あるのです。ひと月先であれば昼間に時間をとることもできましたが、急遽となるとどうしてもこんな時間しか開けることができず……ご迷惑でしたか?」
「いや、儂の方は陛下との謁見の日までせねばならぬことなど無い故、問題無いが」
「ならば良かったです。まさにその謁見を終えられればニック様は城を去られてしまうわけですから、どうしてもその前に勇者様の父親としての武勇伝をお聞きしたかったのです!」
「ははは。語るほどのことは大してありませんが……お望みとあれば儂にできる話であれば、存分にお聞かせ致しましょう」
子供のようにはしゃいでみせるココロに、ニックは朗らかに笑って応える。そのままココロに求められるままに数々の冒険譚を語ってみせたニックだったが、笑顔でそれを聞き入るココロの内心は全く別の事を考えていた。
(何この話。いくら自分の武勇を誇りたいからといって、ここまで誇張したら嘘が丸出しじゃない。私に自分を売り込むにしても、限度というものがあるでしょうに……これが下等な平民の限界ということかしら? それにしても……)
「おっと、ココロ嬢の茶が空のようですな。儂が入れましょうか?」
「いえ、結構ですわ。ニック様をおもてなしするために用意はしましたが、流石にこの時間に飲み食いするのは、貴族の娘として問題がありますので……」
「そうか? 儂ばかり悪いな」
「ふふ。実質ニック様のためだけに用意したものなのですから、どうぞ遠慮なさらず飲み食いしてくださいませ」
最初からカップに満たされていたお茶以外、ココロは一切口をつけなかった。こんな夜中にお茶を飲み菓子を食べるのが体型維持に最悪だという常識、前提があればこそ不自然に思われないはずであるが、無論本当の理由は別にある。
(薬が効かない? 確かに味に影響が出ない程度に薄めてあるし、これだけ体が大きければ相対的に効きが悪いのはわかるけど、それでも流石にそろそろ……)
「さて、それでは夜も更けてまいりましたし、儂はそろそろ部屋に戻ろうかと思うのですが」
「え!? あ、あの、もうちょっと! もうちょっとだけお話を聞かせていただけませんか?」
「むぅ? しかしもう大分夜も遅いですぞ? これ以上は流石にご迷惑では?」
「そんなことありませんわ! 今を逃せば次の機会があるかどうかすらわかりませんし。なので是非とも、もう少しだけ……」
「ふぅ。わかりました。ではもう少しだけですぞ?」
「はい。我が儘を聞いていただいてありがとうございます。ニック様」
必死に自分を引き留めるココロに、ニックは苦笑しながら浮かしかけた腰を元に戻す。そうして話を再開するが、その後一時間経ってもやはりニックに変化は訪れない。
「さて、それでは流石に今度こそ、この辺でお暇を――」
「に、ニック様!」
再び帰ろうとしたニックを、ココロは思わず呼び止める。
(ここで帰す訳にはいかない! こうなったら最後の手段を……っ!)
「……ココロ嬢? 何をなさるおつもりか?」
ニックの前で、ココロがしゅるりとドレスを脱ぎ床に落とす。その下には艶やかな紫色の夜着を身に纏っており、薄衣の向こう側には月明かりに透かされたココロの裸体が見て取れる。
「ニック様の語る武勇伝の数々。その雄々しい姿に、私すっかり魅了されてしまったようです。どうでしょう? このままここで私と一晩を過ごしてはいただけませんか?」
「はは。如何に儂のような者を相手にとて、そのような冗談を言うものではありませんぞ?」
「冗談ではありませんわ。それともニック様はあのメイドのような娘がお好みでしょうか? であれば彼女も交えて三人一緒でも構いませんよ?」
「……随分と手慣れているような物言いですな」
「勘違いなさらないでください。私は未だ生娘です。ですが貴族として相応の教育は受けておりますし、初めてを迎える際に既知の知れたメイドを側に置いて介助を頼むのは、わりとある話ですのよ?」
「そ、そうなのか!? それはまた……何とも」
ココロの話に、この部屋に来て初めてニックが動揺をみせた。それを己に都合良く受け取り、ココロはここぞとばかりにたたみかける。
「それに、強い胤を受け入れるのは一族の繁栄にも繋がります。勇者様と同じ胤をこの身に受け入れられるなど光栄の至りですわ。ですからどうか、私にもニック様の胤をお恵みくださいませ」
いつの間にか、部屋の中に甘く腐ったような香りが充満している。ココロに目撃者として用意されたメイドが特製な香炉に火を入れたからだ。
(お茶やお菓子に仕込んだ薬とは訳が違う。これを吸えばあっという間に思考が蕩けてしまうはずだわ。それに……)
キュッとココロが拳を握ると、身につけていた指輪の一つから小さな針が伸びる。そこに流布された薬は、それこそ他とは濃度が違う。
「さ、ニック様。寝所の用意をしてあります。私と一緒にあちらへ……」
甘ったるい声を出し、ココロは背伸びをしてニックの首に腕を回す。そのまま体を擦り付け油断を誘い、今正に首に針を打ち込もうとしたところで――
「まったく。悪戯はこの程度にしておけ」
ニックの手が、ココロのほっそりとした腕を掴んで軽く振りほどいた。
「な、なんで……!?」
何故薬が効かないのか? そう言いたかったココロではあるが、ニックはそれを「何故自分を拒むのか?」と受け取り、それに対する返答をする。
「何でと言われてもなぁ。承知の通り儂は結婚しておるからな。お嬢さんのような娘にそんなことをされても、何とも思わんよ」
だが、その言葉はココロの自尊心を激しく傷つけた。甘えるような仮面が剥げ落ち、その目には強い憤りの光が宿る。
「こ、この私の魅力が、貴方の妻に……平民に劣ると?」
「当たり前ではないか」
「っ!?」
反射的に、ココロはニックの頬を力一杯はたいていた。バチンという音が静かな室内に響き……だが痛みに悶えたのはココロの方だった。
「うっ、ぐぅぅ……」
「己が力を振るう時、己の身もまた力によって苛まれるのだ。将来人の上に立つ貴族であるならば、それをゆめゆめ忘れてはならん。その手の痛みを、どうか忘れずに大人になってくれ」
「無礼者! 勇者の父とはいえたかが平民如きが、マックローニ侯爵家の娘である私に何を偉そうに!」
いきり立つココロに、ニックは静かに首を横に振る。
「そうではない。人は皆同じなのだ。役職としての上や下はあるが、国王だろうが下町の子供だろうが、食わねば飢えるし眠らねば疲れる。裸で冬は越せぬし、誰かを傷つけるならば、己もまた傷つくのだ。
だからこそ考えねばならぬ。力を振るうことの意味を。他者を傷つけ自分を傷つけ、それでもなお拳を握る意味をな」
「うるさいうるさいうるさい! 下がりなさい下郎! さっさとこの部屋から出ていって!」
「……わかった。では、失礼する」
深く腰を折って一礼すると、ニックは部屋から出ていった。残ったのはココロと壁の向こう……隠し部屋に配置した幾人かのみ。だがそんな者をココロは気にしない。彼女にとって彼らは人と数える存在ではない。
「許さない、許さない、許さない! この私の魅力になびかないどころか、くだらない平民より劣るですって!? 絶対に許さない! 私を侮辱した罪、永劫の地獄で後悔させてやる!」
その性根そのままに顔を醜く歪ませたココロの叫びは、月の光が部屋から消えるまで続いた。





