父、追加報酬を提示される
「で、できた……!? 紫! 紫のクサイムが生まれたよ兄さん!?」
「あ、ああ。紫だな……」
目の前で起きた現象に、ソメオとシミールの理解は未だ追いつかない。クサイムが分裂して増えるらしいというのは知っていたが、まさかもう一度融合して一つになるとは思いもしなかったためだ。
「い、いや待て。確かに紫になったが、問題はそれを染色液に加工したらどうなるかだ。おいシミール、代わりの木桶もってこい」
「代わりって……そんなの無いよ? そう言ったじゃないか」
ソメオの言葉に従ってニックが壊した木桶は、直径二メートル、深さ七〇センチほどの大きなものだ。滅多なことで壊れるようなものでもないため、そんなかさばる道具の予備などシミールは用意していない。
だが、そんなシミールの言葉にソメオは呆れた口調で返す。
「馬鹿、こんなでかいのじゃなくて、もっと小さいのでいいんだよ! 試しにこの一匹の体液で染色液を作ってみるだけだからな。まさか普通の大きさの木桶すら無いとは言わせねーぞ?」
「あ、ああ! そういうこと!? ならすぐ持ってくるね」
納得したシミールがすぐに適当な木桶を取りに行くと、その背を見送ったソメオは改めて側に立っているニックの方に顔を向けた。
「てーことで、悪いんだが俺達は大急ぎでこいつが使えるかどうか確かめてみるから、三時間くらいしたらまた来てくれるか? アンタも大分疲れてるだろうし、せめてそのくらいはゆっくり休んでてくれ」
「わかった。では宿に戻って少しだけ休ませてもらうとしよう」
「おう、また後でな」
半ば追い出されるような形でニックはシミールの工房、ひいては店を後にする。とはいえ作業に集中する職人というのは大体ああいう感じであり、また人には明かせない独自の製法などを抱えているのはよくあることなのでそれで気を悪くしたりすることはない。
『何とも慌ただしかったな。にしても、クサイムか……』
疲労を感じるほどではないが、かといって別に疲れていないわけでもないので、言葉通り宿に戻って休憩しようと歩き出すニックに、オーゼンがぽそりと語りかけてくる。
「ん? 何だオーゼン、お主もクサイムのことが気になったのか?」
『まあな。単体で分裂して増えるというのなら割とあることだが、それが再結合するというのは極めて珍しい。個としての意識、あるいは自我と呼ぶべきものが存在しないからこそ可能なのであろうが……』
「ふむ、確かにあれは儂も驚いた。ムーナならば知っていたのだろうか? それとも初耳だと驚くのか……次に会ったときにでも話してみるか」
『随分と反応が軽くないか? ひょっとすれば大発見かも知れんのだぞ?』
訝しむオーゼンの言葉に、しかしニックは口を曲げてポリポリと頭を掻く。
「そう言われても、儂は冒険者ではあって魔物の研究者ではないからなぁ」
『まったく嘆かわしい。そうやって直面した神秘に目を向けないことで見逃されてきた英知がどれほどあることか』
「ははは、そう言うな。全ての者が賢くあるなど、それこそ世界が窮屈になりそうだ」
『ハァ。ま、その考えも否定はできんがな』
笑うニックに苦笑するオーゼン。そんな話をしながらもニックは宿へと戻り、軽い食事と仮眠をとって過ごすこと三時間。約束通り再びシミールの店に入ると、神妙な顔をした職人兄弟がニックを出迎えてくれた。そんな中まず口を開いたのは、むすっとした表情のソメオだ。
「来たか」
「うむ。で、どうだったのだ?」
「これをどうぞ」
ニックの問いに、兄と同じく静かな物腰でシミールがニックに小さな布きれを差し出してくる。それを手にしたところで、ニックの目が僅かに驚きで見開かれた。
「これは…………」
「……ああ。会心のできだ!」
ニックの手のひらほどの大きさの布きれは、深く光沢のある紫色に染め上げられていた。その美しさに目を奪われるニックに抑えきれない興奮を声に込めてソメオがニンマリと笑い、それに続いてウズウズと弾むような調子でシミールも口を開く。
「どうです? 凄いでしょう!? それ、別に上質な布を使ったとかじゃないんですよ?」
「む、そうなのか?」
「ハッハッハ、そこが俺達のイロイム染めの凄いところだ! 通常の染め物と違って、布の上に重なるように染色液が行き渡るから、よっぽど目の粗い布以外ならしっとりした手触りと光沢を持つ最高の染め上がりにできる!
ま、その仕上げができるのは俺とシミールだけだけどな!」
「なるほど、腕のいい職人が独自の製法で作った特殊な染料を使った結果がこれということか。確かにこれなら人気にもなるだろう。ぱっと見新品同様と評されるのも納得だ」
勇者の父として世界中を回り、王侯貴族との謁見などの際に本物の高級素材に触れてきたニックからすると、今手にしている布はそこからグッと落ちて、よほど審美眼が曇っていない限り騙されるような者は皆無だろうと断言できる。
だが何十、何百倍と値段が違えばそれは当然のことであり、市井の民が身に纏うような布きれを安価でここまでのものに仕上げているということこそが凄い。得意げな顔で胸を張るソメオに、ニックは改めて感嘆の念を抱いた。
ちなみにだが、ここまでのできになっているのはソメオが本気で作業をしたからであり、通常シミールの店で扱っているイロイム染めではこうはならない。手を抜いているわけではないが、そこは費用対効果と客層の棲み分けの問題である。
「で、だ。コイツが成功したってことで、アンタに相談がある。報酬を倍にするから、もう五〇匹ずつアカイムとアオイムを捕まえてきてくれねーか?」
「ほぅ?」
挑戦的な深い笑みを浮かべて言うソメオに、ニックはピクリと眉を釣り上げる。
「報酬を倍、ということは……」
「ああ。流石にもう染めちまった分を染め直すほどの手間はかけられねーが、まだ染めてない服は大量に残ってる。そいつを全部コレで染め上げてやれば……」
「ふふふ、それは確かに倍は驚くであろうな」
歴史として語られるような遙かな昔と違って、現代であれば紫を出せる染料は幾つもある。ものによっては安価で調達出来る素材から調合できるものもあるため、全ての紫が高価というわけではない。
が、依然として紫が高貴な色という概念は残っているし、元が暗めの色なだけに下手な職人、安い材料で染められた紫というのはくすんで汚い色になりがちで、だからこそシミールの言った「美しい紫を染めることこそ職人の腕の見せ所」というのは正しい。
そして、ニックが今見せられた紫の布は真なる最高級にはほど遠くても十分に美しい。少なくともこれを何十何百人もの平民が身に纏っている光景を目にしたならば、まともな美意識と金銭感覚を持つ貴族であれば度肝を抜かれることだろう。
「でも、いいの兄さん? そんなことしたら貴族様に目をつけられたりするんじゃ……」
「ハッ! 最初に無理難題をふっかけてきたのは向こうなんだぜ? それに対して俺達は、職人の意地にかけて最高の答えを用意するだけだ。それで文句を言ってくるってんなら、こう言ってやりゃあいい! 『もしご入り用でしたら、貴方様の服も我々の手で綺麗に染めさせていただきますよ?』ってな!」
心配そうな顔をする弟に、ソメオはとても悪い顔をして笑う。そのあまりにも楽しげな表情を前に、シミールは言葉を失ってしまう。
「兄さん……」
「何だ、とめるのか? もっと無難に謙って、嵐が通り過ぎてから動き出すってのが確かに無難なんだろうが――」
「違うよ兄さん」
いつものことと言い訳を考え始めた兄に、シミールはゆっくりと首を横に振る。
「やろう、兄さん。僕だって染め物職人なんだ。なら知りたい。僕達の『紫』が、本物の貴族様に何処まで通じるのか見てみたい。
だから兄さん……やるなら全力だよ?」
自分の制止など兄が聞かないことはよくわかっているし、自分の中にもそういう気持ちがある。見た目も性格も正反対だとよく言われるソメオとシミールだったが、その根底に燃える魂は、間違いなく兄弟なのだ。
「クッ、ハッハッハ! 当たり前だシミール! 俺達兄弟の力、何処の誰とも知らない貴族様に見せつけてやろうぜ!」
「ああ! ということなんで、お願いできますかニックさん?」
「フッ。この流れで儂が断ると思うか?」
ソメオが伸ばした手をシミールがバシンと音を立てて掴み、そんな二人の握手の上にニックが自らの大きな手を重ねる。
三人の男の心が、今再び一つになる。新たに目指す高い目標に向かって、ニック達は残りの日数を全力で邁進するのだった。
※はみ出しお父さん クサイムの生態
豊富な栄養を得て一定以上に育ったクサイムは、その体を分裂させて増殖します。ただしこれは繁殖というよりは排泄に近く、切り離された方のクサイムはその時点では一切の自立活動をしません。その状態で三日ほどかけて周囲から魔力を吸収することで体内に極小の魔石が精製され、そこで初めて「クサイム」になる……というのが一般に知られている情報です。
が、実はそれとは別に、突然見知らぬ空間に追いやられたり捕食者に追い立てられたり等で強い脅威を感じると、生存確率を上げるために近くの個体と融合して自己の強化を図る習性もあります。この際二つの魔石が共存することはなく、より小さい方が体内で砕けて一気に魔力を放出することでもう片方の魔石が僅かに成長し、その分だけ強くなります。
大抵の場所に生息でき、あらゆる魔族、魔物などの中で唯一魔石の力を同族に継承させることが可能な、理論上は無限に強くなることのできる存在。かくも偉大なクサイムの力が正しく世界に認知される日は……多分来ないです(笑)