父、捕らえる
『それでどうするのだ? あの二人がやっていたように、貴様もクサイムの前で花を振ってみるのか?』
予期せぬ高速移動に対するちょっとした意趣返しのつもりで、オーゼンがからかうようにそう言葉を掛ける。実際ニックほどの大男がしゃがみ込んでクサイムの前で花を振る光景は、確かに一種滑稽ではあるだろう。
だが、そんなオーゼンの目論見を打ち砕くようにニックはニヤリと笑みを浮かべる。
「ふふふ、実はちょっと考えていたことがあってな。まあ見ているがよい」
そう言ってニックは花畑の中央付近に口を広げた麻袋を設置すると、花畑と草原の境目となる外側の方へ移動していく。
『? こんなに離れて何をするつもりだ?』
「うむ、それはな……こうするのだ!」
瞬間、ニックの前に存在する『世界』が変わった。粘つく空気は吹き抜ける風すら地に落とし、降り注ぐ日差しは刺すように痛い。然りとて大地は硬く冷たくなり、ただそこに居るだけで終焉を感じさせる……そんな気配がニックの体からゆっくりと広がっていく。
ぷにょろん!?
そんな世界の変容は、ほとんど本能だけで生きているクサイム達にも感じ取れた。迫り来る死の臭いに、真っ赤なクサイム達は必死にそれから逃げようとプニョプニョ体を弾ませる。
だが、逃げられない。逃げ切れない。ある程度まで進むと、その気配を発している恐ろしい何かが一瞬にして背後から消え、代わりに横や前から現れる。何処に行ってもどう進んでも気配は行く手に立ち塞がり、まるで見えない壁に押しやられるようにクサイム達が押しやられていく。
ぷにょぷにょぷにょぷにょ……
そうして遂に、クサイム達は逃げる場所を失った。真っ赤な大地の中央で恐怖にその身を震わせながら仲間達と身を寄せ合うクサイム達の足下には、血のように赤い麻袋が大きな口を開いている。
それを確認したことで、恐怖の権化にして根源たる巨人の姿がその気配と共に掻き消えて……次の瞬間。
「よっと!」
麻袋の口を掴んで素早く持ち上げることで、ニックはそこに集まっていたアカイム達を一気に袋の中に押し込める事に成功した。一応中を確認すると、そこにはいい具合にアカイム達がプニョプニョと詰まっているのが見て取れる。
「うむ、大漁だな!」
『何と言うか……なんとなくむごい気がするな』
「そうか? 確かに殺して染料の材料とするのだから間違ってはおらんだろうが、そんなことを言っていたら何もできなくなってしまうぞ?」
『それはわかっているのだがな……すまぬ、忘れてくれ』
子供が見たら泣き出しそうな顔をする筋肉親父によって追いつめられるクサイム達という構図に、何処か弱者を虐げるような妄想を重ねてしまったオーゼンだが、自然の摂理から目を背けるほど愚かな思想に傾倒するはずもない。
すぐに謝罪したオーゼンにニックも気にすること無くアカイムの詰まった麻袋をひょいと担ぎ上げると、そこで初めてニックの表情が厳しいものになった。
「さて、ではここはこれでいいとして……問題は次だな」
『ん? 何がだ? 捕まえる方は今と同じようにすればいいだろうし、移動だって貴様ならばあっという間……っと、そうか、速度が出せんのか』
「そういうことだ」
ニックだけなら、徒歩で四、五時間の距離などそれこそ瞬き一つの間に駆け抜けることができる。が、衝撃に弱いクサイムの入った麻袋を担いでそんな速度を出したりしたら、中身のクサイムは間違いなく弾け飛んでしまう。
「この場で処理できるのであれば魔法の鞄に入れればすむのだが、儂にはこれをどうするのかわからんからな。生け捕りを要求されているからにはこのまま無事に届けねば意味がない。
ということで、できるだけ麻袋に衝撃を与えないよう一定の速度で可能な限り急ぐことにする。さっきに比べればあくびが出るほど遅いだろうが、それでも一応警告はしておくからな?」
『わかったわかった。あんな訳のわからない速度でないのであれば、我とて過剰反応するつもりはない』
「ならいいのだ。では行くぞ!」
苦い声を出すオーゼンに笑って答えると、ニックは大事に麻袋を胸で抱えつつ走り出した。まずは右足で水を掻くように地を蹴ると、麻袋を抱えた上半身がまるで滑るようななめらかさで勢いよく前に進む。
そうしてただの一蹴りで数メートル前進すると、今度はグッと膝を曲げて折りたたまれていた左足が前に伸ばされ、同じく水を掻くように大地を蹴る。当然今度もニックの状態は一切ぶれることなくスッと前に進み、まるで名馬の襲歩のような動作の繰り返しによってニックの体は「残像を残す速度で回転する足と微動だにしない上半身」という途轍もなく奇妙な光景を残して草原を駆け抜けていく。
(これは酷い……)
そんな相棒の姿に、決して声には出さず、だが内心でどうしようもない呟きを漏らすオーゼン。ニックの並外れた筋力と体幹があってこそ実現されるその移動法により、五時間かかるはずの道のりを踏破して青い花畑に辿り着いたのは、それから僅か三〇分後の事であった。
「ふぅ。こういう特別な走り方はやはり少し気疲れするな……ん? どうしたオーゼン?」
『いや、何と言うか……本当に貴様はどうかしているな、と改めて思ったのだ』
「何だそれは!? 今回はそこまで速くはなかったであろう!?」
『そういうことではなくてだな。どうして二足であんな走り方ができるのかとか、そしてそれをこんなに長時間一切速度を落とすことなく維持できるのかとか、全てが我の予想の斜め上をいっているというか……まあ貴様だからな』
「むぅ」
決して褒められているわけではなく、かといって貶されているのとも違うオーゼンの感想にニックは微妙な表情で唸り声をあげて僅かに不満を表明する。もっとも理解不能なほどに奇っ怪な動きを見せつけられたオーゼンからすれば、その程度は何処吹く風だ。
『どうした? 急いでいるのだから、さっさとクサイムを……こっちのはアオイムだったか? それを捕まえんか』
「わかっておるが、どうにも腑に落ちんというか、この気持ちをどうするべきかと思ってな」
『そんなもの、目の前のクサイム達にぶつければよいではないか』
「おお、それもそうだな!」
オーゼンのその言葉に、ニックはポンと手を打ち鳴らしてから麻袋を設置すると、一層の気合いを入れてアオイム達を威嚇し始めた。すると当然ながらアオイム達もプニョプニョと怯えて移動を始め、螺旋を描いて中央へと集まっていく。
(我が言っておいてなんだが、それでいいのか……? まあ本人がいいならいいのだが)
そんなニックの単純さに呆れと賞賛と疑問を複雑に混ぜ合わせた感情をオーゼンが抱いている間にもアオイム達の追い込みは終わり、先程よりも更に短い時間で麻袋一杯のアオイムを捕獲することに成功した。
「よし、では後は町に戻るだけだな」
『一応聞くのだが、またさっきの走り方をするのか? 二つは胸に抱えられまい?』
「うん? 確かに前で抱えた方が安定はするが、別に肩に背負っても問題ないぞ?」
『両手で胸に抱え込んでいたものを、片手で肩から提げる……しかも両肩にだぞ?』
「? それで何か変わるのか?」
普通に考えて、一つの荷物を胸に抱えるのと両肩それぞれに荷物を担ぐのでは均衡の取りやすさには雲泥の差がある。重心の位置が体の中央から外側、しかも左右に分散されるとなれば、担ぐものの重さによっては走る事すらままならなくなるだろうし、荷物に与える衝撃もずっと大きくなる。
だが、ニックにとってそれは些細な違いでしかない。感覚的には小さな綿毛ほどの重量物が体のどこについていようと関係ないし、ちょっと腕の位置が固定される程度で鍛え抜かれた体幹が乱れることなどあり得ない。
『…………そうだな、何も変わらんな』
「おかしな事を聞く奴だな。では帰還するぞ!」
言葉を失うオーゼンに不思議そうにそう言うと、ニックが再び謎の足運びで街道を駆け抜ける。その結果空が赤く染まり始めた頃には、ニックは町中へと帰り着いていた。